12月23日出演 ピアニスト加藤洋之さんインタビュー
伊東信宏企画・構成コンサート第一弾 12月23日(金・祝)14時開演 ピアニスト 加藤洋之さん
掲載日:2011年12月5日
ベートーヴェンの大曲挑戦
ライナー・キュッヒル(*1)という名ヴァイオリニストがいる。世界の名門、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターを1971年から務め、つわもの揃いのオーケストラを巧みにまとめる一方、時にはカラヤン、ベームといった巨匠指揮者と、わたり合った大御所。音楽の素養、豊かな人間性、そして瞬時に人々の心を読み取る機微-。演奏を知り尽くしたこの大家から、絶大な信頼を得ているピアニストが、加藤洋之(かとう・ひろし)さんである。東京出身、ハンガリーとドイツで学び、今は日欧を往還し活動を展開。ウィーンフィルの本拠地、黄金の楽友協会ホールでも出演を重ねる気鋭のアーティストだ。12月23日(金・祝)午後のコンサートが、関西リサイタルデビューとなる。プログラムは、難曲として知られるベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア」をメーンに据えた直球勝負の舞台(詳しくは公演ページをご覧ください)。室内楽の殿堂・ザ・フェニックスホールが贈る、本年最後の主催事業。「第九」に勝るとも劣らない、深い感動をお届けする。加藤さんに話を聴いた。
(構成:ザ・フェニックスホール)
-キュッヒルさんとはもう10年以上、共演を続けておられます。端緒は。
代役だったんです。ウィーンの中堅ピアニストがキャンセルになり、東京の音楽事務所から当時住んでいたケルンまで電話がかかってきました。僕、高校生のころ、バーンスタイン指揮のウィーンフィルのレコードに心酔していました。ブダペスト留学中も列車で3時間のウィーンによく通い、コンサートやオペラでウィーンフィルを聴いていました。柔らかく輝く音色、壮大な響き。一生、忘れられません。そのオーケストラのコンマスは「雲の上の人」。そんな人と共演できるなんて!と舞い上がる思いでした。
代役きっかけに
-何を演奏されたんですか。
ベートーヴェンのソナタを中心とするプログラムで、2回の演奏会でした。最初の本番は、岐阜の小さなサロン。緊張しながら、必死で合わせました。でも録音を聴いてみたら、なんとなくギクシャクしているんです。そもそも彼は、単に音を「合わせる」ことになんて、大きな価値はおいていません。どんな編成であっても、「演奏者がみな曲に対して思いを共有し、対等な立場で演奏しないとその作品の求める姿にならない」と改めて気づかされました。どちらかが従属的だと室内楽にはならないと。
-気が引けるなんてことは、ありませんでしたか。
相手は、あのウィーンフィルのコンマス。小手先でいくら取り繕って音楽をやっても、数小節で音楽家としての力量がばれてしまう、しかも本番までは3週間を切っていた。最初は恐れおののいて断ってしまったんです。でも一晩中考えて、こんな機会もう2度と無いかもしれない、最初で最後でもいいやと思い直しました。僕は僕なりに、彼のホームグラウンドであるウィーンフィルの音楽づくりについて、あるイメージを持っていましたし。
「音で話す」気風
-どんなイメージ?
ウィーンフィルの母体は、歌劇場のオーケストラ(*2)。オペラやオペレッタの登場人物みたいに、オーケストラの中のメンバーが音で役割を演じる、会話をするわけです。100人からの演奏家でつくる管弦楽のグループとしては、とても珍しいことですけど、一人ひとりに、まるで室内楽みたいな独自性、自由度があるんですね。「お、そう来たか、じゃ俺はこう返す」「それならこっちは」なんてやり取りが演奏中、舞台上で無数に起きてる。だから、彼らは指揮者に関しても、独裁型でなく、楽員にインスピレーションを与えてくれる人を選びます。ウィーンフィルの自由な気風は世界的にも珍しい。だからこそ、あのオーケストラは常任指揮者を置いていないんです。
-なるほど。それで2度目はうまくいきましたか。
岐阜から1週間後の本番では、力の限りを尽くして自分なりのメッセージを送りました。キュッヒルも、ニヤッと笑いながら応じてくれました。終演後、「楽しかったです」と言ってくれました。すごいプレッシャーと、達成感と脱力感。そのあと3ヶ月くらいは、「燃え尽き症候群」になっちゃいました(笑)。ウィーンの音楽家には、音楽の流れだとか、間の取り方だとか、ある和音が現れた後の処理とか、彼らなりの一定の法則、クセがあるんです。それは、言葉でいえば訛(なま)りみたいなものです。高校生の頃のレコードや、留学中のウィーン通いで、僕にはある程度、それが身に付いていて、そのことが彼にも伝わったんじゃないでしょうか。
-今に至る共演で、加藤さんが学ばれたことも多かったでしょうね。
共演を重ねることで、ベートーヴェンはもちろん、ウィーンで生まれた音楽の作り方、譜面の読み取り方を学ばせてもらっています。ご一緒するようになってから10年目。とうとうウィーンの楽友協会ホールでベートーヴェンの「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」全曲をキュッヒルと演奏する機会に恵まれました。かつてベートーヴェンが活躍したその町で、日本人の僕がウィーンフィルのコンマスとあの作品群を演奏する。その経験を通じて、自分の中のベートーヴェンが大きく成長したと思っています。
苦悩と人間賛歌
-今回のリサイタルでは、そのベートーヴェンのピアノソナタ「ハンマークラヴィーア」を組まれました。
ベートーヴェンは生涯、32のピアノソナタを手掛けています。最後期のソナタ5曲はとりわけ、古今のピアノ音楽の最高峰といわれていますが、中でもこの「ハンマークラヴィーア」は、演奏時間が50分近くにも及ぶ大作。この曲をコンサートで演奏するのはある意味、ピアニストには「儀式」といえるかもしれません。第3楽章には、絶望と苦悩の淵からの祈りが織り込まれている。一方、それに続くフィナーレの巨大なフーガは、人間の営みを肯定的に表現した壮大な人間賛歌に感じられます。あれだけ音が多いにもかかわらず、一つとして余分な音がない。あるいはひとつとして飾りとしての音がない。その意味を一つひとつ確かめながら演奏することは、ピアニストにとって非常に大きなやりがいです。 -この曲の位置づけを、どのように考えれば良いでしょうか。 「ハンマークラヴィーア」は山に例えるなら、エベレスト。文字通りの最高峰です。頂点を制覇したら、眼前に未知の世界が広がる。他の山々が、それまでとは違って見えるようになる。技術的に難しい曲なら、他にもたくさんあります。でもそのほとんどが、技術的な困難を乗り越えたら、かなり道は開けるのです。でも、エベレストは若さに任せて登れる山じゃありません。それなりの経験と、体力的・精神的な強さが要る。この曲も50分間、集中力を保ち、緊張感が途切れないように弾かなければならない。そのためには色んな条件が充実する、“旬”を選ぶべきです。
-今がその時、と考えたんですね。
「リサイタルで、ベートーヴェンを弾いてほしい」というお話をいただいて、「しめた!」と思いました。ずっと弾く機会を模索していましたから、思い切って挑戦することにしたんです。お客様の前で、この曲を弾くか弾かないか。それでピアニストは2種類に分かれると、僕はずっと思っていました。実際、ヴィルトゥオーゾと呼ばれる世界的な演奏家でも、手掛けない人はたくさんいます。
-印象に残る演奏を、教えてください。
ポリーニ(*3)ですね。20年近い間を置いて、2度ナマで聴きました。最初は、東京の学生時代。あまりにもクリアで、完璧でしたが、どこか入り込めない気持ちがありました。そのポリーニが最近、東京で演奏した時は、感動しました。「弾きたいから弾いている」のではなく、「弾かなければならない」切実さが感じられた。なりふり構わない姿に、とても感動しました。少し肉体的な衰えがあるのかもしれませんが、聴き手を気にせず、彼は闘っていた、葛藤していた。「志の高さ」を感じ、勇気付けられましたね。ウィーンではブレンデル(*4)の演奏を聴いたこともありますが、とても自由で、波に呑み込まれるような気がしました。知り尽くした上で自由に振る舞う、「ゆとり」が感じられたのです。今回の舞台でどんな表現ができるか、僕自身楽しみにしています。
*1 ライナー・キュッヒル Rainer Küchl オーストリア出身。1950年生まれ。ウィーン国立音大でフランツ・サモヒルに師事。ゲルハルト・ヘッツェルの跡を継ぎ第1コンサートマスターに就任。ソロ・室内楽にも積極的。夫人は日本人。2011年、旭日中綬章を受けた。
*2 歌劇場のオーケストラ ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の団員は原則、ウィーン国立歌劇場管弦楽団のメンバーから選出される。ウィーン・フィルは、そのメンバーによる自主運営組織で、独立の気風が強い。
*3 マウリツィオ・ポリーニ Maurizio Pollini イタリア出身。1942年生まれ。60年ショパン国際コンクール優勝。磨きぬかれた音色と完璧なテクニック、知性的なアプローチで一時代を築いた。
*4 アルフレート・ブレンデル Alfred Brendel 現チェコのモラヴィア出身。1931年生まれ。49年のブゾーニコンクールで4位入賞した他は基本的に、公演に対する賛辞によってキャリアを築いてきた。ウィーン、オーストリア系の作品を主要なレパートリーとし、真摯で思索的な演奏にファンが多い。2008年、引退を表明。
「加藤洋之ピアノリサイタル」は、2011年4月1日より ザ・フェニックスホールの音楽アドバイザーに就任した伊東信宏氏(大阪大学教授=音楽学)の企画・構成公演です。
<プロフィル>
加藤洋之(かとう・ひろし) ピアノ
東京藝術大学附属音楽高等学校を経て同大学器楽科を卒業。在学中に「安宅賞」を受賞し、日本音楽コンクールに入選。1990年よりハンガリー国立リスト音楽院に留学し、イシュトヴァン・ラントシュ氏に師事した。同年ジュネーヴ国際音楽コンクールに第3位入賞後、本格的な演奏活動が始まる。93年のルセ国際音楽祭に招待されブルガリア国立放送響と協演した後、ブダペスト・フィルやヘルシンボリ響(スウェーデン)の定期公演への出演、ハンガリー国立響をはじめとする内外のオーケストラとの協演を重ね、また東欧各地においてリサイタル、放送への出演等の演奏活動を行った。96年ドイツのケルンに移り、パヴェル・ギリロフ氏に師事する傍ら室内楽の演奏にも力を入れ始め、ドイツ各地や、イタリア、スイス、オーストリア、スペイン等で演奏会や放送への出演、録音を行い、2001年にはリムーザン国際室内楽フェスティヴァル(フランス)に招かれる。ウィーンフィルのメンバーたちとは、しばしば室内楽を共演し、特に第1コンサートマスターのライナー・キュッヒルとは01年以来、デュオ・パートナーとして数多くの演奏を重ねてきており、02年12月のウィグモア・ホール(ロンドン)へのデビューは“THE TIMES”紙上で絶賛を博した。10年6月にはウィーン・ムジークフェラインザールにて、3日間にわたるベートーヴェンのピアノとヴァイオリンのためのソナタ全曲演奏会が、楽友協会主催によって行われた。