ピアニスト 八木 良平さんインタビュー

掲載日:2003年5月1日

八木 良平さん(27) 大阪府豊中市/ピアニスト

第1回(1996年5月22日)「武満徹追悼演奏会」

 当時、大阪音大ピアノ科の4年生。現代音楽が好きで声楽や作曲を学ぶ仲間と学内で1、2カ月に一度は演奏会を開いていました。「次は学外で」と相談していたところ、武満さんが亡くなり、追悼公演のプランを練った。演奏会を開く際、よく相談にのっていただいてた中村孝義先生に見せたら「面白い」と言われ、応募を勧められたのが、きっかけでした。
武満さんの音楽世界を幅広く紹介したかったので、ピアノやギター、トランペットのための独奏曲から、弦楽四重奏とオーボエのための「アントゥル・タン」、合唱曲「死んだ男の残したものは」、映画「不良少年」のための音楽、さらに代表作「弦楽のためのレクイエム」も取り上げるプログラムを組みました。
でも問題は演奏家の確保。僕自身は、1曲ピアノを弾くことにしましたが、あとは大阪音大の仲間や講師の先生らをはじめ、伝手を頼って京都や大阪の芸大の学生たちにも出演をお願いしました。結局出演者は、全部で50人近くに膨れ上がりました。
出演が正式に決まってから本番まで2カ月強。「弦楽のためのレクイエム」の演奏は実は、関西学院大の交響楽団にお願いしたんです。コレ、楽器の動きが複雑に入り組んでいて、難曲なんですが、出版社から楽譜を取り寄せ、楽器の弓使いを書き込み、出演者に配るはずが、僕も相手も大学の授業があるし、当時は携帯電話も持ってなく、連絡や作業が遅れ、自宅には苦情の電話がじゃんじゃん。夜中、仲間の車で出演者の下宿を訪ね、郵便ポストに封筒を入れて回ったこともあります。本番までにキチンと出来上がるか不安もあって、音大の学生に加わってもらい、僕も練習に毎回顔を出しましたよ。
チケットは1,000円。最初は無料にしようか、なんて思ってたんですが「タダだと、雨が降ったら、客が減る」と言われたもので…。
実際はほぼ満員の盛況ぶりでしたよ。
僕の出演は一番手だったので、その後はステージマネジャー。「レクイエム」の後、一番最後の曲として武満さんの遺作の一つである、独奏フルートのための「エアー」の演奏があったんですが、最後に音が静かに消えていく時、ホールの照明を徐々に絞り、舞台に掲げた遺影だけを照らし出してくれた。この演出には感動しました。
あの公演は、僕が音楽家を目指す上で一つのステップとなる舞台でした。音大の中で発表しているのとは違って、事前に新聞記事も載りましたし、一人の演奏家として聴いてもらえた気がします。 大学を出てからは、自宅でピアノを教えていますが、演奏家として毎年リサイタルを開くなどで、自分の演奏を聴いていただくよう心掛けています。あの公演を契機に、僕の演奏を聴いてくれるようになった方もいます。今はローゼンブラートやカスプチンといった知られざるロシアの現代作曲家の作品に興味を持ち、カナダのピアニストで今、静かなブームになっているマルク・アンドレ・アムランの公演には追っかけで東京まで行ったり。。。まだまだ勉強中ですが、頑張っています!

◇個性的な公演企画を公募し、審査で選ばれた方にザ・フェニックスホールを無料で使っていただく「フェニックスエヴォリューション・シリーズ」は、今年発足7年目を迎えました。これまでに出演した方々を訪ね、近況などを語ってもらいます(随時掲載します)。

■八木さんのホームページ「Piano Space」
http://www.ne.jp/asahi/yagi/piano/