Prime Interview 森 悠子さん

「古巣」の仲間と5年ぶり共演 京都フランス音楽アカデミー創設者・ヴァイオリニスト 森 悠子さん

掲載日:2015年1月19日

「京都フランス音楽アカデミー」。毎年、桜の季節、東山の百万遍にフランスの名演奏家を講師に迎え、フランス音楽の精髄を日本の若い音楽家に伝える教育プログラムだ。創設から4半世紀を経過、講師陣や受講生のコンサートは春の音楽風物詩として定着した。創設者は高槻出身、京都在住の世界的ヴァイオリニスト森 悠子さん(元リヨン国立高等音楽院助教授)。20代半ばで渡欧、フランス拠点に国際的キャリアを築く一方、日仏を往還し活動を広げてきた。この事業は亡き恩師との約束を果たし、同時に日仏の架け橋としての使命を模索する中で構想、多くの人々の協力を得て立ち上げた。初回から音楽監督を務めていたが2011年春、執行組織の当時の幹部による体制変更に伴い、辞任した。しかし日本の音楽社会の中で、彼女にとってこのアカデミーは、またアカデミーにとって彼女は、欠かす事のできない重要なパートナー。フランス楽派の豊かな音楽によって、日本の音楽界に活気をもたらしたい。そう期した設立理念が十全に体現されてこそ、事業の存在価値は大きい。4年のブランクを経た4月4日(土)の大阪公演で、森さんとアカデミーとの協働が「復活」する。 (あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホール 谷本 裕)

森さんは1970年、桐朋学園から欧州に留学し、パリではパイヤール室内管弦楽団やフランス国立新放送管弦楽団に在籍、またリヨン国立高等音楽院助教授を務めるなど、本場の舞台や高等教育研究機関でフランス音楽を学び、奏で、また教えてきた。筋金入りの本格派だけに、アカデミーの設立役となったのは順当にも思えるが、直接の契機は何だったのだろうか。

桐朋学園の恩師、齋藤秀雄先生が亡くなる直前、「日本に戻って教育に携わる」と約束したことが大きいです。留学前、私は先生の助手をしていました。東京で東欧出身の演奏家にレッスンを受け、留学したくなったんですね。既に26歳、音楽の作り方や奏法については、見極めがつくようになっていました。先生は、弦楽器を弾く折の左手の使い方(運指)は完璧に教えられた。でも弓の動きを司る右手の使い方は、十分には教えられないことを自覚されてもいた。「右手を教えられる人に成りなさい。その原点を学んでおいで」と送り出されました。でも、パリで就いたオークレール先生(*)には「あなたはもう、学校で学ぶ必要はない」と言われた。オーケストラやアンサンブルの仕事を紹介して下さり、私は演奏家としての活動を始めることが出来た。74年のある日、齋藤先生から電話が掛かってきました。「すぐに帰って来てくれ」。苦しげな声。ガンでした。私を呼び戻し、教育活動の後継ぎにと考えられたのかもしれない。でも、仕事でツアーに出ようとしていた矢先です。まだ何も学べていないという気持ちも強く、「40歳まで待って下さい」と答え、受話器を置きました。1週間後、齋藤先生は亡くなりました。

 

 

時は流れ、森さんは活動の場を広げる。様々な室内管弦楽団での活動、作品が生まれた当時の楽器と奏法で演奏する「古楽」への傾倒、音楽祭への出演、フランス国立放送新管弦楽団メンバーとしての活動…。87年には、小澤(征爾)さんの呼び掛けで齋藤さんの弟子が集まって演奏する「サイトウ・キネン・オーケストラ」の欧州ツアーに参加。充実の最中、あの約束に直面するのである

宿泊先のウィーンのホテル前で、先生の奥様・秀子さんがメンバーを出迎えられ、声を掛けてこられた。「悠子さん、約束を覚えてらっしゃるでしょう?」。もちろん覚えていました。自分に何が出来るか、あの日から毎日考えて過ごしていました。でも日本を離れて久しく、帰りたくてもポストはない…。曖昧な返事をしました。ツアー中も、言葉が耳から離れない。パリに戻り、すぐ楽団に辞表を出しました。当時はまだアカデミー構想などありません。でも待遇に恵まれ、居心地良いオーケストラに在籍を続けたら、約束は実行できなくなる。在職10年の区切りでもありました。翌88年、パリを起点にロンドン、エッセン、プラハなどを丸一年かけ、時を遡るように逆に旅しました。留学や仕事の大切な思い出が残る場所。そこで得た教訓や知恵を思い、日本に何をもたらす事ができるか考える。私なりの「巡礼」です。お世話になったフランスにお返しもしたい。そうだ、名手を京都に招き、フランスの音楽観や音色・響き、技術を伝えてもらおう。これなら先生もきっと納得して下さる、と。

 

 

アイデアの源には、自身の体験がある。フランスでのキャリアのはじめ、自分のヴァイオリンの音色や響きがフランス人とは異質なのに気付き、日本で修得した奏法や考えを引っくり返さなくてはならなくなったのだ。

ノルマンディーの或る室内管弦楽団にエキストラに行った時のこと。リハーサルで弾き始めると、周囲が私の音を聞いて怪訝な顔をする。フランスの楽団はどこも木管セクションの響きが温かで柔らかい。弦楽器奏者は、それに相応しい音色を自分で聴き取り出し、溶け合うように弾かなくてはならない。なのに私は、カーッと突っ立つような硬い音。ソリスト志向の日本では、良しとされていたのですが、そこでは感覚がズレている。隣席の奏者を見ると、弓の持ち方やボウイング(弓遣い)が私と違うんです。フランスには「フランコ=ベルギー派」という弦楽器奏法の流派がある。ルーツはバロック時代に遡る。ギトリスやカントロフ、デュメイといった現代の名手たちまで連綿と受け継がれ、摩訶不思議な柔らかで艶やかな音色が特徴。彼らの奏法は、私が日本で習ってきた流儀とは別。いきおい、出てくる音も違う。それだけじゃない。ハーモニーについては彼らは各調性ごとの色彩感覚が鋭く、澄んだ響きを好む。リズム・拍については融通無碍で、弾力的なところがある。こうした点も違っていました。「このままだと聴き合えないし、ハモらない」。危機感を持って学んできたのは、こうした事柄です。日本の音楽大学や高校では、恐らく明治期に中欧から導入され、受け継がれてきた音楽教育が長く主流で、フランス流の音楽づくりはあまり顧みられてこなかった。それならば、フランスの大家にフランス流を教えてもらう営みは、音楽の多様性を示す上では短期でも意味があるだろう。日本はコンクールの存在が大きく、親も子もひたすら「戦い」の準備に大半のエネルギーを費やす。しかし、そんな形で国内で身に付けた演奏も、海外ではなかなか通用しない現実がある。こうした状況に向け、もっと違う、豊かな音楽の在り方を提案したい。「アンチテーゼ」を、さまざまな文化をはぐくんできた日本の古都から発信したい。そんな気持ちもありました。

 

 

 

 

1990年、森さんはアカデミーを立ち上げる。運営には、実に多くの人々の協力が不可欠だった。趣旨に賛同したフランス人講師はもちろん、場所や資金を提供してくれる関西日仏学館、助成を決めた企業、受講生を送り出してくれた日本の音楽教師、選考・審査に携わる演奏家、そして事務局スタッフ。実に多くのドラマがあった。初回アカデミーの講師は上の表の通り。フランス楽派を代表する名手、正にスーパーソリスト揃い。アカデミーの「志」が伺える。受講生は13歳以上の148人。期間は12日間だった。「1年の留学に匹敵する12日間だった」「自分の感じたことを素直に、自然に、人に分かるように表現することの大切さを知った」「このアカデミーで先生と出会えたことによって音楽観、人生観が変わった」「今、何かが自分の中で動き始めていると感じている」-。当時の受講生の残した言葉からは、アカデミーがもたらした喜びが伝わってくる。森さんはその後も、フランス楽派を今に伝える様々な講師を選び、起用してきた。2004年からは自身が心血を注いできた古楽演奏のクラスも開講するなど新機軸を打ち出し、若い演奏家を触発してきた。今後も高いクオリティでの進展を願っている。
このアカデミーで、人生が変わったという音楽家は少なくないでしょう。講師との出会いをきっかけにフランスに留学した人も多い。私は、コンクールはあまり好きではありませんが、ここで学んだ人からはロン・ティボーの小林美恵さん(ヴァイオリン)、モスクワのパガニーニの米元響子さん(同)、ルトスワフスキの中木健二さん(チェロ)といった国際コンクールで優勝した人が出ています。東京交響楽団のコンサートマスターを務めた髙木和弘さん(現・ダラス室内交響楽団コンサートマスター)や東京藝術大学准教授の玉井菜採さんら、オーケストラや教育分野で活躍する人もいます。

 

 

さて今回の公演で森さんは、アカデミー講師で旧知のブルーノ・パスキエ(ヴィオラ)やジョルジュ・プルーデルマッハー(ピアノ)と久々に再会、さらにシルヴィー・ガゾー(ヴァオリン)やドミニク・ド・ヴィリアンクール(チェロ)といった新顔を交えた共演に臨む。プログラム(左頁参照)で注目されるのが、ショーソン作曲の「コンセール」(ヴァイオリン、ピアノ、弦楽四重奏のための協奏曲 ニ長調 作品21)で独奏を受け持つ京都在住の気鋭ヴァイオリニスト石上真由子さんである。

2007年から5回、アカデミーに参加した逸材です。いま、京都府立医科大学に在籍する医学生ですが、日本では稀に見るような、自由な演奏をする。コピーではなく、自分自身のイマジネーションで音楽をつくり出す点がフランス流に近い。私がこれまでに見たことがないような、とてつもない才能。彼女がとっても好きだというこの作品をどう弾いてくれるか、楽しみにしています。

協力・資料提供:京都フランス音楽アカデミー実行委員会、長岡京室内アンサンブル

 

(*)ミシェル・オークレール 1930年パリ生まれのヴァイオリニスト。パリ国立高等音楽院でジュール・ブーシェリに師事、13歳でロン・ティボー国際コンクール優勝。30歳を過ぎ演奏を引退、後進の指導にあたる。

京都フランス音楽アカデミー
パリに本部を置くフランス外務省芸術文化活動協会(現アンスティチュ・フランセ)や有志による支援のもとで設立された日仏音楽交流事業。内外の企業などからの資金を拠出・助成も受け、開催している。期間は概ね毎年3月下旬から4月上旬にかけての2週間弱。主会場は京都市左京区のアンスティチュ・フランセ関西(旧関西日仏学館=京都市左京区吉田泉殿町8)。公募で選ばれた弦楽器・木管楽器奏者やピアニスト、声楽家ら約百人が短期集中型のマスタークラスで指導を受け、公開公演で学習成果を発表もする。修了者は延べ2千人を超えている。フランスの行う音楽教育事業としては、最大級の規模を誇り、クオリティが高く、歴史もある音楽教育事業とされている。実行委員長は、シャルランリ・ブロソー在京都フランス総領事/アンスティチュ・フランセ関西館長。講師による公演は従来、京都のほか、東京や名古屋、大阪、横浜などで開催。アカデミー生による公演で1998年にはリヨンのオペラハウス、2000年にはパリ・シャトレ劇場に巡演したこともある。