マリンバ奏者 加藤訓子さんインタビュー

掲載日:2006年6月1日

金曜の午後、音楽をゆったり楽しんでいただくザ・フェニックスホールの「ティータイムコンサートシリーズ」。2006年度も5公演が行われる。6月9日午後、本年度最初のティータイムコンサートに出演するマリンバ奏者、加藤訓子さんは愛知県出身。現在はアメリカを拠点に欧州、アジア各国に飛び、ソロ、室内楽、オーケストラとの共演、さらには演劇や美術アーティストとのコラボレーションなど、実に広範な活動を展開している。ザ・フェニックスホールには初登場。リサイタルを前に、これまでの歩みや、マリンバに寄せる思いなどをきいた。
(「サロン」編集部 

――まず歩みについて伺います。幼い時期は、何か楽器をしていたのですか。 
 
2、3歳のころから先生に就きピアノを習っていました。ヤマハにも通ってピアノや作曲を手掛け、アンサンブルも楽しんでいました。
 
――打楽器を始めたのはいつですか。
 
最初、マリンバを始めたんです。13歳のころでした。手が小さかったので、子供心ながらピアノには、行き詰まりを感じていた時、耳にしたのがマリンバ。音の魅力、この木の独特な響きに惹かれたのだと思います。自分で選んだ楽器、というわけです。ピアノやヴァイオリンなどと異なり、打楽器は、西洋の芸術音楽の伝統的な概念にとらわれることなく、音やリズムを直に体感できる。そんな自由さを魅力として感じたことを覚えています。音楽大学に入ってさまざまな楽器や作品に触れ、打楽器全般にも関心を広げていきました。独りでピアノに向かっていた時期とは違い、人と音楽を分かち合えるのが新鮮でした。リズムや運動だけで演奏する打楽器には、他の楽器にない「音楽の原点」を強く感じるようになりました。
 
――現在は主にどのような活動をなさっているのでしょうか。
 
中心はソロコンサートやリサイタル。年間10~20公演でしょうか。東京や横浜ではほぼ定期的に開き、地方での活動も大切にしています。富良野、黒部、山梨、豊橋、名護、、、北海道から沖縄まで、土地の方々と一緒に創り上げる舞台を目指してきました。どこも思い出深く、同じ土地で再び演奏することも多いです。次に室内楽。「アンサンブル・ノマド」などのグループ活動やデュオ、トリオなど他楽器との共演です。最近ご一緒させていただいたのは、ヨーロッパ時代からの知り合いでリコーダー奏者の鈴木俊哉さん、アコーディオンのシュテファン・フッソングさん、同じアコーディオンで、とりわけ意気の合ったのがノルウェーのフローデ・ハルトリ君(余談ながら、彼とはなんと誕生日が同じだったのです)。オーケストラとの共演や、ダンサー・演劇・美術とのコラボレーションも重要です。また、大事にしているのがワークショップ。打楽器、マリンバ、現代音楽は「分かりにくい」と言われがち。打楽器の、プリミティブ(原始的)な楽器としての強みをもっと訴え、一般の方により身近に感じてもらい、底辺から層を広げたいと思っています。
 
――特に影響を受けたアーティストはどなたでしょうか。
 
スティーブン・シック(※文末注1)ですね。私はロッテルダムに留学したのですが、それ以前も音楽祭に参加したり、レッスンを受けたりするため、ヨーロッパに通っていました。行き始めたばかりのころ、ドイツのフライブルクに滞在し、その折に出会ったのが彼。のちベルギーのアルス・ムジカ音楽祭で演奏に触れましたが、すさまじいテクニックとオーラに圧倒されました。「超人的な」演奏、カリスマ的な存在感でした。「打楽器ソロ」という形態で、こんなにも人を惹きつけられるものか、世界にはすごい人が居るものだ、と。その後も度々演奏に触れる機会に恵まれ、刺激を受けました。 

 katoukuniko2

――加藤さんご自身は、どんなアーティストになりたいですか。
 
 「音を生み出すことによって、その瞬間の空気、世界観を変えられる存在」でしょうか。やっぱりシックの影響かしら…。今は、音と体の一体化を目指しています。
 
――現在、アメリカに拠点を持っていますね。
 
ヨーロッパではロッテルダムやベルギー、ロンドンなどに住みました。動き回る生活を10年ほど続けるうち、少し落ち着いた生活と、それでいてクリエイティブな活動ができる環境が欲しくなったのかもしれません。生活上のパートナーとの出会いもあり、アメリカを拠点に選びました。それまでは、アメリカはどちらかというと嫌いで、住むなんて想像もしていませんでしたが、暮らしてみると広々と暮らしやすく、演奏活動を支える上での環境も整っていて、それほど裕福でなくても余裕ある生活が送れます。忙しい日本から離れ、ゆったりした時間の中で打ち込めることが、嬉しいです。ただ、この2、3年は、日本での活動に力を入れてきたので、年の半分くらいはアジアで過ごしています。
 
――ご自分のレパートリーを分析してください。どのような作品を好んで演奏しておられますか。
 
現代作品の中では、一度しか演奏されない実験的なものでなく、繰り返し演奏できるような「力」ある曲をできるだけ選んできました。マリンバや打楽器の特性をアピールできるよう、既存作品を編曲したり、作曲したりもします。かつてさまざまな演奏家が、楽器の変化・発展と共に自ら演奏する作品を創ったように、私も新たな音楽を求め、自分のため、自分の楽器のために創作もしています。
 
――評価する作曲家はだれですか。
 
ヤニス・クセナキス(※文末注2)です。建築家でもある彼は、作曲にコンピュータを用い、例えばピアノ曲で10本の指では弾けないようなことを求めたり、極限に近い強弱変化を要求したり、人間の手では演奏不可能な譜面を書くこともあります。「非人道的」とさえ思うこともありますが、立ち上がってくるサウンドには、いつも力強い土着的なリズムや音楽の深みを感じます。
 
――加藤さんにとって「演奏する」という行為は、どんな意味を持っているのでしょうか。
 
全身を駆使し、指先から脳の隅々までに行き渡る運動、自己表現、そしてライフワーク。私はいまマリンバだけでなく打楽器も演奏しますが、マリンバにつかず離れずいた時期や、打楽器に没頭してきた時期もありました。でも、私の「原点」はやっぱりマリンバ。これまでに打楽器を通して習得した体の使い方、音の創り方を生かし、今もう一度、マリンバに向き合いたい。また人類のルーツの一つはアフリカにあり、世界に拡散していったと言われます。マリンバの最も古いルーツもアフリカにあり、小さなひょうたんのついた卓上木琴のようなものが、民族移動とともに変化し、さらに西洋の近代化の過程で平均律に調律され、大きさ2メートルを越え、音域5オクターブを持つ巨大な楽器として芸術音楽の世界に入ってきました。そんなマリンバのルーツを辿る中で、私自分自身の音楽的なルーツを探ってみたいとも思います。
打楽器を通して習得した体の使い方、音の創り方を生かし、今もう一度、マリンバに向き合いたい。また人類のルーツの一つはアフリカにあり、世界に拡散していったと言われます。マリンバの最も古いルーツもアフリカにあり、小さなひょうたんのついた卓上木琴のようなものが、民族移動とともに変化し、さらに西洋の近代化の過程で平均律に調律され、大きさ2メートルを越え、音域5オクターブを持つ巨大な楽器として芸術音楽の世界に入ってきました。そんなマリンバのルーツを辿る中で、私自分自身の音楽的なルーツを探ってみたいとも思います。 

 
――ザ・フェニックスホールは、300人ほどの小ホール。どんなことを訴えたいですか。
 
ソロコンサートはどんな場所でも、「音」と「空間」と「そこに居る人々」が一体となれることを目指しています。特に打楽器は、音のダイナミクスと同時に、奏者の動きも鑑賞するうえで大切な要素。基本的に奏者と観衆の距離が遠い大ホールよりも、お客様との距離は近ければ近いほど理想的。ザ・フェニックスホールでは、音が生まれる瞬間と奏者の動き、音の響きをそこに居る人々が共に、より明確に、感じることができるのではないでしょうか。それは最高に幸せな瞬間であり、心にも体にも、良い潤いになるに違いないと思います。どうか、この時間を一緒に感じていただけますように。

***

加藤訓子(かとう・くにこ) 
桐朋学園大学でマリンバを安倍圭子、打楽器を小林美隆、佐野恭一に師事。同大学研究科修了後に渡欧、ロッテルダム音楽院でロバート・ヴァン・サイスに師事。打楽器奏者として初のクムラウド称号を授与され首席で卒業。1997年にはイギリスの作曲家ジェームズ・ウッドのレコーディングに参加、また99年には同氏により献呈された新作《JODO(浄土)》をイギリスで初演、好評を博した。ライヒやドナトーニをはじめ、世界的な作曲家や演奏家とも数多く共演、ソロ以外にもアンサンブル・ノマド、アンサンブル・イクトゥスなど国内外の室内楽グループで活動している。94年からサイトウ・キネン・オーケストラにメンバーとして毎年参加。90年第7回日本管打楽器コンクール第2位。95年リー・ハワード・スティーブンス国際マリンバコンクール第2位。96年ダルムシュタット国際現代音楽祭クラニヒシュタイン賞など各賞受賞。米国PASICには2000年、2001年と連続で招かれ世界35人のマリンビストにも選ばれている。


○加藤訓子オフィシャルウェブサイトwww.kuniko-kato.net/   

***
 

(※1)スティーブン・シック 米アイオワ出身の打楽器奏者。アイオワ大学、フライブルク音楽大学に学ぶ。さまざまな作曲家に新作を委嘱、ニューヨークのリンカーンセンターやロサンゼルスフィル主催の公演、「ワルシャワの秋」(ポーランド)、「プロムス」(英国)、「ブダペストの春」(ハンガリー)といった音楽祭などで初演を重ねている。1984年から92年までドイツのダルムシュタット現代音楽夏季講習会で教鞭を執った。現在カリフォルニア大学サンディエゴ校教授。ロッテルダム音楽院や英王立音楽大学、マンハッタン音楽院でも後進の指導にあたっている。
(※2)ヤニス・クセナキス ギリシャ出身、フランスで活躍した作曲家。当初は建築家を志し、パリでコルビジェと共に仕事に携わった。一方でオネゲル、ミヨー、メシアンらに作曲を師事。十二音音楽などを手掛けたあと、数学理論を用いた確率音楽を創作。代表作に「メタスタシス」「ピトプラクタ」。さらにコンピュータを使った作品、電子音楽、空間の中に音楽家を点在させて演奏を行う空間音楽など、多様な創作を続けた。