連載 What is the Next New Design? 3

デザイナー松井桂三さんとの90分 旅「イタリア」 自信深めたヒッピー生活

掲載日:2005年3月1日

 
この連続インタビューは、ザ・フェニックスホールのアート・ディレクションを手掛ける国際的デザイナー松井桂三さんの半生を辿る。これまで故郷・広島から大阪芸術大学に進学後、大阪万博の街路灯を設計するなど持ち前の才能で頭角を現し独立するまでを描いた。家族を持った松井青年だったが、世界のデザインをリードするヨーロッパへの思いが高じ、単身旅立つ決意を固めた。 
 
イタリアに行きたかったんです。日本の広告業界は大半、アメリカに目を向けていた。ニューヨークの、マディソン・アベニューにある広告代理店が、世界企業の広告戦略を手掛け、急成長中でした。僕も故郷・広島でアメリカの大衆文化に浸った時期もあったし、アメリカの情報はどんどん入ってくる。でも、人と同じはイヤでした。ヨーロッパにも良いものがある。特にミラノを中心としたイタリアのデザイナーは魅力です。例えば、エットーレ・ソットサス。オーストラリア出身で元々は建築家。最近、京都で彼の手掛けたカルティエの宝飾展がありましたが、30年以上前から彼の仕事は光っていました。フランコ・グリニャーニ、ピノ・タバーリャ、ブルーノ・ムナーリ。。。綺羅星のようなデザイナーが活躍する国を一度は、見てみたかった。 
 
1970年春、横浜でロシアの客船に乗り込みました。津軽海峡を抜けた途端、波が荒くなったのを覚えています。日本海を渡り、沿海州の港ナホトカへ。列車でハバロフスクへ向かい空路モスクワ、そしてウィーン。複雑な経路を選んだのは、旅費が安かったから。ウィーンまで片道確か11万7000円。仕事で、まとまったカネを手にしたとはいえ、初任給2万5千円を経験した身には大金でした。でも同じような奴、結構居たんです。フラメンコ志望でスペインに行く女性、ピアノでオーストリアに留学する15歳の女の子、グラフィックデザイナー目指しミラノに向かう男。知り合った仲間はそれぞれ熱い夢を抱いてました。
 
ミラノには列車で入りました。朝の光が眩しかった。駅前のホテルで旅装を解き、地元のデザイン事務所を回り始めました。実践で働き「修業」する腹積もりでしたが、法的には「ヤミ労働」。持参したポートフォリオ(紙ばさみ式の画帳)を抱え、あちこち行くんですが、イタリア語が出来ず意思疎通に四苦八苦。受け入れてくれた所も主人と水が合わなかった。方向転換し、ローマに出ました。

間もなく現地の日本人と知り合いになりました。事務機器メーカー「オリベッティ」に勤めるエンジニア。ハングリーな旅をしてた僕を、気にかけてくれた。相談すると、若いイタリア人同僚が住んでいるペンショーネで、1ベッド空いてるらしい。テルミニ駅近く。家賃が格安、月9000リラです。トラットーリア(大衆食堂)のフルコースで勘定が3000リラの時代。転がり込みました。 

ローマのデザイン事務所を回ると、どうもミラノより水準が落ちる。またまたガッカリです。持ちガネは減る。ともかく稼がなくては。スペイン広場ってご存知でしょ、映画「ローマの休日」で有名な場所。あそこで絵を売ることにしたんです。針金細工を作るヒッピー、似顔絵を描いてる画家も少なくなく、様子見ながら仲間入りです。"先輩"たちの絵の値は一律3000リラ。でも、僕は5000リラ取ることにしました。だって人と同じって、イヤじゃないですか。

題材も工夫しました。周囲が描くのはバチカン宮殿やサンピエトロ寺院など、名所旧跡。僕は土から人が生まれ出てくるという幻想的な絵で打って出た。目立ったのかもしれません。イギリスやカナダ、オーストラリアからの観光客が喜んで買ってくれた。日本も当時、経済成長期で大手旅行社のロゴをボディに大書した観光バスが日に2、3台は来てました。異国の広場に僕が居る。珍しかったのか、度々、話し掛けられた。 ところが冷たいもんです、絵は殆ど買ってくれない。何か尋ねられても怪しいイタリア語で煙に巻くようになりました。 

広場に通じるギャラリー街に「ガレリア・ラ・カサパンカ」っていう小じんまりした画廊があった。店主と知り合いになり、絵を見せたら「店に出してやる」というんです。画廊では、シュールレアリスムの巨匠マグリットの作品展をやってた。僕の作品を組み合わせても良いかなと考えたんでしょう。4面の壁のうち、1面をくれた。客は地元の美術ファン。観光客とは違う。一枚5万リラの値を付けたら、これまた結構売れたんです。何枚か描き足し、日本円で20万円は稼ぎました。

たかが日銭。されど日銭。そんなカネでイタリア国内を回りました。ダヴィンチの「最後の晩餐」はじめ美術作品も随分見ましたが、街を歩いては商品のデザインに目を凝らしたもんです。例えばミラノには「ダネーゼ」と呼ばれる名門工房の店があった。憧れのデザイナー、ムナーリらが手掛けた玩具や文房具、灰皿、衝立などは実に見事でした。当時、「イタリア・モダン」と呼ばれるおしゃれで斬新な家具が続々出ていましたが、今でも当時そのままのデザインを保っている例も少なくない。「良い物を長く使う」―ヨーロッパの伝統です。広場で、街で、イタリアの空気を胸いっぱい吸い込む毎日。それはそれで楽しかったのですが、パリを訪ねたのを機に、気ままな生活にも嫌気がさすようになりました。
(続く) 
 

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▲スペイン広場で。右が松井さん