アリム・カシモフ アゼルバイジャンの歌声 コンサート概説
掲載日:2008年7月10日
2007年、NHK総合テレビの人気番組「新シルクロード」のテーマ曲で美声を響かせた男性歌手が7月19日(土)夕、ザ・フェニックスホールに登場します。アリム・カシモフ。東西文化交流の道「シルクロード」に連なる中央アジアの国アゼルバイジャンの国宝級歌手。今公演で彼が紹介する伝統音楽の聴きどころをはじめ、アゼルバイジャンの概要や同地の楽器などについて、中東音楽研究家の樋口美治さんに寄稿してもらった。
絶頂期の名手 聴ける喜び
アゼルバイジャンは、多くの民族が複雑に入り組んだコーカサスの東部に位置し、テゥルク諸語に属するアゼリー語を母語とするイスラム教シーア派のアゼリー人が多数を占める国である。アルメニアとの紛争、独立後の経済の低迷により長く厳しい日々が続いていたが、ここ数年は、原油高騰による好景気により建設ブームに沸いている。風の街を意味する首都バクーは、油田とキャビアで有名なカスピ海に臨む港町で、城壁に囲まれ小路が入り組んだ旧市街は、街のシンボルの乙女の望楼、宮殿、隊商宿など史跡の宝庫で、旧市街そのものが世界遺産として登録されている。
多様な民族・宗教混交
2万年前の岩絵が残されているように、この地には早くから人が住みつき、かつては、ペルシア系ゾロアスター教徒の土地であったが、アラブ人とともにイスラム教が到来し、アゼリー人の直接の先祖となるテュルク系遊牧民が入り、セルジューク朝時代にテュルク化とイスラム化が進んだ。シルヴァン朝、サファヴィー朝、オスマン朝による支配のあと、17世紀に再度のサファヴィー朝支配の下、シーア派改宗が進みアゼリー人と呼ばれる民族が形成された。イラン北西部には、現在も多くのアゼリー人が住んでいる。ペルシア系とテュルク系の間で、この地域の争奪が長く続いたが、19世紀のイラン・ロシア戦争の結果、ロシアに割譲され、革命後一時独立国となったが、赤軍侵攻でソ連に組込まれた。ソ連解体後1991年ようやくアゼルバイジャン共和国として独立した。
古典音楽「ムガーム」
コーカサスは、多くの民族の変遷により様々な要素が混ざり合った豊かな文化が育まれた民族音楽の宝庫であるが、アゼルバイジャンには、ムガームと呼ばれる古典音楽が伝承されている。ムガームという言葉は、音楽用語として旋法を表すアラビア語のマカームに由来する。アゼリー語では旋法の意味もあるが、一般にムガームは旋法体系に基づいた歌唱の形式を意味する。ムガームはアラブ、ペルシア、トルコ系の音楽が融合し、都市の宮廷を中心に発展したと考えられ、イラクのマカーム、中央アジアのタジキやウズベキのマコム、ウイグルのムカームと多くの類似点を持っている。19世紀初頭、バクー、シュシャといった諸都市に音楽学校が開かれ、特にシュシャは、当時、中東の音楽教育の拠点の一つであった。この頃、現在のムガームの構成や演奏スタイルが確立され、ラスト、シュール、チャハラガ、バヤティ・シラズ(バヤティ・イスファハン)、フマユーン、マーフール・ヒンディ、ラハブ、セガー・ザブル、ドゥガー、シュシュタルといった10の基本旋法に基づいた94のムガームが伝承された。
ムガームは、緩やかな形式に基づいて演奏される。器楽による導入部ダルアマド、続くバルダシュトにおいて基本の旋法形を提示し、ムガームの中心部分であるマイェで古典詩を歌いあげる。続くパートで、基本旋法と関連する旋法に基づいたレング(ドゥリンギ)という多様な旋律形を、器楽と声楽によって次々に提示する。このパートは演奏家の個性や技量が最も示される部分である。また、テスニフと呼ばれる各基本旋法に基づいた独立した歌曲が挿入される。ひとつのムガームで30~40分程度の演奏が一般的である。
変化続ける民族楽器
ムガームは基本的に、歌い手とタール、ケマンチェ、ダフの器楽奏者によるグループによって演奏される。タールは、牛の心臓膜を張った桑の木の胴と胡桃の木のネックの2オクターブ半の音域をもつ撥弦楽器である。11弦(メロディー弦は複弦3コース、核音弦、装飾音4弦)、22フレットで、プレクトラムで演奏される。タールとは弦を意味するペルシア語で、多種のタールが中東各地にあるが、ミルザ・サディク・アサド・オギュル(1846-1902)により現在の形に改良され、胸の前に水平に構えて演奏されるようになった。ケマンチャは、蝶鮫の皮を張った胡桃の木の胴の4弦の弓奏弦楽器で2オクターブの音域をもつ。古くは、南瓜製の胴で1~2弦のものであったが、19世紀後半に今の形となった。ダフは、直径25cm程度の胡桃や杏の木製の枠に蝶鮫の皮を張った片面太鼓である。
ジャズと融合 新境地
20世紀初頭からは、男性歌手に加えて多くの女性ムガーム歌手も登場し、単に伝統の継承に留まらず、ムガームと西洋古典音楽の融合も進められ、西部のガンジャ生まれの詩人ニザーミーの叙事詩ライラとマジュヌーンをテーマとしたオペラをはじめ多くの作品も創作されている。また、ムガームとジャズを融合させた新たな音楽の創造も盛んである。
アリム・カシモフ氏は、1957年、優れた絨毯の産地としても著名なシャマヒ生まれで、現代のムガームの第一人者である。国内での最高の評価と絶大な人気に留まらず、イランや欧米諸国での演奏会で絶賛され、1999年にはユネスコ音楽賞も受賞している。最近では、娘で歌手のファルガナさんを伴った演奏活動を行っている。
絶頂期にあるアリム・カシモフ氏のムガームを、今回、日本で聴けることは、この上ない幸運です。
(ひぐち・よしはる 中東音楽研究)
樋口美治 1956年東京生まれ。成蹊大学文学部卒業。1981-83年、アルジェリアを中心としたマグレブのアラブ・アンダルシア古典音楽の調査研究を行う。1984-86年、イラク国立古典音楽院に留学し、イラク・マカームと東アラブの古典音楽の研究、理論とナーイの演奏を専攻。1987-90年、オマーン王立伝統音楽センター研究員として、オマーン、ザンジバル、ケニア海岸部、コモロを中心としたアラブ湾岸地域と東アフリカ海岸地域の音楽文化を調査研究。以降、1995-97年、マケドニア、ボスニアを中心にバルカン、また1998-2007年、グルジア、アゼルバイジャン、アルメニア、ウズベキスタン、タジキスタン、トルコでコーカサス・中央アジアの音楽文化をそれぞれ調査研究。アゼルバイジャンを含むコーカサスへの渡航歴は30回に及ぶ。現在、国立民族学博物館共同研究員。