Prime Interview 今井信子さん

音楽アドヴァイザーとしての10年を総括

掲載日:2021年11月12日

現代を代表する名ヴィオリストとして、世界中の檜舞台で活躍を続ける一方、後進の育成に力を注ぎ、多くの先鋭的な企画を通じて、ヴィオラという楽器のイメージ自体に革命をもたらした今井信子。1992年から東京でヴィオラを主役としたシリーズ「ヴィオラスペース」を立ち上げ、2005年からは、ザ・フェニックスホールでも毎年、大阪公演を開催。2011年からは、あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホールの音楽アドヴァイザーに就任し、ヴィオラを軸に据えた多彩な企画を通じて、様々な側面から音楽の魅力を掘り下げてきた。そして今、10年と言う節目を機に、アドヴァイザーとしての立場に、ひと区切りを付けることに。ロシア出身の作曲家でピアニスト、レーラ・アウエルバッハとの12月のステージで、自身の企画シリーズを締め括る。「自分で弾いていて、いまだに新たな発見をする毎日。色々な音が出るヴィオラだからこそ、その表現力の可能性は、まだまだある」と今井。気鋭の女性アーティストとのコラボレートから、未知なる響きの宇宙を創出する。
(取材・文:寺西肇/音楽ジャーナリスト)

 

 

「どう個性を創るか」を次世代へ

 

 

 

――ザ・フェニックスホールの音楽アドヴァイザーとして、これまで手掛けられた24の企画は、ヴィオラを軸としつつ、実に多層的かつ多角的に「音楽」を捉えてきましたね。

 

 追究したのは、自分のしたいことを、若い人たちと共にやってゆくこと。ほぼ、やり尽くせたのでは…(笑)。ザ・フェニックスホールの皆さんには、私のわがままを受け容れ、時に色々と一緒に考えて下さって、本当に感謝しています。普通ならば、不可能だったでしょう。若手ながら既に十分にキャリアを重ねた、ドイツのアマリリス弦楽四重奏団と共演しての五重奏[2019年9月]は、特に楽しかったですね。普段フリーの人たちとやると、音が交わるまでに時間がかかって、なかなか“室内楽の音”にならないので…。また、ヴィオラで弾くシューベルトの《冬の旅》[2011年2月]なんて、とても冒険的なのに、気持ちよく受け入れて下さいました。

 

――あの公演は、「音楽」と「言葉」の関係性を掘り下げる、特に含蓄ある内容でした。

 言葉があると解り易いけれど、言葉がなければ、もっと色々なことが表現できるのでは、とも…。もちろん、最初は歌詞を勉強します。でも、いざ弾くとなれば、ハーモニーなどが先に来て、結局、自分の感性に頼るしかない。そこから音楽の深みが生まれるんだと思います。こないだも《詩人の恋》を弾きましたが、歌はうたえなくても…来世があったら、ぜひ歌いたいですが(笑)…本当に「美しい」と感動しました。

 

――そして、企画シリーズの締め括りを飾るのが、アウエルバッハさんとのステージですね。

 

 彼女は素晴らしいピアニストで、作曲家です。実際にお目にかかって、自作に関するお話を伺うと、新しいものを求めるというより、むしろ基礎的で古いもの、私たちが育ってきたのと同じような音楽へ立ち返る感覚で取り組まれていて、とても共鳴しました。また、感情豊かな人物で、それが作品にも反映されています。近作に「ヴィオラとピアノのための24の前奏曲」があるというので、「ぜひ、共演して弾きたい」と考えました。24曲はそれぞれ、全く雰囲気が違い、実に多彩。とても立体的で、けっこうプラスペアレント(相互の関連性が高い)ですよ。だから、1音1音が凄く大事。ヴィオラのための、45分にも及ぶ大作はなかなか無いので、とにかく楽しみですね。
そして、少しリラックスしていただこうと(笑)、ショスタコーヴィチやプロコフィエフなどの親しみ易い作品を織り交ぜます。彼女のピアノは、とても自由でロマンティック。「ショスタコーヴィチなんて、一体どういう風に弾くんだろう」とか…優れたピアニストとならば、これらの作品がいっそう面白く演れると思うので、私自身も興味津々ですね。
 

 

――コロナ禍の中、ご自身の生活は変わりましたか。

 

  昨年3月にマドリードに教えに行き、生徒たちと練習をしていたら、スペイン政府から突然、「明日から全ての学校を閉鎖せよ」との通達が…。バタバタしたと思ったら、あっという間に人がいなくなって、私も逃げるようにジュネーヴの自宅へ戻りました。1月にいたマカオからも、感染の拡大で、慌てて戻ったばかり。でも、4月には、また山ほど仕事の予定が入っていて、次のことを考えている余裕がなかったという中…全てが止まりました。
そして、全く違う生活が始まったんです。それまで40年間、出先から戻るとスーツケースの中身を空けて、すぐに詰め替えて出てゆくという状態で、家族とゆっくり過ごす時間は、ほぼ無かった。ところが、それこそ、おさんどん(台所仕事)から始まって、洗濯物の山を片づけて、孫と一緒に遊んで…ヴィオラのことすら考えない、夢のような時間を何ヵ月か過ごして、精神的にも、肉体的にも、リフレッシュできました。
 でも、暫くすると、どういうことを教えるべきか、残すべきか…様々なことを考え始めました。そして、娘に協力して貰い、生まれて初めてSNSを始めました。すると、物凄く反響があって…。それじゃあ、と、今度はヴィオラに興味のある15~22歳の人を対象に「アペタイザー(appetizer=「前菜」の意)・セッション」というのを始めて、「何を知りたいか、自分でビデオを5分ほど撮って送って下さい」と呼び掛けました。すると、僅か2日で70通ほど、世界中の至る所から返事が来て…1人あたり約15分ずつ、教えたんです。すると皆、とても喜んでくれて…こういう形で、世界の人と通じ合えたのは収穫でした。半面、オンラインだと「本当に大事なことは、伝わらないな」とも…。やっぱり、“音の在り方”が掴み辛いんですよ。

 

――芸術家としてのご心境に、変化は?

 

 こんな状況に置かれると、新しい曲を発掘するとか、しまい込んでいた楽譜の整理とか、始める
訳ですよ(笑)。すると「こんな曲があった」とか、手付かずの本が出てきて「もし全部読んだら、役立つだろうな」とか(笑)…全てが貴い時間でした。でも、様々な方向性が出てこようとも、私は結局、自分の好きな曲へと帰ってゆく。そして、弾いてみると、「こうだ」と思い込んでいたのが、「案外と違う」と新たな発見がある。曲の構造とか、解釈とかに関して「確固たるものが自分の中に無ければならない」と改めて確信しました。
ならば、それを生徒に伝えるには、どうすればいいのか。私がいくら自分の考えを述べようとも、
それは彼ら自身の考えではない。彼らにも、私自身の中でも、もっと心を触発されるような、影響し合える教え方があるんじゃないかしら、と…。かたや、難しい技巧はたくさんあるものの、やっぱり基本へ戻ることが、凄く大事だなとも感じました。

 

――今後、目指すところは?

 

 かつてレオポルド・アウアー*というヴァイオリニンの名教師がいて、門下からハイフェッツやミルシテイン、ジンバリスト、エルマンらを輩出しました。あのロシアのクラスって、どう教えていたのか、凄く興味があります。だって皆、素晴らしい名手に育ったけど、個性が全く違う。もちろん、基本はきっちり押さえた上で、結果的に、色んな要素を持ち併せた各々の奏者が「どういう風に、音楽を創るか」と考えるべきなんです。そんな面白い人材を育てなきゃ、と思います。特にヴィオラは、色んな音が出せる楽器だけに、皆同じ音や解釈で弾いても詰まらない。どうやって、そんな教育法を創ってゆくか。そして、次のジェネレーションへ伝えてゆくのか。それを確立するのが、私の夢ですね。

 

Leopold Auer(1845~1930) ハンガリー出身。19世紀最大のヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムに師事。1868年からロシアのペテルブルク音楽院で教鞭を執り、演奏史に名を残す、数多くの名手を輩出。後半生はアメリカに移り、カーティス音楽院などで指導した。