林美智子さんインタビュー
掲載日:2010年3月29日
—林美智子さんの歌唱をお聴きになれば、歌が心にふかく(ときに優しく、あるいはつよく)語りかけてくる、そのちからを感じられることだろう。卓抜な歌唱力・表現力をもってオペラ界でひっぱりだこ、日本を代表するメゾソプラノのひとりだ。関西でも佐渡裕プロデュース・オペラ《カルメン》主演の大成功(昨年6月)も記憶に新しいところだし、今年1月には、阪神・淡路大震災15周年を祈念する兵庫芸術文化センター管弦楽団とのヴェルディ《レクイエム》独唱で満場を揺らし、震災15周年記念事業《“心に歌声を”スペシャル・コンサート~歌姫たちのアヴェ・マリア~》でも祈りを歌に深く託した。…ところが関西でも活躍の林さん、大阪でのリサイタルはまだ。待たれたところでいよいよ来年度、ザ・フェニックスホール〈ティータイム・コンサート〉への初登場が決まった。 (山野雄大)
優しく深い「うた」の世界
今や日本のオペラ界になくてはならない存在となった林美智子さん。東京二期会の舞台を中心としてオペラやリサイタルに活躍されるいっぽう、CDもこれまでに2タイトル発表されている。オペラ・アリアの名曲を集めたデビュー盤『赤と黒』に続いて、ご本人たっての願いで実現したのが、現代作曲家・武満徹(1930-96)が生涯さまざまな機会に書き残した〈うた〉を集めたアルバム『地球はマルイぜ~武満徹:SONGS』。今回、ザ・フェニックスホールへの初登場コンサート(2011年2月)では、このアルバムでも素晴らしい歌唱を聴かせてくださった、武満ソングスをたっぷりとお届けする。
武満徹という作曲家は、戦後まもなく作曲家としてデビュー。しばらくはその独特の感覚が批評家に理解されず酷評に泣くが、〈弦楽のためのレクイエム〉(1957年)が、たまたま来日した大作曲家ストラヴィンスキーの耳にとまって激賞され、やがてその鋭く豊かな音世界への評価は高まってゆく。
大の映画好きでもあった武満は、先鋭的な作品を書くかたわら、若い頃から映画音楽・放送音楽を積極的に作り続けた。そんな中から生まれた、誰でも口ずさめるポップ・ソングの数々が、〈歌曲〉でも〈歌謡曲〉でもない、武満徹ならではの優しさに溢れた〈うた/SONGS〉として残されることになった。
「人によって、私が武満さんの作品を歌ったアルバムは〈真面目に歌いすぎ?〉って言われることもあるんです」と、林さんはにっこり笑う。「でも、それは私にとっては〈しめしめ〉って(笑)。それまでは、ポップス寄りの表現で歌われたものが録音に残されてきましたから、私はクラシックの視点から武満さんの歌を捉えた表現を残したかったんです」
なるほど、自分なりに歌い崩すことなく、武満さんの〈うた〉を正面から表現する、と。
究めればより自由に
「でも、どのような分野の芸術もそうなのですが、深く取り組めば取り組むほど、歌でいえばきっちり歌い込めば歌い込むほど、自由になってゆくのです。歌うたびに変化してゆきますし、絶対にこう歌わなければならない、ということがないから面白いのだと思います。」
武満徹自身、厳密に書かれたオーケストラ作品や室内楽曲とは違って、〈うた〉には演奏家の自由な表現を望んでいた、という。
「そう、だから武満さんの〈うた〉は、窮屈な感じがしないですね。お客さまも、どのような年代のかたが聴いてくださっても、そこに懐かしさと新鮮さとを感じてくださるようなのです。武満さんの曲の中には言葉とメロディが絶妙にとけ合っていて、懐メロでもないし、ちょっと苦手な現代曲でもない。だから、古くさくもなく新しすぎもせずどの時代にあってもお洒落なんです」
戦後、映画界・放送界の活気あふれる風をうけて次々に生まれた〈うた〉。あるいは市民集会のために、あるいはふと唇からこぼれたメロディ…。
生きている言葉の力
「映画の場合ですと、決まった長さのなかで作曲したり、限られた条件のなかで音楽を印象づけなければいけないこともあったでしょうから、これは大変ですよね。でも、そうした〈うた〉が、生まれたその時代を感じさせてくれるのですね。私は全然知らない世界なのに、なにかセピア色の懐かしさを、ね。武満さんの曲には、言葉とメロディが本当に生きてるから、書かれたその時に生かされていたものは、いつの時代も変わらずに生命が宿っているのです。素晴らしいオペラの名作だってそうですよね。魂が宿っているものは、残るのです」
詩人・谷川俊太郎が詞をつけたものもあれば、武満徹自身が詞を書いた作品もあったり、彼の〈うた〉は言葉もしみじみと響いてくる。
「そうなんです。言葉の力って本当にすごいですよね。そこに音楽のフレーズが結びついて、素晴らしい歌が生まれるわけですから…。武満さんの〈うた〉には、言葉の尊さがいちばんわかりやすく詰まっているんじゃないかと思います」
オペラ界注目の歌姫、ティータイムコンサートに待望の登場
林さんご自身、「母がもともと文学少女だったもので、家には絵本や小説、詩集がたくさんあったんです」という文学好き。
「幼い頃、母は毎日絵本を読んでくれて、私はそれを聞きながら絵を想像するのが楽しみで…あとで絵本を見て『あっ、こんな絵だったんだ!』って(笑)。小学生の頃から、島崎藤村や石川啄木などたくさん読んでいました。歌手になってからも、歌う前にはまず詞をよく読んで…家で一人で朗読してみたり、電車の中でぶつぶつぶつぶつ言ってみたり(笑)。で、歌ってみたら想像したのと全然違う音楽がついていたりするのが、また愉しくって、ハハハ」
ずば抜けて感性豊かな林さんの歌が生まれる秘密は、このあたりにありそうだ。
「歌は、感じることが大事だと思います。想像するというより、歌の世界を感じること、ですね。言葉の世界を、自分の世界として体験しているように感じる。…きれいに発音しよう、とかではなくって、詞に書かれたことを、本当にそう思うこと。自分が体験したことがないことであっても、それをリアルに感じること…」
優しく奥深いピアノ
今回は、野平一郎さんのピアノと共演する。現代作曲家としても国際的な活躍を展開されるいっぽうで、ピアニストとしても第一級の素晴らしいかただ。
「そうなんです。野平さんの弾かれるピアノの、音色の透明感と柔らかさといったら、もうこの世のものではないと思いますね。ご本人も、川の流れのようにさらさらと湧き出る優しさと奥深さをお持ちで、ユーモアもあり…オフの時は家ではサスペンスドラマがお好きで録画をよく見てらっしゃるとか(笑)。もちろん作曲家としても素晴らしく、その作品には、満天に星がきらめくように音が光って…つまりそれは、星のように音も多くて大変ということでもあるんですが、なーんて、アハハ、本当に素晴らしいんです!」
林さんの武満アルバムでも見事な編曲・共演をみせた優れた作曲家/ピアニストが、武満徹の〈うた〉を支えるピアノの響きを繊細に、そして豊かに響かせてゆく。野平さんのピアノもご堪能いただきたいところだ。
林さんご自身、作詞も手がけたり新曲を委嘱したり、〈言葉と音楽の新しい世界〉へ思い入れはとりわけ深い。20世紀が残してくれた、懐かしくて新しい世界─武満徹の〈うた〉を、ザ・フェニックスホールの近しい空間でお客さんと共有できるひとときは、きっと林さんにも私たちにも、温かくて大切な経験になるだろう。
「大きなホールだと、大きな空間の中でメロディを響かせ、言葉の色を出していかなければなりません。けれども武満さんの〈うた〉は、お客様に言葉を直接感じていただきたいなぁと思うんです。…言葉が直接届く距離、小さめの空間で言葉の色を濃く感じていただける事が私の理想なのです。今回は、ぴったりの空間でお届けできるのが嬉しいです!」
ザ・フェニックスホールの午後、林美智子さんが届けてくれる、誰よりも優しく深い〈うた〉の時間、お楽しみに。
(やまの・たけひろ=ライター)
取材協力:二期会21
■プロフィール
はやし みちこ (メゾソプラノ)
東京音楽大学卒業。桐朋学園大学研究科、二期会オペラスタジオと新国立劇場オペラ研修所第1期修了。文化庁派遣芸術家在外研修員としてミュンヘンに留学。03年アテネで開催された「国際ミトロプーロス声楽コンクール2003」で最高位入賞。これを受けてアテネの野外劇場でのオペラ『エウメニデス』(世界初演)に復讐の女神コルフィ役で出演を果たす。早くからその存在は注目を集め、02年『フィガロの結婚』(宮本亜門演出)ケルビーノで鮮烈な二期会デビューを飾る。同役は06年の再演や07年の新国立劇場の公演でも演じ、当たり役としての評価を不動のものとする。確かな歌唱力と抜群の存在感は国内外を問わず高い評価を得ており、R.シュトラウス『ばらの騎士』のオクタヴィアンではG.クレイマーやA.ホモキ、またモーツァルトの『皇帝ティトの慈悲』セストではP.コンヴィチュニーといった世界的な演出家から、いずれも最大級の賛辞が贈られている。09年夏には兵庫、愛知、東京で上演のビゼー『カルメン』(佐渡裕指揮)に待望のタイトルロールで出演。既存の概念にとらわれない、原作に忠実なカルメン像を見事に演じ切り、聴衆の大喝采を浴びた。コンサートでも、チョン・ミョンフン、パーヴォ・ヤルヴィなど国内外の著名指揮者やNHK交響楽団をはじめとする主要オーケストラと多数共演。また林自身を想定して書かれた「演劇的組歌曲『悲歌集』」(詞:林望・曲:野平一郎)や、自ら作詞し野平一郎氏に作曲を委嘱した「夜~La Nuit」を披露するなど、常に意欲的な取り組みに挑んでいる。オペラ界のトップアーティストが揃う「NHKニューイヤーオペラコンサート」には2005年から連続出演するなど人気、実力とも群を抜き、今や日本のオペラ界、声楽界をリードする存在として活躍している。2010年7月には、ミシェル・プラッソン指揮東京二期会公演ベルリオーズ『ファウストの劫罰』にマルガレーテで出演予定。CDは、ビクターより「赤と黒」「地球はマルイぜ~武満徹:SONGS」をリリース。第5回ホテルオークラ音楽賞受賞。二期会会員。
野平一郎 (ピアノ) のだいら・いちろう
1953年生まれ。東京芸術大学、同大学院修士課程を修了後、フランス政府給費留学生としてパリ国立高等音楽院に学ぶ。ピアニストとして内外の主要オーケストラにソリストとして出演する一方、名手と数多く共演し、室内楽奏者としても活躍。古典から現代までの幅広いレパートリーを得意としている。作曲家としてフランス文化省をはじめ、スペイン文化省、IRCAM、アンサンブル・アンテルコンタンポラン、ベルリン・ドイツ交響楽団、国立劇場などから数多くの委嘱作品を受けている。 2005年には、オペラ「マドルガーダ」(シュレスヴィヒ・ホルシュタイン音楽祭でケント・ナガノ指揮により初演)、2006年には、歌曲集「悲歌集」(津田ホール委嘱)、チェロのための「謎」(ハンブルグ・ムジークハレ委嘱)、日本フィルシリーズ第40作「トリプティーク」、チェロと管弦楽のための「響の連鎖」(サントリー音楽財団委嘱)、アンサンブル・ウィーン・コラージュのための新作などが世界初演され、いずれも絶賛を博す。2007年には、バッハ「平均律クラヴィア曲集」をピアノ、チェンバロ、オルガンを使って全曲録音し、3月ロサンゼルスのMonday Evening Concertsシリーズに指揮者、作曲家、ピアニストとして登場。また、8月にはザルツブルグ・モーツァルテウム音楽院のレジデンス・コンポーザーとして招かれた。第13回中島健蔵音楽賞(1995)、第44回尾高賞、芸術選奨文部大臣新人賞、第11回京都音楽賞実践部門賞(1996)、第35回サントリー音楽賞(2004)、第55回芸術選奨文部科学大臣賞(2005)を受賞。2005年より静岡音楽館AOI芸術監督。
■公演情報
林美智子(メゾソプラノ)&野平一郎 武満徹 Songs」は、2011年2月18日(金)14:00開演。プログラムは、すべて武満徹作曲で、「小さな空」(詞:武満徹)、「うたうだけ」(詞:谷川俊太郎)、「○と△の歌」(詞:武満徹)、翼(詞:武満徹)ほか(予定)。入場料3,000円(指定席)。学生席1,000円(限定数 ザ・フェニックスホールチケットセンターのみのお取り扱い)。ピアノは、作曲家としても知られる野平一郎。公演で取り上げられる作品のいくつかは野平の編曲による。なお、この公演は、金曜の午後、一流音楽家の演奏を、飲み物やお菓子とともに楽しんでいただける、ザ・フェニックスホール「ティータイムコンサートシリーズ」の一環。この公演以外にも右記の公演を予定している。
2010年 6月11日 北村朋幹ピアノリサイタル
8月20日 Buzz Five 金管アンサンブルの楽しみ
10月29日 小野明子ヴァイオリンリサイタル
2011年 1月21日 シャーリー・ブリル クラリネットリサイタル
3月25日 崎元讓(ハーモニカ)&御喜美江(アコーディオン)デュオ
ただいま2010年度の6公演を販売中。おトクな通し券(13,000円)もある(詳しくはこちら)。またチケットのお求め、お問い合わせはフェニックスホールチケットセンター(電話 06‐6363‐7999 土・日・祝を除く平日10:00~17:00)へ。