ピアノ修復師山本宣夫さんインタビュー(上)

掲載日:2004年6月1日

▲ベーゼンドルファーでの修行時代 

6月、第6回公演を迎えるレクチャーコンサートシリーズ「ピアノはいつピアノになったか?」。初回「ピアノの誕生」に用いたバルトロメオ・クリストーフォリ(1726年 イタリア)以来、舞台に応じた古楽器(ピリオド楽器)をしばしば提供してくれているのは、大阪府堺市在住の山本宣夫さん。日本での修業を経てウィーンの名門ベーゼンドルファー社でも研さん、オーストリア国立芸術史博物館でも古楽器の修復を学んだ"筋金入りのピアノ修復師"だ。活動拠点の「フォルテピアノ ヤマモトコクレクション」(同市大美野 スペース クリストーフォリ堺)には、山本さんが心血を注いで復元、修復してきた貴重な収蔵品が並ぶ。黒塗りのグランドピアノ全盛の現代にあって、いにしえの楽器とその音色を通し音楽の"再発見"を願う山本さん。その歩みと、古楽器に寄せる思いなどを紹介する。

1948年、堺市の生まれ。中学時代、ピアノ調律師だった父の仕事を継ぐ決心を固め、66年、高校卒業と同時に浜松のピアノメーカーに就職。4年間、製造を手掛けた。70年には京都の修理工房に移り、修理・調律に携わるようになった。 
 
職場は京都の北、紫野の京都ピアノサービスセンター。師匠は松永栄ニさんでした。千利休ゆかりの、大徳寺のすぐ西です。3年間の修業が終わり、御礼奉公を始めると同時に、身の振り方を考えるようになりました。ピアノはヨーロッパで生まれた。当時、日本のメーカーも良い楽器を開発してはいましたが、伝統も違えば、製作の理念も異なり、音にも歴然と差がある。ヨーロッパに永住し、本場の伝統を身に付けようと本気で考え、日本ピアノ調律師協会のヨーロッパ視察旅行に参加してドイツのハンブルクに出掛け、ある楽器商と雇用契約まで交わしたんです。 
 
ところが、国際情勢が山本さんに思わぬ余波をもたらす。オイルショック。73年秋の、中東戦争を機に原油価格が高騰、世界は大混乱。ヨーロッパ経済も大きく揺れた。
 
結局、この就職はお流れに。残ったのが借金。格安航空券なんて、まだ無い時代です。ドイツ行きは旅費、滞在費で100万円かかった。でも京都の仕事は、まだ見習い給で返済は大変。日中は修理を続け、早朝に牛乳配達のアルバイトもしました。軽トラックに牛乳ビン積んで、鴨川沿いを走っていると、何だか心細くてね。そうこうするうち、年季も明けて独立です。幸い、大阪市内のある百貨店内で売れた楽器のアフタケアを引き受けるようになりました。昼間は外回りで家庭のピアノの調律、夜は修理。工房用に借りたのは生野区のアパート。広さ6畳で家賃5千円。昼間も電灯を点けないと薄暗い。引き取ったピアノは部屋の外、廊下で分解し、部屋で直して、また外で組み立てる。一度、部屋で完成させてしまい、出せなくなったこともありましたよ(笑)。すぐ目の回る忙しさになり、床には部品や工具、木材がごろごろ。その隙間に布団を敷き、夜明けを感じながら眠ったもんです。 
 
デパートの仕事は底固く、仕事は増える一方。従業員を抱えるようになり、工房は故郷・堺に移転。独立は順調に軌道に乗ったが、修業時代に抱いたヨーロッパへの憧れはどうなったのだろうか。
 
「ヨーロッパに行けない」と、嘆いていても仕方ない。それより自分の周囲にヨーロッパを作ろう-と発想を転換した。ヨーロッパの中古ピアノを輸入して再生し、消費者に提供しようと思ったんです。自分で本場のピアノの修理を手掛けるようになると、不安が膨らんできた。もちろん部品は替えられる。ヨーロッパのピアノが理想とする音自体は、もう分かるようになっていましたが、(ピアノの弦を叩く)ハンマーの調整が、やや心もとない。弦を叩くのは、ハンマーの先に巻きつけてあるフェルト。その固さを、どう調整したら良いのか。ヨーロッパの出荷直前の調整の実際を、どうしても確かめたい。それには現地で修業しなくては、という思いが募ってきた。ドイツ語を習い始めたのはこのころ。週2回、仕事をやり繰りして通いました。 
 
そのドイツ語を使う時が到来する。ヨーロッパの代表的なピアノメーカー、ベーゼンドルファー(ウィーン)のレドラー社長が来日、静岡の日本総代理店に立ち寄るというのだ。かねて関係者に「夢」を伝えていた山本さん。社長に直接、研修留学を依頼する場を、設けてもらえた。
 
 自分の熱意を感じてもらえるように、何度ドイツ語を唱えたことか。返事は「OK。ぜひ来なさい」。自分の前に、道が広がるようでした。ベーゼンドルファーを志願したのは1828年創業の老舗で、19世紀の伝統を受け継ぐ世界の名門だったから。ベーゼンドルファーの方でも、日本に輸出した自社製品のメンテができる人材養成が必要だったことも、大きかったと思います。  
 
同社に受け入れられた日本人は、山本さんが最初ではなかった。多くは2、3年滞在し、製造から仕上げ、整調から整音までの全工程を体験する。しかし、山本さんは半年の研修を希望する。
 
 浜松と京都で実践を積んできたわけですし、堺の仕事もあります。僕が知りたかったのは、最後の音づくりだけでした。憧れのウィーンに降り立ったのは85年4月。ハンブルクでの職探しから、10年も経っていました。研修先は、ウィーンの名所として知られるベルヴェデーレ宮殿のすぐ側。もともと修道院で小じんまりしており、工場というより大きめの工房という感じでした。初日、職人たちに紹介され、晴れて「世界のベーゼン」研修生です。大阪で悩んだのがハンマーの整音技術。ハンマーの調整は、巻かれたフェルトに針を刺して適度に柔らかくする。刺す場所、回数、針を入れる角度、針の本数など無数のノウハウが絶妙に絡み合い、うまく組み合わせた時理想の音づくりが出来る。でも具体的にどうしたら良いか。これは経験を重ねるしかないわけです。職人は一人ひとり、小さな作業部屋をあてがわれており、隣室でも、ウィーン人の同僚が同じ工程をこなしている。「習うより盗め」なんて言いますが、そう何度も覗くわけにいかない。やむなく堺での仕事のまま、針を刺し主任に持って行くと、最初は見向きもしない。日本にいた頃から知ってはいましたが、ヨーロッパのピアノのフェルトは日本のより固く巻いてあり、ほぐすのに手間がかかる。だから音づくりも、日本だとせいぜい数時間で済むのに、ベーゼンドルファーでは1週間は費やすのが普通だった。老舗の誇りを持つ彼らにしてみれば、「そんな時間で一体何ができる」だったでしょうね。何度やっても「Nein(ダメ)、Nein、もう一度」。高音はもっと伸びやかに、低音はもっと力強く-。彼らの注文は抽象的でした。洋の東西は違っても、同じ職人同士。「技術は自分で習得しろ」ということなんだな、とピンと来ました。でも、こんな日が3週間も続くと、食事も喉を通らない。  
 
「落ち込み」の背景には言葉の問題もあった。山本さんも周囲も、コミュニケーションできないもどかしさがあったのかもしれない。
 
 あっちの工房は朝が早い。始業は6時15分。終わるのも早くて午後3時15分以降は自分の時間。人生を楽しむのがウィーン流。仲間はヴァイオリンだのチェロだの持って、どこかに散っていく。こちらはハンマー相手に悪戦苦闘。殆どノイローゼで、寮に戻っても疲れで倒れんばかり。堺に戻った方が良いんじゃないか-と悶々としていたある夜、夢を見たんです。僕はいつも通り黙々と針刺し作業をしている。ハンマーのある場所に、ある角度で針を懸命に刺してみたら、何と思い通りの音が出るようになったんです。『やった! 出来たぞ!』-。叫んだところで目が覚めた。そして翌日、夢の通りに試してみたら、何と出たんです。これまた夢で見た通りの逞しい低音と、伸びやかな高音が。「やり直し」としか言わなかった主任も「素晴らしい音だ。これで良い」。ニヤリと笑ってくれたのが嬉しかった。不思議な体験でしたが昼間、あらゆる試行錯誤を繰り返していましたから、それが夢に出たんでしょう。この後は、問題が堰(せき)を切ったように解消していきました。 
 
そんな時、同僚が誘ってくれたのが、国立芸術史博物館だった。ここで山本さんは、人生を決定づける出会いを体験することになる。