指揮者ティーア=エステル・ロイトメさんインタビュー

掲載日:2009年7月14日

世界的な「少年」合唱団といえば、ウィーン少年合唱団を挙げる人は多いだろう。ハイドンやシューベルトも在籍した、音楽の都の名門。一方、「少女」合唱団で今、最高峰と目されているのが、8月来演するエレルヘイン少女合唱団。北欧のバルト海に面するエストニアの首都タリン。ドイツとロシア、二つの大国に挟まれて古来、政治的な苦境を経験。20世紀終わりまで “辺境”と言われたこの町に本拠を置きながら、世界各地のコンクールを総なめにし、近年CDによって米国グラミー賞に輝き、脚光を浴びるトップコーラス。シラカバ林を吹き抜ける風に似た、清涼な歌声が持ち味だ。乙女を率いる女性指揮者ティーア=エステル・ロイトメさんとの一問一答。
(構成:ザ・フェニックスホール)
米グラミー賞に輝く歌声
ザ・フェニックスホール
(PH)
 合唱団メンバーは、6歳から高校生まで。どこから集めているのですか。
ロイトメ(L) タリンと近郊の町から選んでいます。
 
PH どんな指導をされているんですか?

 

L 私たち合唱団は、道場のような仕組みを持っています。最初の訓練を準備クラスで始め、試験を経てエレルヘインの本体合唱団に上がる方式です。バルトークと並ぶハンガリーの作曲家コダーイが唱えた、とても素晴らしい音楽教育法があり、それを指導基盤に据えています。彼女たちの歌声は、エストニアの海や花、そして春に舞うチョウのように美しく感じられますが、女声合唱だけではなく、RAM(エストニア国立男声合唱団)など関係組織と手を携え、混声合唱にも取り組んでいます。

 PH あなたは彼女たちに、何を学んでほしいと願っていますか。

L 音楽理論の教育や、声のトレーニングを施すのはもちろんですが、歌うことを通じ「生きること」そのものを学んでほしい。物事の本質を見極める大切さ。忍耐や、挑戦する勇気。人を思いやること、愛すること。そして働くことの意味もつかんでほしい。

 
PH 合唱団を経て、どんな職業に就く人が多いのでしょうか。みな音楽家になるんですか?

 

L ありとあらゆる仕事をしています。医師、弁護士、運動選手、女優、ジャーナリストもいます。母親になり、自分の子どもをエレルヘインに連れてくる者もいます。
 
PH あなた自身は、どんな経緯でエレルヘインの指揮者になったのですか。

 

L まず1970年に、副指揮者に起用されたんです。勉強を重ね、その19年後、創設者だった先生から引き継ぎました。彼、ヘイノ・カリユステは、亡くなる直前まで、この合唱団を指揮し、芸術的な発展を推し進めた、偉大な人物です。引き継いだ後は、もちろん責任が増しましたけれど、愛らしい少女たちに囲まれ、毎日を楽しんで過ごしてきました。もう20年になります。
 
PH 故国エストニアでは旧ソ連に編入されていた時代を含め、「歌うこと」それ自体が社会の中で特別な役目を果たしていたそうですね。

 

L 歌は、生活そのものです。私たちは古くから家庭や学校はもちろん職場でも、時間さえあれば合唱を楽しんできました。(旧ソ連からの独立の際、政治的にも大きな影響を与えたといわれる国民的イベント)「歌の祭典」では、歌は大きなうねりとなり、「民族の絆」を実感します。自由を求める民衆の思いを世界に発信した「歌う革命」のころ、エレルヘインは文字通り社会をリードしました。
 
PH 今回のプログラムについて、ご紹介ください。

 

L エストニアの合唱曲を軸にお楽しみいただきます。旧ソ連崩壊後、欧米では私たちエストニアの作曲家の作品が演奏されるようになってきました。中でもアルヴォ・ペルトの曲は、ヴァイオリンのギドン・クレーメル、チェロのダヴィッド・ゲリンガス、指揮者のネーメ・ヤルヴィ、その息子のパーヴォ・ヤルヴィといった音楽家が世界中で盛んに取り上げています。今回の「詩篇122 エルサレムよ 平和であれ」も、敬虔な平和への祈りそのものの、癒しに満ちた音楽です。私の恩師エルネサクスの曲も歌います。「歌う革命」の折、独立を勝ち取る原動力となった民族の第二の国歌「我が祖国、我が愛」を作ったのは彼です。今回は、愛しい人を待ちわびる切ない気持ちを綴った「窓辺の鳩」をお聞かせしましょう。また「声」は同時代の作曲家、関口知宏さんがエストニアとの出合いを音にした曲を、西村英将さんが美しくアレンジしました。お客様と声を合わせて歌う場面を、楽しみにしています。
 

 

loitmeティーア=エステル・ロイトメ(指揮) 

1933年タリン市生まれ。タリン国立音楽院指揮科で、グスタフ・エルネサクスに師事。70年から、ヘイノ・カリユステ率いるタリン児童合唱団(エレルヘイン少女合唱団の前身)で副指揮者を始める。75年から6年間、母校の講師を務め、80年には旧ソ連時代のモスクワ音楽院でも研さんした。89年、カリユステの後を継ぎ、同合唱団の指揮者に就任。全日本合唱連盟などの招聘で講師として来日。2008年には、「日本の音楽の発展とエストニアとの友好親善に寄与した」として、外国人叙勲・旭日小綬賞を受章した。