Prime Interview 郷古廉

掲載日:2025年5月7日

ザ・フェニックスホールにとって、郷古廉は近年とくに馴染み深い、大切なヴァイオリニストとなってきた。開館30周年を祝う今年は、デュオ・リサイタル、ピアノ・トリオ、弦楽四重奏と3つの異なる編成で、それぞれにユニークなプログラムを聴かせていく。NHK交響楽団や東京春祭オーケストラのコンサートマスターとして、近年ますます多様な音楽に臨むようになってきた彼にとっても、かなり意欲的な挑戦と言えるだろう。
ザ・フェニックスホールで4度目となるリサイタルは、3人のコンサートマスターによるシリーズの掉尾を飾って11月に登場し、オール・ショスタコーヴィチの硬派なプログラムを弾く。12月のレクチャーコンサート「ピアノ三重奏の歴史」には3回連続の出演で、チャイコフスキーとショスタコーヴィチを。先立つ7月にはホールの濃密な追悼企画に応えて、西村朗の弦楽四重奏曲に集中する。大曲や難曲づくしのプログラムを眺めるだけでも、ザ・フェニックスホールが彼に寄せる信望と期待の大きさがまざまざとうかがえようものだ。
(インタヴュー・文:青澤隆明)

 

――ザ・フェニックスホールでは2017年以来、しばしば演奏を重ねていらっしゃいます。

 

毎年のように弾いているから、ホールに行くとちょっと落ち着きますね。お客さんとの距離が近く、ほどよい緊張感もある。弾いていて、すごく音楽に没頭できるホールだな、と毎回思っています。かなり突っ込んだプログラムができるのは、やはり貴重なことですし。

 

――これまでのプログラムもそうですが、この夏、大阪生まれで一昨年に亡くなった西村朗さんを追悼し、彼の弦楽四重奏曲を集中して演奏されるのは、その極みのようなものですね。

 

これはたぶん、いままででいちばんたいへんなことになりそうです(笑)。でも、すごく楽しみ。これまで日本人の作曲家に取り組む機会があまりなかったので、個人的にも楽しみにしています。西村さんには僕も直接お会いしたことが何度かありますし。

 

 

――とくに現代のレパートリーにとって、音楽全体をみる広い視野をもって、次世代の演奏家が手がけられることは非常に重要ですよね。新たに手渡されていくことに大きな意味がある。

 

西村さんの作品に関しては、僕は演奏したことがないから、まだ言葉にしたくなくて、「どういうふうな景色がみえるのだろう?」という感じかな。作品は残っていくし、その時代その時代の奏者によって、作品自体の姿もきっと変わる。未来のことを考えたら、ここで自分たちなりに、必死に考えて再現するということにも意味はあると思います。
もうちょっとジェネラルな話で言うと、現代曲のなかには人間の感情が入る隙のないような音楽もあるとは思うけれど、それを人間が弾くということの意味を僕はやはり考えますね。どんなに楽譜が精緻にできていても、自分の肉をつかって演奏するのだとしたら、そこにはもちろん感情もある。弾くことに怖れもあるし、聴いている側の困惑のようなものもあって、そういう人間的な要素が欠かせないものだと思うんですよ。だから、ほんとうにベースの部分、音楽に向き合うという意味では、古典とあまり分け隔てなく臨みたい。

 

 

――ショスタコーヴィチは没後50年になりますね。ピアノ・トリオもチャイコフスキーと合わせて弾かれますし、リサイタルではモスクワ音楽院で学んだ沼沢淑音さんとのデュオで、ツィガーノフ、アウエルバッハが編曲した「24の前奏曲」op.34、そしてヴァイオリン・ソナタ op.134を選曲されています。

 

ショスタコーヴィチのこのソナタは前にも演奏したことがあるけれど、そのとき僕はショスタコーヴィチのシンフォニーなんて弾いたことはなかった。いろいろ本も読んで、想像した作曲家のイメージのなかで解釈して表現していたけれども、やっぱりシンフォニーを弾くと、より生々しく、作曲家の意志とか精神というものが伝わってくる。そういう生々しさみたいなもの、まるでここにいる人のような感覚がすることは、とても重要だと思う。
1 月にN響でソヒエフと交響曲第7番を演奏しましたが、反戦や反体制というふうな解釈が安易に前に出てくるのではなく、僕は弾いていて、彼の音楽はすごく中立的だなと思ったんです。ほんとうに考えさせる音楽なんですよね、「おまえはどっちなんだ?」、「おまえはなにを考えて、どうしたいんだ?」って。結局、彼の音楽を聴いた後に残るものは「自分ってなんだろう?」という疑問なんです。
今回の曲目の組み合わせは、晩年の非常に厳しいヴァイオリン・ソナタと、若い年代のプレリュードの世界との対比も面白いと思う。

 

 

――ショスタコーヴィチの表現には、陰影についても斜光みたいで、影とも光とも言えない、宙づりの感覚がありますね。その意味づけや問いかけを、聴き手に投げかける感じですか?

 

そういうことをお客さんと共有できたらいいなと思います。「結局どっちなんだ?」ということと、あとは「人間としての幸福とはなんなのか」ということをもう一回ちゃんと考えなさいと言われている感じが、僕はするから。いまこういう世界になって、情報が溢れかえって、みんな似たような情報をもっていて、他人が思う幸福みたいなものに自分を当てはめて、なんとなく自分が幸せなんだって思ってるような人が多い気がします。根底で自分が求めているもの、自分が美しいと思うもの、自分が嫌だと思うものはなんなんだ?というのをほんとうに考えている人って少ないと思う。僕自身を含めてね。そういうことを考える時間になったらいいなと思います。

 

 

――では最後に、郷古さんにとって幸せとはどのようなものでしょうか?

 

難しいな……。なにげないこと、なにげない瞬間みたいなものが、僕はいちばん幸せだなと思う。こどもたちが目の前で遊んでて、食器を洗ってるときとか(笑)。あたりまえのように、妻とお茶を飲んでる時間も、いろいろなものの上に成り立っていて、非常に壊れやすいものだと、なにか脆いものの上に実現しているものだと僕は思ってしまう。そういうものには非常に幸せを感じます。自分でつかみに行ったものに関しては、原因があって結果があるわけだから、僕はそこにはそんなに満たされる感じはない。音楽をやっていても、それぞれが弾いているということを超越して、互いに聴き合って反応しているのをいま味わっているなと思った瞬間はほんとうに幸せですよ。

 

 

――それもやっぱり「ある」なんですね、なにかを「する」のではなくて。

 

そうですよ。自分の力で実現したものって、なんか空しいじゃないですか? 
でも、こういう演奏会で作品に向き合って、それを乗り越えたときに、以前の自分を更新したみたいな気持ちになるのはすごく嬉しいです。音楽を、芸術をやっていて良かったなと思う。それを達成するには挑戦しないと、やったことがないことをやり続けていなければいけないですしね。