Prime Interview 菊池洋子さん

掲載日:2023年9月13日

「色々な私の思いが詰まったプログラムになっています。ぜひお聴きいただけたら…」。11月にザ・フェニックスホールの「ティータイムコンサート」に初登場する、ピアニストの菊池洋子は話す。2002年にモーツァルト国際コンクールを日本人として初めて制し、ザルツブルク音楽祭に出演を果たすなど、ソリストとしてはもちろん、室内楽や国内外の主要オーケストラとの共演まで幅広い活動を展開し、今や人気・実力ともに日本を代表するピアニストの一人として活躍する彼女。ステージでは、ライフワークに位置づけているモーツァルトと、「ようやく自分なりの表現が見つけられた」というショパンの佳品を聴かせる。「一つ一つの音を大切にするのはもちろん、何よりも、きちんと“歌”になっていなければ。そのため、実際にピアノの旋律へ詞を付けて歌い、そのように弾けているかを常に考えています」と菊池。彩りと生気に満ちた“謳うピアノ”で、2人の大作曲家の新たなる魅力を紡ぐ。
(寺西肇 音楽ジャーナリスト)

 

 

「夭折の天才」2人の佳品から新たな魅力を

 

 

 

 11月のステージの前半は、菊池が「モーツァルトのソナタの中でも、特にお気に入り」だと明かすニ長調K.311が軸に。さらに、しばしばソナタの前に「幻想曲」が弾かれたモーツァルトの時代の習慣に倣い、作曲家の死生観が投影されたような、深い精神性に満ちたニ短調K.397を披露。「作曲時期は少しずれますが、この幻想曲は最後にニ長調へ転調するので、ソナタとも巧く繋がると考えました」。そして、わが国では『きらきら星変奏曲』として知られる《フランス歌曲“ああ、お母さん、あなたに申しましょう”による12の変奏曲》を添える。

 

 「この変奏曲を通して聴いて、『こんなに素敵だったんですね』と仰るお客様もいらっしゃるし、私自身もステージで非常に楽しく弾いているので、ぜひ聴いて頂きたいと…誰もがご存じの有名な旋律で、演奏会が初めての方にも、親しみを持っていただけるはず」。モーツァルトには、フォルテピアノでもアプローチしている菊池。「モダン・ピアノを弾く時にも、常にフォルテピアノの音やフレージングをイメージしていますし、その経験が生きていると自分でも思っています。こうした部分も、感じ取って頂けければ、嬉しいですね」。

 

 かたや、後半の軸に据えたのはショパン、しかも“最後の大作”である『ソナタ第3番』だ。「ピアノと言えば、まずショパンですから」と笑いつつ、「ショパンも一時期、ウィーンに住みましたし、その活動拠点のパリには、モーツァルトも訪れています」。そして、このソナタは、今年のリサイタル活動の中心に。「私はバレエがとても好きで、コラボレーションをすることもあるのですが、10年ほど前に、パ・ド・ドゥ(一組の男女による舞踏)でショパンの作品を弾く機会がありました」。この経験が、自身の意識を変えたという。

 

 「巨匠たちの素晴らしい録音が数多く残されていて、今やピアニストとしてはやるべきことがなく、『これらを聴いていればいい』と、ずっと考えていたのですが…テンポ感にせよ、フレージングにせよ、全く新たな角度から作品を見ることができて、自分なりの表現を見つけられた手応えを得ました」。そして、菊池が「ショパンの集大成」と捉える大作の前には、ほぼ同時期に書かれた「子守歌」を置いた。「実質的に変奏曲の形式を採っているので、モーツァルトのフランス歌曲に基づく変奏曲とも、緩やかに繋がりますね」。

 

 ザ・フェニックスホールでの演奏は「本当にお客様との距離が近い、小さな空間なので、表現のスケール感を大きくする必要のある大ホールでの協奏曲とは、やはり意識が全く違います。より自然と言うか、一人での“語りの時間”という感覚ですね」。そして、「前半はモーツァルトのピアノ曲の中から、3つの異なるタイプの曲をお聴きいただいてリラックスしていただき…後半は、本当に美しい『子守歌』に始まり、『ソナタ 第3番』の劇的な終楽章で締め括る構成なので、きっとお楽しみいただけるはず」と語る。

 

 7月に発表したバッハ《ゴルトベルク変奏曲》の録音(エイベックス)は、大きな話題に。この作品への“開眼”は「20年以上も前、まだ10代の頃」のイタリア留学中に聴いた、アンドラーシュ・シフの演奏だったという。「余りに壮大すぎて“先が見通せない曲”と思っていたのに、80分が一瞬に感じられて…最初の一音から最後の一音まで、『この曲は、こういう作品だ』と、はっきり解りました。とても感激して、ルツェルンでのマスタークラスにも参加して、教えを請いました。そうすると、シフさんは毎年、この曲に集中的に取り組むから、こういう境地に辿り着いたと知って…私も何度か挑戦したのですが、まとまった時間も取れずに『私には、まだ早い』と逡巡して…」。

 

 転機となったのは、コロナ禍だった。「向こう半年間の演奏会が中止や延期になった時、『今しかチャンスはない』と思い、すぐに取り掛かかりました」。チェンバリストの曽根麻矢子のレッスンも受けるなど、“ゴルトベルク漬け”の半年を過ごした。「チェンバロで聴くと、本当に美しい。でも、私は“自分の楽器”で、鍵盤音楽の最高峰を弾きたい。そんな感覚でしょうか。もちろん、この“人間の一生のごとき作品”をすぐ体得できるとは思わないので、(今の演奏は)自分の“日記”の感覚。毎年、決まった時期に弾いてアップデートして…。一生、弾き続けてゆきたいですね」。

 

 さらに、フランソワ・クープランから美智子上皇后陛下まで、世界初録音を含む古今東西の29の名旋律を集成した『子守歌ファンタジー』(キングインターナショナル)も、9月に発表。今回のステージで弾くショパンの『子守歌』も収録されている。「恩師の故・田中希代子先生との不思議なご縁でお話を頂いたのですが、ほとんどの曲が初めて弾く曲。1年くらいかけて準備しました」と菊池。「出来上がった自分の録音を聴いていると、子守歌に癒されていつの間にか寝てしまい、なかなか全部を聴き通せなくて…」と苦笑する。

 

 今年3月から、本格的にウィーンへと拠点を移した。ウィーン国立音大で、アシスタント・プロフェッサーとして、後進の指導にもあたっている。「私自身にも、とても勉強になります。自分の頃に比べれば、今の学生たちは、あっという間に正確に楽譜を弾きこなすものの、正直、個性に乏しいと感じることもあります。時に『あなたは、この曲を好きで弾いているのね。だったら、どうして、そんなに急いで弾いてしまうの?』と問い掛けてしまうことも…」。

 

 自身が心惹かれる演奏は「シンプルでも、一つ一つの音に歌があり、言葉のように語り掛けて来る音楽」だと言う。今はウィーンで、敬愛するジョージア(グルジア)出身の名ピアニスト、エリザーベト・レオンスカヤの薫陶も受ける菊池。「まずは一緒に歌って、そう弾けているかどうか、一つ一つの音が“声”になっているか…というレッスンです。全てが“歌”で、しかも右手と左手がいかに巧く連携できるのか…わずか8小節に、1時間半かけることも。でも、だからこそ、先生はあれほど素敵な演奏ができるのだと実感しています」。

 

 ベートーヴェンやシューベルトのソナタへの取り組みや、モーツァルトの協奏曲の弾き振りへの再挑戦など、菊池が自らに要求する課題は数多い。かたや、ウクライナ紛争など、予断を許さない不穏な世界情勢。しかし、「精神的に大変な状況に陥った時、やはり音楽や芸術は、心の支えになるのだと実感しています。私自身も、心身ともにくたくたになって帰宅した時、1日の疲れを吹き飛ばしたり、『自分が今日経験した思いなんて、大したことない』と感じられたりする環境を創ってくれるのは『音楽』です。私も、そう感じ取って頂ける演奏をお届けできるよう、勉強を続けてゆければ」。柔らかに微笑んだ。