ヴィオラ奏者 菅沼準二さんインタビュー

掲載日:2006年10月24日

11月、登場する「ジャパン・ストリング・クヮルテット(JSQ)」。1994年、名実共に日本を代表する演奏家4人で結成、「弦楽四重奏の聖典」といわれるベートーヴェンの作品を軸に活動を展開してきた本格派だ。前回2004年12月の公演は、ヴィオラの菅沼準二さんが体調不良で欠演、急きょ代理を立てた。菅沼さんはその後、順調に回復、今回は「再生JSQ」の初舞台となる。戦後楽壇のスターヴァイオリニストが率いた伝説的なクヮルテット「巖本真理(いわもと・まり)弦楽四重奏団」(※)などで長く活躍、その後、NHK交響楽団首席奏者や東京芸術大学教授を務めるなど、日本ヴィオラ界の「重鎮」として歩み続けてきた菅沼さんに、歩みや弦楽四重奏の醍醐味、JSQの特性などについて伺った。                             (聞き手:ザ・フェニックスホール 谷本 裕)  
 

 

「弦楽四重奏団は言いたいことが言えて、
それでいてお互いを理解し、
尊重している事が大切」と語る菅沼さん
=7月21日、東京・港区 


――菅沼さんと弦楽四重奏との出合いはいつだったのだろう。 

 東京芸大に入った時、「三度の飯よりカルテット」というヴァイオリン弾きが同級に居ましてね、誘われたんです。室内楽については当時、「ソリストになれない奴がやる」と見る風潮があり、専門の教官は居なかった。でも軽井沢で合宿したり、学園祭で弾いたりするうち、夢中になりましてね。モーツァルトの「不協和音」(弦楽四重奏曲第19番ハ長調K465)からハイドン、ベートーヴェン、ドヴォルザークの「アメリカ」(弦楽四重奏曲第12番へ長調)くらいまで弾きましたかねぇ。いつの間にかソロより、こっちが主になっちゃって。 

 
――そもそもヴィオラを手にしたのは、遅めだった。 

 これも芸大に入る時ころから。親父がヴァイオリン製作の職人でしてね。その影響で僕は小学校5年くらいからヴァイオリンを習った。3年も経つとヴュータンやメンデルスゾーンの協奏曲が弾けるようになり、将来を期待されてたんです。ところが僕、野球が大好きでね。甲子園目指して三塁手になり、真っ黒になって白球を追っ掛けてた。高校3年の夏、親父から「卒業したら楽器作りの見習いだ」って言われたんです。住み込みで床拭きからだ、なんて聞いてイヤになりましてね。文句言ったら「じゃ芸大に行け」と。前の先生が芸大におられるし、今さらヴァイオリンは宜しくない、とヴィオラに。新しい先生は、これも芸大におられた井上武雄さん。超スパルタ式の、恐ろしい師匠でした。8月から真っ青になって受験準備を始め、何とかセーフ。今じゃ、考えられませんよね。

――「体育会系」からいきなり芸大。馴染めたのだろうか。
 
周囲は厳しい訓練を積んで来た奴ばかり。上手く思えて仕方なかった。僕は少々リズムに弱いところがあって、四重奏を合わせてもズレる。仲間から責められましてね。同級相手に情けない思いをしたくない、その一心で猛練習しました。朝6時には上野の校舎に駆けつけた。個人レッスンは今のように順番が決まっておらず、早い者勝ちだったんです。学校に泊り込んで練習したことも。「体力勝負」でしたが、そこは元野球部。丈夫でした。

――驚異的な上達を示し、菅沼さんはさらに勉強を続ける。
 
専攻科(現・大学院)に進みました。この時期は室内楽だけでなく、芸大の管弦楽部でも弾いてました。修了間際、だれが紹介してくれたのか、ベルリンの歌劇場の附属管弦楽団と米インディアナの交響楽団から、「アタマ(首席)で迎えたい」って話があったんです。でも結局、断りましてね、日本で室内楽をやることにした。

――もったいない話では。
 
井上先生から「室内楽をやれ」と命じられたんです。ウィーンで修業したヴァイオリンの日高毅さんが帰国するので「組んだら勉強になるぞ」と。「ディヒター弦楽四重奏団」の名で彼らと活動を始め、ピアノの安川加寿子さんとも度々、共演しました。一時はヴァイオリンの岩淵龍太郎さん(元N響コンサートマスター、京都市立芸術大学名誉教授)率いる「プロムジカ弦楽四重奏団」で弾いた時期もあります。このころは、東京交響楽団の客演首席奏者をやったり、放送局でスタジオ仕事をしたりもしました。本格的に弦楽四重奏に打ち込むようになったのは、巖本真理さんらと活動するようになってからですね。

――「巖本真理弦楽四重奏団」といえば1960・70年代、全国で華々しい活動を展開したアンサンブルである。
 
生前、巖本さんが何度も述懐していたように、このグループの実質的なリーダーはチェロの黒沼俊夫さん(元・日フィル首席、元京都市立芸術大学名誉教授)でした。僕と黒沼さんとの機縁は、関西です。当時、京都市立音楽短大(現・京都芸大)の教官と学生でつくっていた「アカデミア合奏団」ってのがありましてね。京都市交響楽団の指揮者だったハンス・ヨアヒム・カウフマン(第2代常任)が棒を振ってました。顔を出すうち、黒沼さんに声を掛けていただいた。64年くらいから黒沼さん、巖本さんとの共演が始まり、66年から「マリカル」(巖本真理弦楽四重奏団の愛称)にご一緒させて頂くようになりました。音楽人生で最も影響を受けたのは、黒沼さんです。並みのチェリストなら、素早く弾き飛ばすフレーズでも、彼の場合、一つひとつの音が心に食い込んでくる凄みがあった。節(ふし=旋律)弾いてる時はもちろん、他人の伴奏でも音楽が死なない。どっしりした存在感が素晴らしく、心酔しました。

――巖本さんは、どんな演奏家だったのだろうか。

 12歳で音楽コンクール1位、20歳で東京芸大教授。米国で名教師パージンガーに習い、ニューヨークでリサイタル。一世を風靡した大ソリストでした。ソロから室内楽に傾倒していったのは、黒沼さんの影響です。彼女は音色が抜群に美しく、演奏は情熱的でフレーズが長い。お得意のブラームスの演奏はとりわけ素晴らしかった。ただソロと異なり、弦楽四重奏曲は基本的には4人で作り上げる音楽。第1ヴァイオリンで旋律を受け持つ時、伸びたり縮んだりするにも、ある程度限度がある。室内楽経験が少なく、ぶきっちょなところもあった巖本さんを黒沼さんは手取り足取り導いた。最初のころは、まずお二人が練習し、4人合奏は後回し。内声部を受け持つ僕と友田(啓明=第2ヴァイオリン)は、お二人の「型」に、全面的に合わせる役割でした。巖本さんが勝手気ままな演奏家に聞こえるかもしれません。でも気配りが利く人で、練習中、譜面に何か書き入れようと思うと鉛筆を、消そうと思うと消しゴムをスッと差し出してくれる。そんなのに甘え、皆彼女を「ねーちゃん、ねーちゃん」なんて呼んでた。彼女は自分には人一倍厳しく、練習熱心。夕方まで合わせて一晩明けると、前日とは全く音楽が変わってるんです。巖本さん、帰ってから独りでさらってたんですね。僕ら内声担当としては毎度、合わせるのに必死。バルトークの曲なんか特に大変ですから演奏がズレないよう、本番直前も確認のため予定プログラムを一度は通して弾くのが通例でした。ヒヤヒヤの舞台も結構ありましたねぇ。 

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▲ジャパン・ストリング・クヮルテット
=ザ・フェニックスホール公演から

――東京で春・秋4回ずつ定期公演を開き、全国を演奏旅行していました。70年代前半、年間公演数が80回にも及ぶこともあった。いま、これほど活動の盛んな弦楽四重奏団は、国内にはない。
 
巖本さんの人気は絶大で、放送収録があったり、各地の労音に呼ばれたり。選曲や共演者は、主に黒沼さんが決めていた。レパートリーの軸はベートーヴェン。一度、ベートーヴェンの作品全曲を弾き、バルトークの全曲演奏を挟んで、再度ベートーヴェンを手掛けたら、すごく楽だったのを覚えています。練習もそのうち、最初から4人で合わせるようになり、僕らも「自己主張」するようになった。練習所近くの洋食屋でよく打ち上げをしましたが、黒沼さんは絶対に本番のミスを責めない。それだけに弾き損ねた時は悔しかった。気心が通じるにつれ、4人が1つの楽器に感じられる瞬間が増えていきました。スメタナ、ボロディン、ジュリアード―と当時、いろんな弦楽四重奏団を聴きましたが、何するものか、って思いましたね。

――そんな「マリカル」を76年、菅沼さんは去る。請われてN響首席になった。
 
大学を出る時に室内楽を選び、打ち込んできたんですが『オケで仕事をしたい』という気持ちがどこかに残っていたんです。親も老いて、経済的にもある程度の安定が正直、欲しかった。当時のN響はサヴァリッシュやスイトナー、ホルスト・シュタインといったドイツの巨匠が率いた時代。僕は東響や読響で首席を務めた経験はあるとはいえ、交響曲や管弦楽のレパートリーを身に付けるのに死に物狂いでしたね。N響では、100人もの演奏家が一つになって音楽を奏でることが年に何度かはあった。でも、それは一人ひとりの自発的な音楽づくりの結果というより、非凡な才能を持つ指揮者による事が多い。マリカルで身に付けた「4人で1人」の一体感が、懐かしくなることもありました。

――N響を14年間務め、退団。母校芸大で後進の指導に携わるようになった。そして94年、ジャパン・ストリング・クヮルテット結成に加わる。
 
第1ヴァイオリンの久保陽子さんとは、倉敷や木曽福島などの音楽祭でご一緒する機会が多かった。お名前の通り、陽気で明るい音楽性が僕は大好きで、久保さんの方でも僕を気に入って下さっていたようです。国際交流基金から「アラブ諸国に演奏旅行する弦楽四重奏団を組んでほしい」という依頼が久保さんにあり、幼馴染みのチェロ岩崎洸さん、音楽仲間の久合田緑さん(第2ヴァイオリン)と僕とでカルテットを組んだ。「ジャパン・ストリング・クヮルテット」、訳せば「日本弦楽四重奏団」ですが、みんな修業先はさまざまです。久保さんはフランスで学び、岩崎さんと久合田さんはアメリカで勉強してる。音合わせのA(ラの音)の高さからして、アメリカは440ヘルツが一般的。ヨーロッパは445や446ヘルツなんてこともある。一方、日本は442と、土台が異なる。今は442に定めてますが、当初は音合わせに、とても苦労した。音合わせの苦しさは、実は今も続いてます。

――"内側"から見るとメンバーはどう見えるのだろう?
 
久保さんはダイナミックで奔放。巖本さんが少しまごついたフレーズも、鮮やかに弾いちゃう。一方、岩崎さんの音色には、かつての黒沼さんを彷彿とさせるところがある。この二人は、今もソリストとして活動してます。そのせいか「マリカル」の巖本・黒沼コンビとは違って、練習の時から、音楽がぶつかってぶつかってね(笑)。でも僕ら、そこから音楽を紡いでいくんです。「激しさ」がJSQの強みであり、魅力なんじゃないか。内声を受け持つ久合田さんは、実に気配りに長けた方で、僕の同志。一緒になって、ある時は久保さん・岩崎さんにピッタリ付けたり、別の時は引っ張ったり。弦楽四重奏団は「4人で1人」に成らなきゃいけない。そのためにはベタベタした関係の「親友」が寄っても必ず破綻する。少し距離を取り、言いたいことが言えて、それでいてお互いを理解し、尊重していることが大切なんです。

――「マリカル」同様、JSQもベートーヴェンを活動の主軸に据えている。ザ・フェニックスホールでも過去4回、全曲ベートーヴェン作品のコンサートを開いた。
 
弦楽四重奏団のレパートリーは、ハイドンから入ってモーツァルト、シューベルト、ブラームス、ドヴォルザーク・・・と手掛ける順序に、「定石」みたいなのがあって、ベートーヴェンは簡単には手を出せない。譜面通りには弾けても、奥行きがとてつもなく深いから、一つひとつの音符にこだわらないと、本当に生きた音楽にならない。若い弦楽四重奏団が弾いても、つまらないと感じることが多いですよね。でも僕らは、経験のある大人が4人集まってるんだから、思い切ってベートーヴェンから始めようぜ、って言ったんです。もちろん、プログラムにベートーヴェンの曲が一つ入っていると集中力が必要だし、体力的な負担も全然違います。これまでの舞台は上手くいかないこともあったけれど、すごく充実していました。ベートーヴェンの演奏は、これからも続けていかなきゃならないし、今はストップしてるCD録音も、できれば再開したい。僕は2年前、体を壊しましたが、昨年から演奏に復帰してます。室内オーケストラ(紀尾井シンフォニエッタ東京)のアタマでは弾いてますが、室内楽は今回、初めて。9月から練習予定が入ってます。一生懸命練習して、「再生JSQ」の、充実の演奏をお聞かせしたいですね。


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(※)巖本真理弦楽四重奏団 
巖本真理(第1ヴァイオリン)、友田啓明(第2ヴァイオリン)、菅沼準二(ヴィオラ。のち生沼誠司)、黒沼俊夫(チェロ)のメンバーにより1966年2月、ニッポン放送の「フジセイテツ・コンサート」で正式発足。古典から現代まで幅広いレパートリーを持った。67年から東京文化会館で年8回の定期公演を始め、79年の巖本の死去に伴う解散までに94回を数えた。名古屋での定期公演開催をはじめ、全国で公演を重ね、室内楽普及に貢献した。芸術祭賞、レコードアカデミー賞、モービル音楽賞の各賞を受賞。
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