ピアノ修復師山本宣夫さんインタビュー(中)

掲載日:2004年8月1日

レクチャーコンサートシリーズ「ピアノはいつピアノになったか?」公演に古楽器(ピリオド楽器)のフォルテピアノを提供してくれた「フォルテピアノ ヤマモトコレクション」代表・山本宣夫さんの歩みを辿る連載第2回。ウィーンの名門楽器メーカー、ベーゼンドルファー社での研修が軌道に乗り始めたころ、山本さんは研修仲間のドイツ人から、この町随一の博物館に誘われた。オーストリア国立ウィーン芸術史博物館。モーツァルトやベートーヴェンらの生きた時代に使われたフォルテピアノが展示されていた。
 
この博物館の収蔵品は、数百年にわたりヨーロッパに君臨したハプスブルク家の歴代皇帝の収集品が軸。フォルテピアノを含む「古楽器部」は、ウィーン市内の新王宮にあった。1913年に造られ、翼を広げたような建物の威容が、かつての王家の権勢を偲ばせる。 
 
大理石の壁、まばゆいばかりのシャンデリア。往時の王室そのままの、絢爛豪華な雰囲気に包まれ、70台ものフォルテピアノが息づいていた。木製で、小さく、華奢な楽器。ふだん見慣れた、黒くて重く、頑丈なピアノとは全く違う。音を聴きたいが、楽器には手を触れられない。鍵盤こそ見えたけれど、弦や響板の上の蓋は閉じられ、内部は見当もつかない。でも僕は、古い楽器の傍らでファンタジーを膨らませるだけで嬉しくて、毎週一度は通った。ただベーゼンドルファーの終業は午後3時30分。電車に飛び乗っても、1時間ほどで閉館になる。得心のいくまで見たかったが、研修は結構忙しく、思うに任せない。そうこうするうち、帰国の日になってしまった。 
 

85年9月、帰国。堺の工房には、山のような仕事が待っていた。
 
 修業の甲斐あって音づくりには自信がつき、慌しいながら充実した毎日。でも楽器のことが忘れられない。「ヨーロッパの音」の手掛かりが、あるに違いない。ウィーンへ気持ちは逸りましたが、現代のピアノの修理で生活の基盤を築くのが先決と考え、じっくり取り組むことにしたんです。研修で言葉で苦労したこともあったし、未来を睨みドイツ語会話を習い始めました。週2回、夕方に堂島の学校に通うんですが、授業が終わると職場にとんぼ返り。予習や復習の時間は殆ど取れなかった。でも、続けました。 
 
帰国から2年後の87年夏、山本さんは再びウィーンに向かう。逗留は3カ月。憧れの博物館で楽器をたっぷり見るためだった。
 
毎朝、入場券を買って入り、フォルテピアノを一台ずつ目に焼き付ける。あまり専門的な質問を重ねるもので、警備員が音を上げ「工房があるから、そこで修復家に尋ねろ」と言ったんです。博物館に、そんな部署があるなど、日本では思いもしない。ぜひ工房を見たい。そのためには、自分がキャリアを積んだ技術者であることを、相手にキチンと伝えなくてはなりません。下宿で履歴書を書き、ドイツ語で自己紹介の練習を重ねました。 
 
そして1週間後の朝。山本さんは新王宮の3階、古楽器部の部屋の前に立った。
 
扉が開くと、柔和な青年が微笑んでいた。アルフォンス・フーバー。古楽器部の、すべての楽器を維持・管理している主任でした。握手を交わした瞬間、彼の肩越しに、工房の中が見えた。作業台にフォルテピアノがあお向けに置いてある。それこそが、僕が見たいと念じた「現場」でした。履歴書を示し、暗誦したドイツ語で思いのたけを語ったところ、招き入れてくれた。床に木材が転がり、壁には文献資料や工具。ピアノを2、3台も置けばいっぱいになる、小じんまりした部屋でしたが、僕には時空を超え、広大な「未知の世界」へ導いてくれる空間。その日は終日、彼の仕事を見学させてもらった。修復の心臓部を目の当たりにし、たった一日では満足できなくなり、夕方、帰り支度を始めたアルフォンスに意を決して「明日も来て良いか」と尋ねたんです。柔和な彼も戸惑いの表情を浮かべました。工房は修復家の城。見知らぬ東洋人に見せたのは、彼の厚意です。また入れることに、抵抗がないわけはない。でも僕の懇願ぶりに気おされたのか了解してくれた。  
 
アルフォンスが、日本の伝統文化に興味を持っていたことが幸いしたのかもしれない。一日、また一日。工房に通う日は続いた。
 
ある日、アルフォンスの作業を見て「僕ならこうする」と言っちゃったんです。僕はピアノの専門家。彼がどんな作業をしているか、見れば分かります。彼の手元がやや心もとなく、思わず口を突いたアドバイスでした。喜んでくれました。「名案だ。もっと早く言ってくれよ」-―。一緒に修復をするようになりました。彼は大学で音楽を専攻した学究肌。教養を基盤に、修復の経験を積んでいた。ただ専門はチェンバロで、現代のピアノの製作や修理の経験もない。フォルテピアノには手を焼いていたんでしょう。僕の意見が、修復に生かされることが多くなり、そのうち「ノブオ、見習にならないか」と誘ってくれたんです。ウィーンは、もちろんピアノの技術者が多い。僕を選んだのは、ベーゼンドルファーで修業したことに加え、同世代でウマが合うことが分かってきたから。僕にすれば憧れの修復に、しかも本場の工房で携われる。天に昇る気持ちでした。 
 

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◇ウィーン芸術史博物館でアルフォンス(右)と=1990年◇


そして89年、山本さんはオーストリア政府の許可を得、一年に3カ月、工房で働く客員修復家となる。ヨーロッパの代表的博物館の楽器修復工房に日本人が雇用されたのは初。
 
工房には、お隣ドイツをはじめ、ヨーロッパのさまざまな博物館の職員が見学に来る。建物はもともと宮殿。訪問者は、かしこまった感じで、まるで「ウィーン詣で」。それだけに、アルフォンスの仕事にはプライドやこだわりが感じられた。例えば、木を響板に仕立てていく工程。電気鉋(かんな)を使えば、一瞬で外観上は製材できてしまう。ところが彼は、楽器が作られた当時の鉋を使う。「古い楽器の修復は、当時の手法・技法で」。これが博物館の原則です。しかも木の状態を指で読み、癖を確かめて行う手作業に、丸一日はかける。当時、日本の楽器製作・修復の現場には、「時は金なり」式の、効率至上主義が幅を利かせていた。浜松や京都での修業を通じ、僕も無意識に、そんな考えに馴染んでいたんですが、ウィーンに流れる時間は、全く別だった。アルフォンスが意識していたのは、百年後の同僚の目。自分が持てる知識と技をすべて注ぎ込み、一台一台、ベストの修復を目指していた。「本場」の、プロ意識。僕が仕事をする上での大きな手本になりました。 
 
チャンスをつかんだ山本さん。丁度このころ博物館は、一つの計画を進めていた。
 
モーツァルトの、没後200年の節目が1991年に迫っていた。博物館の肝いりで、彼が生きた時代、1795年に製造されたフォルテピアノを修復し、記念コンサートを開くプロジェクトです。古楽器部としては、腕の見せどころ。僕とアルフォンス、2人で事業を進めることになった。楽器のゆがみを直し、木の割れた部分を埋め、欠損した部品を補うため、時代考証して材料を確保し、加工し、調整し、、、。どれもこれも初めての経験。くたくたに疲れて帰途、バスで眠り込み、終点で目が覚めることが何度もありました。青春の思い出です。西洋音楽の歴史と伝統を引き継ぐ工房で、学術的な裏付けをもった同僚と実践を積む。フォルテピアノの修復家になるうえで、これ以上の経験は無かった。コンサートは、91年4月。会場は、新王宮の大理石の間でした。演奏はパウル=バドゥラ・スコダ。イェルク・デームス、フリードリヒ・グルダと共に"ウィーン三羽烏"と言われた巨匠です。コンサートの形で、フォルテピアノの音色を本格的に聴いたのはこの時が初めて。音量は大きくないけれど、柔らかな木の響きがし、人間の肉声に近いように感じた。それは、聞き慣れた現代のピアノの、金属的な音とは異なっていて、モーツァルトの音楽そのものが、これまでとは全く違う姿で立ち現れてきたのです。「この感動を、ぜひ日本の人々に伝えたい」。そう強く思うようになりました。 
 
これを機に自ら古楽器収集と修復を日本で始めるようになった山本さん。ウィーンでの仕事が、「世界最初のピアノ」といわれるクリストーフォリの楽器復元に繋がっていく。