通崎睦美さんインタビュー

戦中から戦後、日米でシロフォン演奏 巨匠・平岡養一の楽器登場 稀代の名器 響き聴いて 6月15日(土)レクチャー公演に出演 通崎睦美さんインタビュー

掲載日:2013年5月22日

 

戦中から戦後、日米でシロフォン演奏 巨匠・平岡養一の楽器登場

稀代の名器 響き聴いて

6月15日(土)レクチャー公演に出演 通崎睦美さんインタビュー

「平岡養一」と聞いてピンと来る人は、きっとオールドファンだろう。明治生まれ、シロフォン(木琴)を独学で習得し、太平洋戦争前は米国、戦中・戦後は日米両国で活躍。米国でも極めて高く評価された名手で、日本の大衆には民謡「お江戸日本橋」やビゼーの「カルメン」をはじめ、東西の親しみやすい音楽の演奏がラジオで毎日のように流された人気者でもある。その大家が愛用した楽器が6月15日(土)、ザ・フェニックスホールのレクチャーコンサートに登場する。演奏は、京都のシロフォン奏者・マリンバ奏者の通崎睦美さん。奇縁に恵まれ、この楽器や楽譜など平岡さんの音楽上の遺産を遺族から譲り受けた。業績の発掘と研究、そして実演に取り組んできた。9月には講談社から評伝も出版する予定。この公演は元々、平岡さんと同時代の台湾出身の作曲家・江文也に関わる映画の話と、ピアノ演奏が主軸だったが、江が平岡さんに書いたシロフォン作品の自筆譜が遺品に含まれていたことが4月に判明、急きょ、追加出演が決まった。五条通に程近い下京区天使突抜(てんしつきぬけ)の、京都らしい古い家を改造した別宅に、通崎さんを訪ねた。(あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホール 谷本 裕)

平岡さんは1907年(明治40年)、兵庫県尼崎市の生まれ。慶應義塾に在籍中、映画館でシロフォンの生演奏に触れたのを機に独学で始め、慶應義塾大学経済学部を経て1930年(昭和5年)に渡米。ニューヨークの名門放送局NBCのオーディションで選ばれて専属アーティストとなり、毎朝の音楽番組に11年半もの間、生出演を重ねた。リサイタルやオーケストラとの共演でも成功を収めたが、太平洋戦争の勃発で帰国。日本を軸に活躍した後、20年後の1963年(昭和38年)アメリカに移住し、日米を往還して活発に演奏した。1981年(昭和56年)に亡くなっている。

-戦中・戦後世代の人々にとって平岡さんは、神様みたいな存在だったと思います。敗戦から復興、高度経済成長という時代の流れや心の風景が、平岡さんのシロフォンの音と硬く結び付いて思い出になっているんです。舞台で彼の楽器を弾いた後、お客様から「戦火の焼け野原、かすかに聞こえていたのが平岡さんの木琴。日本人がみんな貧しくて、生活も厳しかった時代。あの音色が骨身に染みた」と打ち明けられたことがあります。平岡さんは全国を巡って演奏を重ね、戦禍に疲れた人々に楽しみを与えた。経済成長期も、居間のラジオから平岡さんの演奏がしばしば流れた。同時代の聞き手は、励まされたような気持ちになってたんでしょうね。
正に「時代を伴奏した」音色である。平岡さんの弾いたシロフォンは、元々はヨーロッパ起源の「ストローフィデル」という民族楽器をルーツとしている。「木琴」と総称される鍵盤打楽器として現在、「マリンバ」が広く親しまれているが、こちらはアフリカ起源の民族楽器「バラフォン」が先祖。シロフォンは移民が、マリンバは奴隷が、それぞれ米大陸に持ち込んだ。共に北米のディーガンという製作業者が近代的に改良したため、形が似ているが、調律も音色も響きも異なる全く別の楽器。そんなシロフォンのソリストとして、平岡さんはどんな評価を得ていたのか。

-渡米前、平岡さんが録音したSPレコードを集めて聴いてみると、現代の耳には少し拙く聞こえる所も無くはない。平岡さんは独学です。学校でクラシック音楽の専門教育も受けていない訳ですから、やむを得ない面があります。でも渡米後はNBCで、ロシアから亡命してきた元宮廷ピアニストらに伴奏をしてもらったりする中で、伝統に裏付けられた厳しい指導を受けることが出来た。まさに現場で叩き上げ、高い評価を受けるようになっていったんです。日本では、例えばNHK交響楽団のコンサートマスターで、黒柳徹子さんの父として知られる黒柳守綱さんが、「モーツァルトの作品を平岡さんのようにはなかなか演奏出来ないものだ」と言い残しました。アメリカでも、NBC交響楽団との共演で知られたイタリア出身の巨匠指揮者トスカニーニが、同じく平岡さんのモーツァルト作品演奏に関し、装飾音の表現を褒めている記録があり、平岡さんの高い音楽性が伺われます。レパートリーは1000曲を超え、「ツィゴイネルワイゼン」をはじめとするヴァイオリンの曲や、歌曲、オーケストラ作品などクラシックの名曲を、多くの人に広めました。一方でアルゼンチンタンゴなども得意。「中国地方の子守歌」など日本の民謡も随分手掛けていて、色んな人を楽しませるエンターテイナーでもありました。日本にマリンバが本格的に導入される前の時代、シロフォンで一時代を画した偉大な音楽家。それが平岡さんでした。
通崎さんとの繋がりは。

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-実は私、10歳の時、平岡さんと舞台で共演してるんです。1977年(昭和52年)、古希(70歳)を迎える平岡さんの全国100ヶ所ツアーが各地で行われ、京都公演は岡崎の京都会館でした。ゲストに私が所属する「あいりす児童合唱団」が出演したんです。私は5歳から、近所のお寺にあった音楽教室でマリンバを習っていた。ちょっぴりお転婆で、座って弾くピアノよりも動きのあるマリンバが大好きで続けていました。リハーサルの時、だれかがそれを話したのか、急きょ、一緒に演奏することになったんです。曲はモンティの「チャルダーシュ」。平岡さんのシロフォンで連弾しました。ぶっつけ本番。夢中で演奏したので、私はよく覚えていません。ただ、父が回してた8ミリビデオを見ると、平岡さんは、すごくニコニコして何度も握手して下さってました。今思うと運命の出会い。私はその後、京都の堀川音楽高校から京都市立芸大に進んでマリンバを専門的に勉強し、マリンバのソリストになりました。あの共演は時々思い出すくらいで、平岡さんを音楽家として意識することは特にありませんでした。
なのになぜ、平岡さんのシロフォンを譲り受けることに?

-2005年2月、平岡さんのシロフォンを借りてコンサートに出演したのが転機です。東京フィルハーモニー交響楽団の定期公演。場所は渋谷のオーチャードホール。平岡さんが戦中に初演した紙恭輔さんの「木琴協奏曲」(1944年)の独奏でした。この曲は少し前の2003年、打楽器奏者の吉原すみれさん(*注)が再演されていて翌2004年、指揮の井上道義さんから電話が架かってきた。「君にピッタリの曲だから、頼むよ」って言われたんです。マリンバとシロフォンとでは鍵盤の幅が違います。それに、この曲は現代のシロフォンよりも音域が広い特別な楽器のために書かれていて、平岡さんが使っていたシロフォンでなければ、演奏出来ません。本番のひとつき前、元々はロサンゼルスのご自宅に保管されていた楽器が、京都に届きました。一音弾いた瞬間、「何があっても、この楽器を傍に置いておきたい」と強く思いました。あの共演から、28年ぶりの「再会」でした。
どんな音だったんですか。

-澄んだ高い音が、とても柔らかかった。平岡さんの遺品だから、というのでなく、楽器として抜群に素晴らしいと感じましたね。それも私が選んだのでなくて、なんて言うんやろぅ、自然に出会った感じがありました。私は古い着物が好きで昔から集めています。この家もそうなんですけど、どういう御縁か1930年代の文物に惹かれる傾向がある。調べてみたら、この楽器も1935年の製造。しかもシカゴの名門ディーガン社の最上級モデル。さらに平岡さんが改造もしていた。歴史的にシロフォンは、1920年代から30年代にかけて名器が集中して作られています。特にディーガンのは、鍵盤の木が良いんです。中米のホンジュラスに自生する樹齢数百年のローズウッド。創業者のJ・C・ディーガン自ら現地で買い付けた銘木を吟味していて、とりわけ平岡さんの楽器は果物に例えれば完熟、トロトロの音色です。これを上回る楽器は、恐らく今なお作られていない。すぐ、ご遺族に手紙を書きました。そして、まず私の演奏を聴いていただきたい、とお願いをしたんです。
当時の通崎さんは主にマリンバを演奏していた。シロフォンに「入れ込む」ことに、ためらいは無かったのか。

-マリンバは、一つひとつの鍵盤の下に共鳴パイプが付いていて、ボワンとした残響が特徴。一方、シロフォンは音がハッキリしている。音色の差は、鍵盤の裏の削り方にある。マリンバは薄く、シロフォンは厚め。いきおい倍音も違いが出る。京都では戦後、木造の町家がずいぶん壊され、コンクリートの建物が取って代わったでしょう? マリンバはそんなコンクリートの建物に似て、合理的で揺らぎが無く、ダイナミックで響きが豊か。でも、シロフォンはこういう(と、自室を見回して)華奢だけれども筋の通った、そして芯の強い音がする。木造建築に通じる豊かさがあると感じ、それが私の性に合ったのかもしれません。私は、演奏するのはシロフォンの方が難しいと感じています。一つひとつの鍵盤を、きちんと鳴らすための「スイートスポット」がマリンバより小さく、打鍵には慎重さや精密さが、より強く求められる。響きが少ない分、ゴマカシも効きません。
 

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準備を重ね、本場に臨んだ通崎さん。遺族は彼女の機敏なテクニックや柔軟な音楽性、個性的な「華」にも触れ、通崎さんの願いを容れて楽器を譲ることを決めた。マレット(撥=ばち)86組、約500曲の譜面と70冊ほどの曲集なども併せて託した。そして今回の通崎さんの出演は、この「平岡コレクション」が機縁となった。レクチャーコンサートの一つのポイントは台湾出身の作曲家、江文也(こう・ぶんや 1910‐1983)。彼が戦中、平岡さんのために書いたシロフォンとピアノのための作品「木琴とピアノのための『祭りばやしの主題による狂詩曲』」の自筆譜が、コレクションに含まれていたのである。語り手の小沼純一さん(早稲田大学教授)が旧知の通崎さんとやり取りする中で偶然、存在が分かり、シロフォン演奏を追加で組み込むことになった。

-作品は三楽章形式。日本か台湾か分からないのですが、祭囃子のようなモチーフが用いられています。シロフォンという楽器は、簡明な音楽表現に向いている。実際は、こういう音楽をシンプルに書くのは難しい。江さんはきっと耳が良かったんだろうと思います。また、当時に珍しくマレットの硬軟の指定があり、シロフォンについてよく知っていたか、あるいは平岡さんと直接的な交流があったのかもしれません。いずれにしても平岡さんは戦中に帰国して来、逆に江さんは戦後、日本に戻らず、中国で亡くなっています。極めて短期間の接点しかなかったはずで、創作は恐らく戦中でしょう。演奏された明確な形跡がなく、今回が初演かもしれません。江さんが平岡さんに書き、長い間埋れていた作品を自筆譜で、しかも平岡さんの残した古今最高の楽器で聴いていただける貴重な機会です。多くの方に、ぜひ聴いていただきたいですね。

*注 紙恭輔(1902‐1981)の《木琴と管弦楽のための協奏曲》は1944年4月、平岡養一の独奏で初演された。その後、2003年7月に、本名徹二指揮のオーケストラ・ニッポニカが、東京・紀尾井ホールで再演した。独奏の吉原すみれは、1972年ジュネーヴ国際音楽コンクールで優勝した名手。


*写真解説
写真上)通崎睦美(つうざき・むつみ)

1967年京都市生まれ。1992年京都市立芸術大学大学院音楽研究科修了。91年のデビューコンサート以降、作曲や編曲の委嘱を活発に行い、独自のレパートリーを開拓、多様な形態で演奏活動を行っている。2005年2月には東京フィル定期演奏会(指揮/井上道義)で、木琴の巨匠平岡養一氏が初演した紙恭輔『木琴協奏曲』(1944)を平岡氏の木琴で演奏したことがきっかけで、その木琴とマレットや500曲以上にのぼる楽譜を譲り受け、以後、彼の軌跡をたどりながら木琴の可能性を探る活動も始める。07年9月には東京での初のリサイタル「平岡養一生誕100年記念 通崎睦美リサイタル」を開催、NHKテレビで放送された。

写真中)平岡養一 (ひらおか・よういち)

1907年生まれ。20年、銀座の映画館「金春館」での木琴生演奏に惹かれ、独学で木琴を始める。30年、渡米。苦労の末、NBCのオーディションに合格、以後11年半にわたり日曜を除く毎朝、ラジオの生番組に出演し「アメリカ全土の少年少女はヨーイチ・ヒラオカの木琴で目を覚ます」といわれるほどの知名度を得る。日米開戦を機に帰国。日本でも第1回NHK紅白音楽試合(現、紅白歌合戦)へ出演するなど、まさに国民的音楽家として人気を博した。62年再渡米。カーネギーホールでのリサイタル成功を機に、米国に居を移す。その後、ニューヨーク・フィルハーモニックなどの名門楽団と共演。日本とアメリカ、太平洋を往還し活躍した。1981年没。

写真下)
通崎さんが、遺族から譲り受けた楽譜『祭りばやしの主題による狂詩曲』

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■小沼純一と聴く「珈琲時光」
2013年6月15日(土)16時開演。 演奏は榎本玲奈(ピアノ)、通崎睦美(木琴)。 江文也:台湾の舞曲、スケッチ五曲、バガテルより抜粋、木琴とピアノのための「祭りばやしの主題による狂詩曲」(予定)コンサートチケットをお持ちの方は、終演後、「珈琲時光」全編 上映(約100分)を入場無料でご鑑賞いただけます。指定席。一般¥3,000(友の会価格¥2,700)。学生¥1,000(限定数・電話予約可・当ホールのみのお取り扱い)