志摩園子さん インタビュー

レクチャーコンサート 「バルト三国-音楽に織り込まれる自然と人々の声」講師 大国の支配下 「民族」支える

掲載日:2007年5月28日

「百万本のバラ」といえば多くの人があの、加藤登紀子の深い声と、憂愁のメロディを思い浮かべるのではないだろうか。1980年代の終わり、日本でヒットしたこの歌謡は、それより前に旧ソ連で注目を浴びており、レコード売り上げ2000万枚とも言われる空前のヒットを記録するのだが、この曲を生み出したのは実は、旧ソ連・バルト海沿岸の小国ラトヴィアの作曲家。しかも元々は反戦歌だった。昭和女子大学教授志摩園子さんは、「バルト三国」(※「バルト三国」「バルト海」参照)として知られるエストニア、ラトヴィア、リトアニアの国際関係史を軸に研究を重ねてきた。大国ロシアとドイツの狭間にあって長年、激動と苦難の歴史を刻んだ三国で音楽が果たした役割とは—。6月30日(土)夕、レクチャーコンサート「バルト三国—音楽に織り込まれる自然と人々の声」(シリーズ「20世紀音楽」第3回)への出演を前に、東京の研究室でお話を伺った。(ザ・フェニックスホール 「サロン」編集部 谷本 裕)
 

—「バルト三国」が一致団結し、世界の注目を集めたのは1991年の独立回復の頃。東西冷戦の終結と、大国ソ連の崩壊を告げる、歴史的な事件でしたね。あれから15年余。彼らの「今」は。

もともとは、「バルト三国」という考え方自体、彼らにとっては、身近なものではなかったかもしれません。歴史的には、リトアニアはポーランドやロシアと、エストニアやラトヴィアはドイツと繋がりが深い。人種的には、エストニアはフィンランドと近く、言葉も似ている。民衆の信仰する宗教も微妙に異なり、実は文化的な差は小さくないのです。ただ、一つひとつの国はいかんせん小国。国際社会に向けて、単独で発言しても、なかなか関心を得られない現実があった。近年の北大西洋条約機構(NATO)や欧州連合  (EU)の加盟の際などには特に、米国や西欧諸国との交渉を進めるためにも、彼らが「結束」の必要を感じたことは間違いありません。三国は、1918年にはいったん独立を果たしましたが、第2次世界大戦時にはドイツとソ連の間で占領の脅威にさらされた。結局は旧ソ連に併合され、半世紀以上も政治的・社会的・経済的に自由な活動を制限されるという、苦難の歴史を共有することになりました。事あるごとに、「三国」としてまとまって行動するのは、国際社会の関心を喚起できなかった歴史の反省に立つ「小国のリアリズム」と言えるかもしれません。近年は、「スカンジナヴィア」「北欧」への仲間入りを目指す機運が高まっているように感じられます。

—この三国はどこも、合唱が盛んだそうですね。

数万人を収容出来る野外ステージやスタジアムで4、5年に一度、「民族規模」とも言われる大掛かりな合唱音楽祭が開かれています。また、世界的に知られる大規模な合唱祭以外にも、大小さまざまな合唱祭があちこちで営まれています。カラフルな民族衣装に身を包んで、民族に伝わる歌を歌い、踊ることで聴衆ともどもアイデンティティを確かめ、高める場になっているのです。この催しは、特に旧ソ連からの独立に際し、世界から注目を集めました。そこで発せられた歌声が、民族自決を求める民衆の大きなデモンストレーションとして機能したからです。

勢力争いと合唱祭

—元々は、どんな経緯で生まれたのですか。

エストニアの合唱祭は1869年、ラトヴィアの合唱祭は1873年、つまり、ほぼ同時期にスタートしています。この、19世紀後半はヨーロッパ全土に民族主義の嵐が吹き荒れた時期。エストニア人・ラトヴィア人とも、まだ独立国家を作っておらず、ロシアとドイツ、二つの大国に挟まれ、圧迫を受けていました。いま、エストニア・ラトヴィア国境を挟む地域には、エストニア人・ラトヴィア人のほか、古くからドイツ人が入植していて、地主貴族として地元の農民を支配していました。ドイツ人は、ロシア帝国と共に微妙なバランス感覚のもとで統治体制を組んでいたのですが、この時期、ロシア側が農民を取り込む動きに出、「対抗策」を打ち出す必要に迫られたのです。

—それがなぜ、合唱祭に?

この地域には16世紀以降、ドイツ人がもたらしたルター派のプロテストタント教会が、特に現在のエストニア、ラトヴィアで広まっており、農民たちは歌を通じて信仰を深めていました。ドイツ人はここに着目し、合唱祭を立ち上げることで農民の心をつかもうと考えたのです。つまりこのイベントの始まりはドイツ人の啓蒙主義からの影響と現地農民の取り込みとが重なったものだった訳ですが、エストニア人やラトヴィア人は逆にそれを使って、民族意識の高揚に役立てるようになったんです。

—リトアニアでは?

こちらのスタートは1924年。20世紀に入ってからでした。それもロシア革命後の独立の時代です。リトアニアは、エストニア、ラトヴィアと異なり、中世に既に隣のポーランドと一緒に王国を作った歴史を持っています。19世紀の民族主義のうねりの中では彼らはまず、かつての国王を見詰め直して自分たちの歴史を確認し、また自分たちの言葉を意識し、ポーランド人との違いを認識するようになっていきました。国をまとめていくために、正書法(単語の正しい表記の仕方)や辞書がつくられたりすると共に、合唱祭も開催されることになったのです。

—旧ソ連時代はどのような位置付けに?

1940年、三国が旧ソ連に併合された後も、合唱祭は続きます。ただ、この時代には別の役割を担うことになりました。旧ソ連が体現を目指した社会主義のイデオロギーを称揚し、スターリン(※1)個人を崇拝するような内容の歌が取り上げられるなど、ソヴィエト国家への忠誠心を表現する場に転換させられたのです。伝統的な歌の中で当局が演奏を許可したのは、自然の美しさを愛(め)でるものがほとんど。政治的なメッセージは含まれていない。とはいえ、大国の支配を受ける小国の民が数年に一度、大々的に集まり、自分たち自身の言語で、民族に伝承されている歌を歌うという行為は、極めて政治的な活動という性質を帯びていました。

「歌う革命」に変容

—そのことが、独立回復の際の「歌と共に闘う革命」に繋がっていく訳ですね。

1988年の夏、エストニアの首都タリン郊外の野外音楽堂には、25万人から30万人もの人々が集まって、伝統的な歌を歌い、同時に民主化要求・独立回復のスローガンを掲げました。当時、旧ソ連はゴルバチョフ書記長(※2)の打ち出した改革路線「ペレストロイカ」(※3)が進展し、バルト三国では指導者層が保守派から改革派に入れ替わっていく時期でした。変化を象徴するかのような音楽の力を、世界に印象付けたのですが、実はこれには伏線があります。スターリンの死後、旧ソ連では一時、「雪解け」と呼ばれる冷戦緩和の時期が訪れ、東欧での抑圧が一時的に緩み、ハンガリーでは1956年に動乱(「ハンガリー動乱」※4)が勃発、チェコスロヴァキアでは1968年に政治改革運動(「プラハの春」※5)が起こっています。でも、いずれもソ連の軍事介入で鎮圧されました。エストニアも旧ソ連国内の一共和国ながら、むろん自由化・民主化を求める時代の息吹を共有していました。彼らは「直接行動」を起こすには至らなかったけれど、1965年の合唱祭で当局から禁じられていた「我が祖国、我が愛」という歌を、ステージの最後で取り上げます。“第二の国歌”とも言われるこの歌を、文字通り謳歌することで支配への抵抗を示したのです。それは一見、ささやかなものに思えるかもしれません。しかし当時、会場には2万6千人の合唱者と12万人の聴衆が結集しており、大地を揺るがすような歌声に、モスクワから派遣されてきたロシア人役人や監視の官憲らは肝を冷やしたことでしょう。

—私たちが馴染んでいる「芸術表現」とは違う、音楽の別の働きを見る思いがします。

言葉では表現出来ない思いや願いを、音楽は直接的に描けるのではないでしょうか?そのために政治と結び付きやすいし、時には「利用」もされやすい。私が初めてバルト地域を訪れたのは、そんな民族自立の機運がみなぎる88年の9月でした。留学先のドイツから、初のチャーター飛行機がラトヴィアに飛ぶことを知り、矢も盾もたまらず、参加したんです。フランクフルト空港で小型のプロペラ機に乗り込んだのは約60人。その大半は、エストニア、ラトヴィア、リトアニアから自由を求めて亡命した者やその子供です。ツアーはオモテ向き、名所旧跡をバスで巡ることになっていたのですが、彼らは見向きもせず、以前の住まいや墓地を訪れていました。参加者の中に、アメリカに亡命したラトヴィア人の娘がいました。私は彼女と、東京の学生時代に文通したことがあり、偶然、このツアーで出会ったんです。彼女は滞在中、現地の民主化運動家らと精力的に会い、今後の国の行方を語り合っていました。私の方は昔ラトヴィアで暮らしたことのあるドイツ人老夫婦と、ガラ空きのバスに乗り、中世の古城などを訪れました。車窓から見る家の壁はくすみ、道路は穴だらけ。旧ソ連社会の行き詰まりを実感しました。バスの車内に、禁止されているはずの小さなラトヴィア国旗が揺れていたのを鮮明に覚えています。

鳥に託した「憧れ」

—そうした人々との交流が、今公演で取り上げる作曲家の選定にも影響しているかもしれませんね。日本では演奏される機会が少ない、ラトヴィアのペテリス・ヴァスクス(1946年生まれ)。彼の弦楽四重奏曲が聴けますね。

彼は、旧ソ連時代も故国に留まって創作を続け、近年はドイツで極めて高く評価されている現役の作曲家。ヴァイオリニストのギドン・クレーメルや、チェリストのダヴィード・ゲリンガスら、バルト出身の高名な演奏家との協働も多い。旧ソ連で、国家の抑圧に苦しみながら創作を探ったショスタコーヴィチ同様、ヴァスクスも「鉄のカーテン」の内側で自由への憧れを心に秘め、生きたことでしょう。また、音楽家として生きるための、当局にアピールするような作品も残したかもしれません。彼の作品に「鳥のいる風景」というフルート独奏曲があります。私には国境に捉われず飛ぶ鳥に、自由への憧れを託しているように思われます。今回、演奏する弦楽四重奏曲第2番「夏の歌」でも、ラトヴィアの短い夏、咲き誇る花の様子に加えて、やはり鳥のさえずりが聞かれます。色鮮やかで透明感溢れる自然の情景が目に浮かぶようですが、作品全体をメランコリーが覆っていて、それが何か、胸を衝くような切実さを醸しています。研究で首都リガに滞在した折、レストランで何度か彼を見かけました。知人の紹介で今年秋には、ご自宅にお邪魔することになり、嬉しいやら、緊張するやら。

—バルト地域の作曲家では比較的なじみの深いアルヴォ・ペルトの「フラトレス」が取り上げられます。

ペルトはエストニアの出身で、ヴァスクスとは逆に1980年、オーストリアに亡命しました。以来、西側で活動を展開しています。国にとどまって、作曲を続けたヴァスクスと国を去って作曲を続けたペルト。共に国内外で評価されていることはいうまでもありませんが、どちらも故国の自然を愛する雰囲気が伝わってくるような気がします。2人の作品を聴いていると、音楽の底に「決して消えることのない哀しみ」が流れているように感じられます。それはそのまま、バルト三国の苦難の歴史、あるいはその上で、はぐくまれてきた人々の心情を映しているように私には思えてくるのです。「バルト三国」というと、日本の、ふだんのコンサートライフからは抜け落ちてしまいがちですが、ここにも宝石のような音楽が存在しており、音楽を「窓」として人々の思いや自然の美しさに触れていただけると思います。新しい世界の音楽に、ぜひ触れてほしいですね。

map

 バルト三国

ヨーロッパ北部、バルト海東南部沿岸に位置するエストニア、ラトヴィア、リトアニアの3つの国を指す。この地域は、地政学的に古くから東のロシアと西のドイツやポーランドに挟まれ、長い間、戦争や大国の支配に苦しみ続けてきた。近世以降はロシア帝国の支配を受けていたが、ロシア革命後は3国ともいったん独立。しかし第二次大戦中、ヒトラーのナチスドイツと、スターリン率いる旧ソヴィエト連邦が結んだ「独ソ不可侵条約」(1939年)の秘密議定書によって、3国は旧ソ連に併合されることになった。その後、1980年代の中盤からゴルバチョフ書記長が進めたペレストロイカ(改革)路線により、旧ソ連の共産党一党独裁体制は徐々に弱まり、連邦内の民主化・民族自決を認める動きが強まる。こうした中、3国は1991年9月に独立を回復、旧ソ連の崩壊に極めて大きな影響を与えた。3国は2004年3月、北大西洋条約機構(NATO)に、また同年5月には欧州連合(EU)にそれぞれ加盟、国際社会の一員として繁栄を目指している。

バルト海

ヨーロッパ大陸とスカンジナヴィア半島に囲まれた内海。スウェーデン、フィンランド、ロシア、バルト三国、ポーランド、ドイツ、デンマークの9カ国が取り囲んでいる。総面積37万平方キロメートルは、日本の総面積とほぼ等しい。水深は平均55メートル、最深部で459メートル。多数の島がある。流れ込む大河としては、ロシアからベラルーシ、ラトヴィアを貫くダウガヴァ川と、ベラルーシからリトアニア・ロシア領カリーニングラードを流れるネムナス川の二つがある。冷戦時代は環境汚染が深刻化したが、バルト三国の独立回復や、ヨーロッパ統合の動きと共に、環境保護に向けたさまざまな地域協力がなされるようになっている。

※1 ヨシフ・スターリン (1879‐1953)旧ソヴィエト連邦の革命家・政治家。グルジア出身。1917年のロシア革命をレーニンらと共に進め、22年ソ連共産党中央委員会総書記。レーニンの死後、実権を握る。革命路線をめぐり対立した政敵や、農業改革についての国内の反対勢力を「粛清」と呼ばれる強権的な手法で次々に葬り、権力を強めていった。第2次世界大戦で対ドイツ戦に勝利、戦後は資本主義陣営と対立、「冷戦」を展開した。

※2 ミハイル・ゴルバチョフ (1931‐) 旧ソ連の政治家。スタヴロポリ出身。40歳の若さでソ連共産党中央委員となり、1980年最年少の政治局員に。改革派として頭角を現し、85年書記長。ペレストロイカ(改革)・グラスノスチ(情報公開)・ノーボエ・ムイスレーニエ(新思考)といったスローガンを掲げて変革を進め、外交面ではレーガン米大統領と共に冷戦終結を図った。90年には一党独裁をやめ、初代大統領に。国内共和国への権限委譲を図り、91年のソ連崩壊を招いた。90年ノーベル平和賞受賞。

※3 ペレストロイカ ソ連末期、政治・経済改革を目指したゴルバチョフの政策。個人営業や協働組合といった新たな経済手法を持ち込んだことを端緒に、制度疲労を起こしていた政治・社会の建て直しが図られたほか、ソ連の歴史の見直しが進み、内外にわたる民主化・自由化の原動力となった。

※4 ハンガリー動乱 1956年10月、旧ソ連の支配に対し、ハンガリーで起きた民衆の蜂起。ソ連軍が介入し、鎮圧された。民衆に多数の犠牲者が出た。

※5 プラハの春 1968年、チェコスロヴァキアで自由化・民主化の機運が高まったことに対し、旧ソ連をはじめ、ワルシャワ条約機構加盟国のポーランド、ハンガリー、東ドイツ、ブルガリアが懸念を示し、軍隊を投入。保守的な共産党政権を復活させた。なお、同名の音楽祭が1946年に始まっている。

 

list