連載 What is the Next New Design? 6

デザイナー松井桂三さんとの90分 旅 「物乞いの列」に重い衝撃

掲載日:2005年5月30日


ザ・フェニックスホールのアート・ディレクション担当デザイナー松井桂三さん(ハンドレッドデザインインク代表)の歩みを辿る連載インタビュー。広島に生まれ、大阪芸大でデザインを学んだあと独立。1970年の大阪万博などを舞台に気鋭のデザイナーとして活動を始めた。憧れのヨーロッパへの思いが高じて旅に出、イタリアなどに滞在。そして陸路で帰国の途に就いた。トルコから東へ。アジアを旅する松井青年の「冒険旅行」。今回はパキスタンからインド、そして帰国まで。
(聴き手 ザ・フェニックスホール「サロン」編集部)
 
 
アフガニスタンの首都カブールを後にし、中央アジアの要衝カイバル峠へ。ここを超えるとパキスタンです。国境の街ペシャワールでマイクロバスに乗り換え、パンジャブ州の州都ラホールへ向かいました。時期は11月終わり。高地で凍えるほどのアフガンと異なり、パキスタンは暖かかった。景色もモノクロの荒野から緑の公園が目立つようになり、黒茶色の土の家が連なるアフガンとは違い、白い家々もある。明るい陽光の中、リスが走り回っていた。
 
さらに国境を越えた。インドで感動したのは、街角で女性の顔が見えるようになったこと。パキスタンまではチャドルで全身を隠し、見えるのは僅かにサンダルや足首くらい。イスラム教の影響でしたが、インドはヒンドゥー教が多数派。サリー姿が殆どで褐色の笑顔が美しかった。サリーはベーズリー柄などの入ったグリーンやブルーの布。あんな色鮮やかな服装は、ヨーロッパを離れて以来。風土や宗教の違いで、装いがガラリと変わるのは新鮮な驚きでした。
 
インドの首都デリー。20世紀はじめ、大英帝国の植民地時代に造られ、官庁や各国の大使館、高級ホテルが立ち並ぶニューデリーと、19世紀なかばまで続いたムガル帝国の城下町オールドデリーがあるんです。インドの路上は牛が多い。ヒンドゥー教で神聖な動物とされていて、道路を牛が横切る時は、乗合バスの方が待つほどです。小さなバタンコ(三輪車)を雇い、オールドデリーのある街路に出た時のこと。道の両端、見通す限り物乞いが並んでいる。老若男女、何百人です。乳飲み子を抱いた母親、手足を失った人々もいる。前に空き缶。皆一様に痩せこけ、ぼろをまとい、うつろな目でうずくまっている。歩いて通り過ぎようとすると、声が掛かる。「ミスター! マネー!」-。子供がまとわりついてくる。足首を掴む者もいる。ボクは戸惑い、逃げた。堪らず、無我夢中で振り払いました。あの声は忘れません。インドには歴史的に作られてきた身分制「カースト」があり、道路に集まっていたのは、最下層に位置付けられた人々。その一方で豊かな人々もいた。
ボクらの宿はニューデリーにあったホテル。旅も終盤、ちょっとは贅沢を、と選んだ。ベッドのシーツが毎日取り替えられる、これまでの旅を思うと贅沢です。食事はふだん、屋台のチャパティやサモサ(※)などで間に合わせていたんですが、「一度はレストランで本格的なカレーを」と、仲間共々、ニューデリーの高級ホテルに出掛けたんです。
大理石が輝き、ふかふかの絨毯が敷き詰められた、まるでヨーロッパの老舗ホテル。高級なサリーをまとった淑女が紳士にエスコートされ、しずしず歩いていた。皆ふくよかで物腰が違う。実に静か。喧騒に満ちたオールドデリーの雑踏とは別世界です。「人は皆平等」という文化は日本も、憧れのヨーロッパも、基本的には共有していた。しかしインドは決定的に違った。光がまぶしいだけ影も濃い。すぐには埋められそうにもない「貧富の差」が厳然とあった。 この先は飛行機で帰ることになりました。ベトナム戦争の最中で、陸路インドシナ半島を通るわけにはいかなかった。搭乗はカルカッタの空港。鉄道でデリーを出たのは12月7日夜10時15分。直線距離で1000キロ以上あり、ダイヤ上で23、4時間、実際には30時間はかかるらしい。2等車に席を取ると、運賃37.2ルピー。千円くらいだったと思います。
 

途中、駅もないのに列車が止まる。すると「チャーイー、チャーイー」という声が聞こえ、子供が窓の下からお茶売りです。茶碗は、辺りの土を固めた素焼き。飲んでるうちじっとりお茶が染み出てき、土の味が濃くなってくる。飲んだら地面に叩きつけておしまい。エコロジーというかリサイクルというか、文字通り土に還る。人々の宗教観の表れかもしれません。 旅が終わりに近付くにつれ、帰国後のことを少しずつ考えるようになりました。でも何をしたら良いのか分からない。出発前に携わっていた産業デザインの仕事は、人々の暮らしを豊かに、美しく、機能的にするための、ある種の提案です。それは近代的な機械文明によって発展を遂げた、欧米のライフスタイルを前提としたものだったんです。ボクだけじゃない、当時の日本はおしなべて、欧米を見ていた。学校で学んだことや、新聞や雑誌、テレビで見るものもそう。アフガンやインドのことなんて、ほとんど全く出てこない。ところがアジアを旅すると、いまだに物々交換があったり、電気も水道もガスもないような原始的な生活が残っていて、しかも人々はそんな暮らしを楽しんでいるではないか。

自分のデザイン概念が、ちっぽけなものにも思えてくる。欧米の生活だけが目指す道じゃない。いろんな方向性があって良い。もう産業デザインはやめ、ファッションデザインをやろうと考え、バザールや街角で見かけた民族衣装をスケッチしたりもしました。日本では服のデザインなんて思ってもみなかったんですがね。プリミティヴ(原始的)な魅力を現代社会に紹介しようと思った。とにかく、自分の中で「何かしなくては」という気持ちが高まり始めたのは確かでした。

カルカッタで乗り込んだのはタイの航空機。チケットが安かったんです。ビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)からバンコク(タイ)、香港、台北(台湾)を経て、大阪国際(伊丹)空港に着いた時には、年も押し詰まっていました。長旅で疲労の極致。ターミナル前で仲間と別れ、鉛のように重い体とスーツケースを引きづり、森小路の我が家に向かいました。実は旅の半年間、嫁さんはじめ家族には電話も手紙も、全く連絡を取ってませんでした。玄関前、気が詰まりましたが、思い切って引き戸をガラガラッと開けました。
(続く)

(※)サモサ 豚肉、タマネギ、塩、カレー粉などをギョウザや春巻きの皮のような物に包んで揚げた、ピラミッド型の軽食。 

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