『イノック・アーデン』に期待寄せた バリトン歌手 故・畑中良輔さん

発声とイメージ 成功の鍵 三原剛が語る 『イノック・アーデン』に期待寄せた バリトン歌手 故・畑中良輔さん

掲載日:2012年10月1日

11月18日開催の「三原剛が語る『イノック・アーデン』」公演に、温かい期待を寄せた音楽家がいる。バリトン歌手・畑中良輔さん。大正生まれ。東京音楽学校で学び、「魔笛」のパパゲーノ役をはじめとするモーツァルトのオペラや、日独の歌曲の歌唱で一時代を画した大家。大学での教育や評論、公演プロデュースなど裾野拡大にも尽くした功労者である。三原さんの才能にも早くから注目、さまざまな形で活躍を支援してきた。「イノック」は、自らも度々手掛けたレパートリー。“愛弟子”が初挑戦する今公演では、自作邦訳の使用を快諾して下さった。今年3月末、東京・杉並のご自宅に伺った折は、音楽はもちろん文学、科学、そして食など幅広い話題をまろやかな声で語られたが、5月、惜しくも逝去された。享年90歳。お話の一端を紹介し、畑中先生のご冥福を祈る次第である。

(ザ・フェニックスホール 谷本 裕)

―「イノック・アーデン」との出会いは。

原作のテニスンの物語に初めて触れたのは、門司(北九州)の中学2年か3年の時だったかな。岩波文庫の赤帯でね。一つ星で値段も安かったから、買いました。絶海の孤島で、主人公が独り老いていく悲しいストーリー。色んな情景が目に浮かんでくるようでね、子どもなりに感動して読みましたよ。リヒャルト・シュトラウス作曲の音楽として聴いたのは、随分大人になってから。僕、ピアノのグレン・グールド(※)のファンでね。LPレコードの全集を、暗記するほど聴いてたんです。「イノック」は、グールドとアメリカで活躍した英国人俳優との録音でしたが、「声楽家の、もっと良い声でやれたら良いな」と思うようになりました。

―どんな作品ですか。

作曲者リヒャルト・シュトラウスは、何か具体的なテーマがあると真価を発揮するタイプ。オーケストラ作品でもブラームスやシューマンが書いたような純粋な交響曲でなく、「家庭交響曲」とか「アルプス交響曲」とか、「英雄の生涯」といった、ストーリーのある交響的な作品を残してる。彼は「スプーンを使う時でも、銀のスプーンか、普通のメッキのスプーンか、音で描写してみせる」と言っていたといわれています。「イノック・アーデン」のピアノパートも同じ。登場人物ごとに独自の音型を付ける「ライトモチーフ」(※)の手法が採られてもいて聴きどころ。ピアノの小坂(圭太)君は10年ほど前、一度この曲を弾いています。実に的確な演奏で、僕としてはもう言うことありません。

―ご自身で語られるようになった契機は。

新宿の伊勢丹の向かいに以前、「モーツァルトサロン」っていう会場がありましてね、1980年ごろ、そこで随分やりましたよ。ジロー・オペラ賞をつくったり、東京室内歌劇場を応援したりしてた沖広治さんのレストランのすぐ横。小さなオペラを定期的にやってたんです。そこで「イノック・アーデン」やったらネ、曲の最中、目の前のパイプ椅子に座ったお客が感激して泣き出しちゃってね、困っちゃったこともある。この作品は大ホールにはあまり向いてない。むしろ小ぢんまりしたサロン風の場所が良いでしょうから、おたく(ザ・フェニックスホール)にはピッタリじゃないかな。

―曲のポイントは。

まず語り手のエロキューション(発声)が大事。テレビでなら、何を言ってるか分からない少々クショクショした発音でも何とか、聞き取れます。でも舞台は別物。「イノック」は、江守徹さんら俳優が取り上げていますが、作品自体は音楽との結び付きがとても強い。音楽を知り尽くした声楽家の方が本来、より高い効果を引き出せると思います。それと、イメージも大切。語り手は、登場人物の半生を生きなくちゃなりませんから、ドラマについての明確なイメージを持ち、それに合わせて表現を巧みに変化させていくことでしょうね。

―今回の語り手、三原剛さんについて。

神戸オペラで「魔笛」をやった時、「弁者」の役で初めて僕の前に現れた。これ、出番は少ないけれど大事な役で、フィッシャー=ディースカウのような名手がやるんです。第一印象は、「お、随分大きな人だな、荒々しい声でも出すのかな」と思ったんですが、稽古やったら彼、ものすごく繊細でね。なんとも滑らかな、ものすごく美しいドイツ語でビシーッと押さえて歌ったんですよ。感心して「先生だれ?」って尋ねたら、「オッカー先生です」って答えた。僕、知らなかったんですが、愛知の県立芸術大学で教えてたドイツ人バリトン、クラウス・オッカーさん。「良い先生についたねぇ」って言ったんですよ。本当に丁寧な発声と正しいエロキューションでした。当時、僕は全国で色んな生徒にレッスンをしてました。でも先生の悪い癖ばっかり真似して、心底良いのはなかなか…。教えても教えても、訳が分からずキョトンとしてる者も多い。レッスンで僕に譜面を叩きつけられなかった人は、少ないですよ。

―短気なところもおありなんですね。意外です。

三原はレッスンしてもね、しょっぱなから教えることが、もう無いくらい、しっかりした勉強をして来るんです。むしろ、こっちが「あぁ、そうなのか」と思うようなことが、いっぱいあるくらいで。人間的にも音楽的にも研究心が強くて、とことんやり抜いてから来るので、一度も僕を怒らせることがないネ。彼を教えることは楽しみですよ、ほんとに。そういう生徒に恵まれるのも、先生としての幸せ。声楽家の中で、一番信頼の置ける人の名を一人だけ挙げろって言われたら、僕は、まぁ三原かな。僕もあんな声に生まれたかったな。僕が出来ないようなことが、三原はすぐ出来ちゃってるからねぇ。正に理想的な声ですよ。今年11月、神戸の合唱団を指揮するんで、何度か練習で関西に行きます。その折、都合がつけば三原の「イノック」を少し聴かせてもらって、ちょっとでもアドバイス出来たら良いなと思ってるんですよ。

<写真>「一番、信頼できる歌手は三原」と重ねて語った畑中さん=2012年3月28日、東京都杉並区のご自宅

※Glenn Gould 1932-1982。カナダのピアニスト。斬新な解釈と抜群のテクニックを持ちながら、後半生はコンサートを拒否し録音のみに専念した。
※ライトモチーフ 示導動機。一定の人物や思想、状況や感情を示す音型や音楽上の動機。ヴァーグナーが後期のオペラ作品(楽劇)で用いたことで知られる。

 

はたなか・りょうすけ 1922年(大正11年)北九州市・門司生まれ。東京音楽学校(現・東京芸大)声楽科、同研究科で学ぶ。宮廷歌手ヘルマン・ヴーハーペニヒに師事。リリック・バリトンとして、卓抜した解釈と豊かな表現力で知られ、デビュー以来、高い評価を得た。オペラではモーツァルトを得意とし「魔笛」「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」などの日本初演で主役級を歌い、またゲルハルト・ヒュッシュ、フェルッチョ・タリアビーニといった高名な演奏家とも共演するなど輝かしい活動を展開。ドイツ歌曲や日本歌曲に造詣が深い。著書に『演奏の風景』、『演奏家的演奏論』、『繰り返せない旅だから』シリーズ全4巻ほか。新国立劇場初代オペラ芸術監督、藤沢市市民会館文化担当参与、水戸芸術館音楽部門芸術総監督などを務め、平成12年度文化功労者顕彰。日本芸術院会員。