連載 What is the Next New Design? 2
デザイナー松井桂三さんとの90分 進学・独立 「人と違ってこそ」信条に
掲載日:2005年3月1日
ザ・フェニックスホールのアート・ディレクションを担当している国際的デザイナー松井桂三さんの歩みをたどる連続インタビュー。前回は、広島での生い立ちをはじめ、美術部でデッサンや油彩に打ち込む一方、繁華街に溢れるアメリカの文化に心酔した高校時代までを描いた。地元・広島大学受験に失敗、方向転換を探る松井さんの目に飛び込んできたのは受験雑誌に掲載された、大阪芸術大学の入試募集記事だった。。。
浪人、イヤだったんですよ。仲間は自分の道に進む。広島に一人残り、勉強するのはご免です。大阪芸大を受験したい。オフクロに話すと、許してくれました。県下随一のエリート校で、僕も良い線までは行けたのですが、そこから上にはなかなか上がれずにいたのを知っていましたから「仕方ないな」と思ったんでしょう。京都や大阪に住んだことがあり、親戚が居たことも安心のタネになったようでした。
受けたのは芸術学部美術学科。今度は合格、ヤレヤレです。ところが、通知を受けた途端不安になった。「アートは食えん。これからはデザインの時代」という気持ちがぐんぐん膨らんでくる。僕が心底惹かれていたのは美術室の油絵でなく、街のジャズスポットで触れたアメリカのデザインだったことが多分、大きかった。オフクロは、また目を丸くしましたが、同じ大学のデザイン学科を受け直し、入学しました。1965(昭和40)年の春です。 先生はグラフィックデザインの中村真、早川良雄、写真の岩宮武二ら第一線の猛者揃い。授業では画用紙に1㌢四方の枠をいくつも描き、中の色をポスターカラーで塗り分けたり、清涼飲料水を題材に新製品のイメージを考案し、ボトルやラベル、ポスターや新聞広告までデザインしたり。初めての系統だったデザイン修業。楽しかった。
あのころは「デザイン」という言葉が一般に広がり始めた時期。専門学科を持つ大学は東京芸大や武蔵野、多摩などで、まだ多くはなかったんじゃないでしょうか。大阪にも九州、四国など全国から学生が集まった。そのうち天王寺の麻雀屋で遊ぶようになりました。雀卓を囲み「デザインの将来」を話したもんです。アメリカからはニューヨークのマディソン・アベニューのデザイナーたちがつくる広告が紹介され、一方、ヨーロッパからはイタリアのミラノを中心に、斬新なデザインが次々に発信されていた。また国内では明治から昭和初期の大衆文化に着目した横尾忠則さんが脚光を浴び始めていた。「日本とは」、「伝統とは」、「新しい創造とは」。。。。皆、20歳そこそこの若造。子どもと大人と境目の年代でしょ。デザインなんて、まだ分かっちゃいないんですがね。自分が何者かを確かめる作業と重ね合わせながら、迷う時期でした。僕は、イタリアのデザインに魅力を感じ、ヨーロッパに憧れを抱き始めていました。同時に、実にナマイキで、底知れない大きな自信を深めてもいました。それには、理由があったんです。
例えば、写真の撮影実習で仲間と京都の祇園に行く。先斗町界隈で撮影し、大学で合評すると、僕だけ先生からエライ褒められる。僕は「艶やかな舞妓さん」なんて絵葉書みたいなカットは撮らなかった。高瀬川の水車を真横から捉えたり、置屋の土間に揃えられた下駄を真上から俯瞰したり。花街を演出するパーツから京情緒を剥ぎ取り、幾何学的に平面化しようと試みたんです。「デザインは、人と違ってこそ意味がある」―。これを、いつも意識していました。故郷の進学高で机を並べた同級生とは異なり、デザインという世界に活路を見出そうとした僕にとって、常にユニークであろうとすることは単なる「心掛け」を超え、自分の生き方と直結する「信条」でした。それだけに、「目の付け所がオモロイ」という先生の言葉は嬉しくて仕方なかった。60年代半ば、日本のデザイン界は1970年の大阪万博の準備で大忙しでした。僕は門真の電器メーカーの照明研究所でアルバイトをしていました。最初は開発中の器具に関するアンケートに答えるくらいでしたが、万博の日本庭園向け街灯デザインを担当していた方が、ある日、「オマエ、デザインしてみろ」という。何とそのデザインが、採用されたんです。専門の社員が知恵を絞る中で、バイトのプランが通るわけですから、悪い気はしません。
自分のデザインが社会で通用するんなら、大学で勉強してる場合でもないんじゃないか―と考え、4年生の7月で辞めちゃったんです。すぐ恩師の事務所に就職し、アパレルメーカーのカレンダーデザインなどを手掛けました。でも初任給が2万5千円。実はこのころ、家庭を持ったばかり。満足には食えません。そのうえ上司から「キミ、もう少し出来ると思ったんだが」と揶揄されたのにカチンと来て、飛び出しました。自宅を事務所にし、外資系の製薬会社や京都の着物会社の仕事を手掛け始めた。大阪の建築金物会社が開発したロウソクのパッケージを手掛けたところ、120万円になりました。憧れのヨーロッパへ、放浪に出る決心を固めました。「青年は荒野を目指す」。五木寛之の小説に触発され、冒険旅行に旅立ったのです。
(続く)
▲大阪芸大の仲間と。左が松井さん