内田勘太郎さんインタビュー

10月のレクチャーコンサート 毛利嘉孝と聴く映画『パリ、テキサス』で ブルース・ギターを披露する バンド「憂歌団」の名手 内田勘太郎さん

掲載日:2013年9月13日

第1音から聴く者の耳と心を奪う、美しい音。そして、流れるようなテクニック。わが国きってのブルース・ギターの名手、内田勘太郎が、「映画は音楽に嫉妬するvol.6 毛利嘉孝と聴く映画『パリ、テキサス』」で、ザ・フェニックスホールに初登場し、ボトルネックの豪快かつ繊細なサウンドで空間を満たす。折しも、“伝説”のブルース・バンド「憂歌団」の15年ぶり再始動の直後という絶妙のタイミング。その内田が語る言葉は、彼のギターの音と同様、真摯で、いい具合に力が抜けていて、何より魅力的だ。 (取材・文:寺西 肇/音楽ジャーナリスト)

 

音楽にジャンルはない

―今回テーマとなる、映画「パリ、テキサス」と、そこに流れていたライ・クーダーの音楽のイメージとは。

内田 
実は、余り知らないまま、今日まで来ました。ライのこの映画の為の音楽も時折りラジオから聴こえて来た、といった程度。素晴らしいミュージシャンだと思うが、特に意識した事はないですね。

―じゃ、今回のステージは、特にサントラも意識しない?

内田 
だからね、そういう選曲は無理。ごめん(笑)。この極東の日本に生まれ育った私なりのブルースを、私なりの音楽をやらせてもらうつもりです。

―逆に、彼とご自身の違いとは。

内田 
ライはとてもアカデミック。彼が世界中からピックアップして来る音楽家たちは、本当に素晴らしい。「学究」という気がします。色んな事を教えてくれます。で、私は、と云えば、ただのプレイヤー。瞬間に生きているのです。

―残響がたっぷりのザ・フェニックスホールと言う空間を、どう“感じ”ますか。

内田 
ギターを始めた頃、お湯を落として、乾かした風呂場でよく弾いた。気持ち良いのだ、響きが…(笑)。それに、レコードデビュー前後、大阪・梅田にあったライブハウス「バーボンハウス」の楽屋の階段の踊り場で、木村充揮君(*1)と2人、よく弾きました。ここも、抜群の響きなのです。でも、いざステージに出ると、意外に響かなくて…。だから、ザ・フェニックスホールの響き、楽しみです(笑)。

―では、「これを聴いてほしい」という一番のポイントは。

内田 
音楽に、ジャンルなど無い、ということ。ただ、好きか、そうで無いかがあるだけ。ま、聴いていただければ分かる、と思う。

「ボトルネック」の軌跡

―今回のステージの、もうひとつの軸が、「ボトルネック」(*2)。ご自身はデビュー時から、その名手として知られていますが、どのように取り組み始めたのですか。

内田 
子供の頃から、「和田弘とマヒナスターズ」(*3)等でスティール・ギターの存在は知っていました。中学一年生の頃、ローリング・ストーンズを聴いていて、スティール・ギターの優雅さを取っ払った、ギターの音が聴こえて来たのも覚えている。やがて、「スライド・ギター」という言葉を少しずつ目にする様になった。だが、未だどう弾けばいいのか、はっきり分からなかった。「ボトルネック」という言葉に行き当ったのが、15歳の頃。そうか。ボトル、瓶。ネック、首…。ここで子供の頃からの色々が結びついた。父親が服んでいたキャベジンの空きビンを小指にはめて、弦の上を滑らせてみたら、あのサウンドになった。キャベジンはぶかぶかなので、家にある色々な瓶で試したら、流しの下にあったお客用(笑)のカルピスが、ばっちり。たたき割る際にも、当時は紙で包まれていたので好都合だった。上手く割れたら、割れ口が危ないので、ブロックなんかでこすって、マイ・ボトルネックの出来上がり。これが高校一年の頃。当時、ブルースの日本盤が続々と出てきて、エルモア・ジェイムスやマディ・ウォーターズ(*4)を知り、(アーティストごとに)チューニングが違う事にも、だんだん気付いて…木村君の前で自慢気に弾いて、また彼も「すごいなぁ」とか云ってくれるから、良い気になった。つくづく教育って、誉める事ですな(笑)。カルピスの瓶はその後、形状や材質が変わってしまい、使えるボトルネックは今、ごくわずかに…。

「憂歌団」再始動は“お祭り”

―今年は、ソロ生活15周年になりますが…

内田 
15年、まだそんなものか。もっと、がんばろっと(笑)。

―そしてまた、15年ぶりの憂歌団の再始動の年でもある。

内田 
島田和夫君の件(*5)が無ければ、残りのメンバーが揃う事は無かったと思う。ただ、木村君とは数年前から時折り一緒にやって、それはそれで良い感じ。で、島田君の追悼ではなく、ご陽気だった島やんのお祭りをしようとなった。そんな時に、ベースの花岡献治君を呼ばないのは、おかしいじゃありませんか。それでこうなりました。

―「憂歌団」結成までの経緯を。

内田 
1970年、元々は木村君と2人で、憂歌団は結成されました。でも、文化祭の舞台に2人では地味と思ったか、エレキギターで演(や)るなら音響上必要と考えたか、いや、ハレの日だから他の友達とも楽しくやろうとの姿勢だったか、ドラムやベースも加えた。でも、文化祭以外は、やっぱり2人きりでした。高校の卒業式の日、ロックをかけている店に、木村君と2人でギターを持って行って演奏を聴いてもらった。そして毎土曜日、チャージ100円をもらい、人前で演奏するように。やがて、ブルース・ブームの兆しがあった京都でも演奏し始め、京都会館第2ホールで初めて4人でプレイした。このメンバーになって、僕が好きだったシティ・ブルース(*6)の感じが、ますます出ました。

-デビューに至った経緯は?

内田 
僕は自称・浪人生、花岡は大学生。木村と島田は社会人。「いずれ職人にでもなって、週末に集まってブルースをプレイ出来ればいいし、そんなもんだろう」と思っていた。でも内心は「万が一、食べていければ良いけど」と…。やがて北海道へツアーに行ったり、帰途に東北や東京でも演奏して回ったりしました。その東京で、レコード会社の人と会い、アルバム製作が決まった。「レコード出しませんか」と云われた時、僕らは皆、口々に「“セイシュンの想い出”に、まぁええか」と云っていました。

―活動休止としたのは?

内田 
演奏出来る事の充足感よりも、やらなければいけない義務感の方が増してきた。これは、当初の目的と違うから。やがてその時が来て、皆で話し合って決めた。そこで木村君が、「万が一があるかも知れない、その時に“再結成”は余り好きじゃないので、今は“活動休止”にしておこう」と云ったので、皆納得。

―バンド活動で得たものとは?

内田 
最高の時間と経験。昔も今も。

夢は「宇宙までひびく音」

―ギターを始めた動機は。

内田 
きっかけはビートルズ。小学校高学年の頃、「9500万人のポピュラーリクエスト」(*7)を兄弟で良く聴いていたのですが、ラジオからビートルズの「抱きしめたい」が飛び出して来て、抱きしめられてしまったのです(笑)。それからは、授業中でもビートルズが頭の中で鳴りっぱなし。それを止める事は生命を止める事になると、子供心にも判っていた。で、そっとずっと、そのまま来たのです。頭の中で鳴る音は、ロック、ブルース、ジャズ、ボサノヴァ…と日々変わりゆく。でも今、頭の中で鳴っているのは、ビートルズはじめ全音楽家のメッセージ「今、生きてるんだろ。楽しくやろうよ!!」ですね。

―耳と心を奪う美しい音を出すコツって、一体何なのでしょう。

内田 
漫然と弾かない。一所懸命弾く。力は抜く。そして、愉しく楽しむ。

―ご自身にとって、音楽とは。

内田 
最高の友達。音楽が好きと云うだけでも、どれだけ人生の杖になるか。(そう、好きな事はいっぱい有って良い。楽しく生きる為のグッズだから…)。その上、音楽をやって、人に聴いてもらえて、それで生活してるなんて!! 何て稀有な幸福人だ、私は!!

―今の目標って何でしょう。

内田 
代表作と云える決定的なアルバムを作る事。自分のでも、誰かと演るものでも…。

―じぁ、叶わなくても、やってみたい「夢」は。

内田 
宇宙までひびく音。時間を越える音。フフフ…。

*1 憂歌団のボーカル。個性的な歌声は「天使のダミ声」と言われる。

*2 「ボトルネック」は「スライド・ギター」と同義。指に「スライドバー」と呼ばれる筒状の道具をはめたり持ったりして、フレットや指板から弦が浮いた状態でずらしてゆくことで、ポルタメントを伴う独特の浮遊感あるサウンドを得る奏法。バーの代わりに、瓶の首の部分をカットして使用することもあるため、この名がある。ギターを水平に置いて演奏する場合や、そのために専用に作られた楽器は、特に「スティール・ギター」と称し、ハワイアンなどで多用される。

*3 1950年代前半から2002年にかけて、スティール・ギター奏者の和田弘をリーダーに、ハワイアンやムード歌謡界で活躍したバンド。

*4 エルモア・ジェイムスElmore James(1918~63)は骨太なボトルネック奏法で知られたブルース・ギタリスト。マディ・ウォーターズMuddy Waters(1915~83)は、やはり豪快なボトルネックで知られ、ロックにも影響を与えたブルース・ギタリストでシンガー。

*5 憂歌団のドラマー。活動休止後は「コブクロ」の録音に参加するなど幅広く活動していたが、2012年10月に急逝した。

*6 内田さん自身の解説によれば、City Bluesとは「1930年代、都会っぽさを味わいたい黒人が小粋に聴いていた、重過ぎないブルース」。

*7 文化放送制作の洋楽チャートラジオ番組で、1963年4月に放送開始。番組名やパーソナリティを変更しつつも、2006年4月まで44年間続いた。


■プロフィル うちだ・かんたろう 1970年「憂歌団」結成。1975年そのリードギタリストとしてレコードデビュー。ブルースを基調にした独自の世界で全国を席捲し、熱狂的な人気を誇った。その天才肌のギタープレイの評価は高く、日本を代表するギタリストとして名を馳せる。カルピスの瓶首を使ったスライド奏法も有名。1998年アルバム「マイ・メロディ」でソロデビュー。憂歌団は20数年間メンバーチェンジなしで活動、多数の作品を発表してきたが、惜しまれつつも1999年より無期限活動休止。以降精力的にソロ活動開始。数々の有名アーティストとのセッションやCM音楽なども多数手がける。通算6枚のソロアルバムをリリース。教則DVD3作もロングセラー。今年9月、憂歌団15年振りに始動。大阪なんばHatchにて「憂歌団からの便り。~島田和夫祭り~」2Days公演を開催。
内田勘太郎オフィシャルサイト http://www.uchidakantaro.com/
内田勘太郎オフィシャルブログ「丘の上勘ちゃん食堂」 http://uchida-kantaro.at.webry.info/
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■「映画は音楽に嫉妬するvol.6 毛利嘉孝と聴く映画『パリ、テキサス』」は、2013年10月12日(土)午後4時開演。コンサートチケットをお持ちの方は、終演後、「パリ、テキサス」全編上映(約146分)を入場無料でご鑑賞いただけます。入場料3,000円(指定席)、友の会2,700円。学生1,000円(限定数。当ホールチケットセンターのみのお取り扱い)。チケットのお求め、お問い合わせは同センター(電話06-6363-7999 土・日・祝を除く平日10時~17時)。

■プログラム 内田勘太郎:ミシシッピ・シード、グッバイ・クロスロード  ほか