Prime Interview ジャパン・ストリング・クヮルテット
3月17日 ザ・フェニックスホール最終公演を迎える弦楽四重奏団
掲載日:2017年3月13日
日本を代表するヴェテランプレーヤーがつくる弦楽四重奏団「ジャパン・ストリング・クヮルテット(JSQ)」。ベートーヴェンの作品演奏を目的に1995年、結成され20年余。ザ・フェニックスホールには96年の初出演以来、ほぼ毎年のように来演してきた。とりわけ2008年からは弦楽四重奏の教育・啓発事業「Phoenix OSAQA(フェニックス・オーサカ 弦楽四重奏を志す若者のための自由塾)」講師として全国から大阪に集まった延べ64団体を指導、大阪・関西の音楽ファンに室内楽の醍醐味を伝えてきた。この事業は今年3月、10回目のシーズンで終了し、これに伴い、JSQの同ホールでの出演は3月17日(金)のマチネが締めくくりとなる。今回で出演は通算19回。フェニックスで演奏を刻んできた4人に、歩みを振り返ってもらった。
(取材・構成/谷本裕=沖縄県立芸術大学教授)
「ベートーヴェン」伝え 20年
「ソリストとアンサンブルの名手の融合」が持ち味ですが、最初は苦労されたのでは。
久保 ベートーヴェンの作品をしっかり演奏すること。ソリストとしての私にこれは、重要なことでした。彼の後期作品は「弦楽四重奏でしか勉強できない」と考えていたので、このカルテットを組んだことは嬉しいことでした。ただ、このグループでベートーヴェンを初めて合奏した時は、私は結構、大変でした。4人それぞれ流儀があって音程は合わないし、解釈も異なっていました。初めての全曲演奏会を東京で始めた時、NHKテレビの収録が入って、インタビューまであり、緊張で息も出来ないほど本番が怖かった。舞台に上がって、向かいの菅沼先生を見たら、「岩」みたいにデンと構えておられた。「ああ、先生はカルテットの人なんだ」。その存在感で落ち着くことが出来、何とか乗り切れた。その後、いつ頃からか「JSQの響き」みたいなのが出来てきたんです。
岩崎 久保さんや僕は、日本で他のアンサンブルや外国人アーティストとも室内楽はやっていたけど、ベートーヴェンのカルテットの後期作品は演奏するチャンスがほとんどなかった。一方、久合田さんと菅沼先生はもう随分、勉強していた。
菅沼 第1ヴァイオリンに「色」が有って、チェロの存在感がしっかり有って、第2ヴァイオリンもヴィオラも各々の特徴を持っていて…。そんな演奏家が集まってこそ良い音楽が出来る。それこそがカルテットです。昔のカルテットを聴いて、ずっとそう思ってました。その意味で僕は、ここに居る連中の個性が好きなんですよね。特徴がハッキリしている。個人的に弾ける人ばっかり。しかも、それぞれが「皆で創る音楽」を感じて機敏に変わってくれる。何も言うことなかったですよ
青春時代はカルテットをどう学びましたか。
菅沼 東京藝大の学生だった頃は、カルテットのきちんとしたカリキュラムはまだ無くて。でも、カルテットが好きな仲間が居て、学生だけで一生懸命練習して、学内演奏会とか学園祭で、もうやたら弾いてましたね。
久合田 同じ東京藝大でも、私が入った時代は、日本フィルのコンサートマスターだったルイ・グレラーさん(*1)が室内楽を教えてくださるようになっていました。
岩崎 桐朋学園の音楽教室時代は、室内楽クラスが全然なかったです。しかし、我々、久保さんや僕は、斎藤先生(*2)に言われてカルテットを組まされました。
久保 オーケストラで弾くにしても、弦楽器4本のアンサンブルは音楽の原点。そこをしっかりやっておく必要がある。
岩崎 その点を斎藤先生はよく分かってて、僕たちに「やれ」って言ってたんでしょう?だけど取り組んでる人は、他にあまり居なかったんじゃないかな。
。
菅沼 桐朋は、今も昔もソリスト志向の上手いのがいっぱいだからね。
久保 ヴィオラ専攻の人も居なかったし…。
4人とも音楽大学で教育にも携わっておられました。
菅沼 東京藝大で教えていた頃、15年くらい前ですかね、ソロ作品とオーケストラの練習と同様、室内楽を大事にしようと教員で話し合い、室内楽講座の教育システムを確立しました。それまでの学生は、好きな曲を好きな仲間とさらって、先生に指導を仰ぐ程度。それじゃいけないんで、例えば1、2年生はハイドンの初期作品やモーツァルト、上級になってベートーヴェン。(20世紀の)バルトークの作品は4年生になってから-という具合に段階を踏ませるようにした。随分、良くなりましたよ。でも当時は、「カルテットなんてやっちゃダメ。あなたは、そんなレベルじゃないんだから」なんて言う先生も、まだ居ましたね。
岩崎 欧米に比べると、日本の音大でのカルテット教育は遅れてたよね。室内楽を盛んにしようと姉(ピアニスト岩崎淑さん)と沖縄で音楽キャンプ(*3)を始めたのが1979年。若い演奏家が参加して「室内楽って楽しい」って気付き始めた。その影響もあって、桐朋学園でも室内楽教育を進めることになっていった。ただ、カルテットに本格的に取り組むようになったのは90年代に入ってからだった。きっかけは…。
久合田 新世代のカルテットの影響じゃない?アルバン・ベルクとか、グァルネリとか。
菅沼 東京カルテットが強烈だったよね。
久保 彼らの功績は大きかった。東京音大でも似たような状況。まず作曲家を限定して講義したり、演奏させたりするようになっていったけれど、本格的に手を付けるのは遅れてた。カルテットは学生時代に組んでも、メンバーのだれかが留学したら解散してしまう。日本では独立した仕事になりにくい。
久合田 アメリカだと、大学などがカルテットを雇ってくれる例もある。ジュリアード音楽院に留学した時、ジュリアード弦楽四重奏団のロバート・マン(初代第1ヴァイオリン)やラファエル・ヒリヤー(同ヴィオラ)が教えてくれた。そんな仕組みのお陰で、若いグループも将来の可能性を多少感じながら活動を模索できる。日本じゃそうはいかないもの。
岩崎 カルテットを一生やろうなんて、あの頃、誰も考えなかったんじゃないか。
そんな中、フェニックス・オーサカは始まりました。
岩崎 ザ・フェニックスホールは、関西でカルテットの演奏家や聴衆を育てようとした。ひとつの革新的な運動でしたね。ただ、指導を受ける学生が集まるのか、最初ちょっと心配した。
久合田 確かにあの時は「これは大変なことになった。若いカルテットをつくらなきゃ」と思った。私は、京都市立芸大で教えていて、この事業が立ち上がったのをきっかけに、同僚の先生と話し、カルテットの授業を新設した。古典派からロマン派まで、作品を段階的に弾き込む。大阪音大に移った後も、学生に「こんな事業が有るからカルテットで受けに行こう」と勧めたんです。学生が取り組む上での目標になり、底上げに繫がったと思っています。
題材は10年間、一貫してベートーヴェン。
菅沼 内声部一つとっても、第1ヴァイオリンやチェロと同様、第2ヴァイオリンもヴィオラも、すべてのパートが同等に力を発揮できるアートとして、音楽をつくってくれた。ベートーヴェンが、あんな素晴らしい作品を残したから、後世のブラームスにしたって、弦楽四重奏は3曲しか書けなかった。時代を超える「音楽のエッセンス」がベートーヴェンの曲には詰まってて、弦楽四重奏を教える題材は、これ以外は考えられませんでした。
学生同士の音楽つくりはどうでしたか。
久保 最初の頃は、演奏が出来上がって来てるなというグループは、なかなか無かったし、色んなことを教えてもらってるな、とか、結構知ってるな、という例も皆無でした。
久合田 「急ごしらえ」だと、調弦の音を聞いただけでグループとしての状態が概ね読めることもあったわね。
久保 ただ、お客さんを前にしたマスタークラスでは、一見おとなしいグループも、非公開のリハーサル(*4)では合奏をめぐり、かなり踏み込んだ話をしていた。特に最近はそう。むしろ我々の方が、却って練習で何も言ってないのかしら、なんて思ったことも。
久合田 2日間指導を受けて、3日目に修了コンサートがあるから、短時間でしっかり意思疎通しないとダメだって、彼らなりに思うのよ。
岩崎 だんだん「進歩」してきたんだね。学校で弦楽四重奏のレッスン受けたり、フェニックス以外でも指導を受けたりで、意識が変わってきた。こういう教育事業の成果ですよ。
久保 練習方法も良くなった。何度も一つの音を一緒に出す。丹念に練習を重ねてる。
久合田 自分の演奏をしながら他のパートを聴けるようにならなきゃいけない。フェニックスに来てから、そんな意識が生まれたのかも。
菅沼 ザ・フェニックスホールの響きの中で弾けるってこと自体、大きかった。フェニックス・オーサカという「場」が、実に良い経験になっていたと思います。
岩崎 やっぱり経験。我々も、最初の全曲演奏会でベートーヴェンを弾いた時と、2度目、3度目に同じ曲を弾いた時とでは、大分違う音楽になった。演奏を重ねることで、響きの音色感とか、求めるものが変わってくる。若い人たちが、最初からそれを出来る訳はない。スコア(総譜)を読み込み、お互いの役割を知って向き合うようになってきた。
久保 ただね、「演奏」っていうのは、とっても難しいものなの。なんていうか、「思い込み」が要ると思うのよ。4人が一緒になって思い込んだ音楽を、お客様に発信する。そこまでいくと「演奏」になるんだけどネ。でないと単に練習の延長で終わっちゃう。満足しないで「演奏」するってこと、心から音楽を感じることを大切にして、歩んでいってほしい。
久合田 フェニックス・オーサカのお陰で、このホールは私たちのホームベースになりました。
岩崎 10年、よく続けてくださったと思う。
JSQ 長い間、本当にありがとうございました。
(*1)1913-87。ニューヨーク出身のヴァイオリニスト。米国のNBC響コンサートマスターなどを経て来日。日本フィル、新日本フィルのコンサートマスターを務めた。
(*2)斎藤秀雄。1902‐74。指揮者・教育者・チェリスト。桐朋学園創設者の一人
(*3)沖縄ムーンビーチ・ミュージック・キャンプ&フェスティバル。1979‐96。沖縄本島中部の恩納村(おんなそん)のリゾートホテルで行われていた。
(*4)フェニックス・オーサカでは、聴衆に公開するマスタークラスのほか、リハーサル室などでも非公開のレッスンが行われてきた。
Profile
ジャパン・ストリング・クヮルテット(Japan String Quartet/弦楽四重奏団)
1994年4月、ヴァイオリンの久保陽子と久合田緑、ヴィオラの菅沼準二、チェロの岩崎洸の4人は国際交流基金による日本文化紹介派遣事業の一環としてフランスと中近東を巡演、各地で好評を博した。この成果をもとに翌95年、「ジャパン・ストリング・クヮルテット」の前身「クボ・クヮルテット」を結成。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の全曲演奏を目的に掲げて研鑽を積み、95年から3年間、計6回にわたり東京・津田ホールで定期公演を行った。演奏の模様がNHKで放映されるなど、多くの室内楽ファンの注目を集めた。2000年、ベートーヴェンの魅力の新しい発見を目指し、再び弦楽四重奏曲全曲演奏に挑み始めた。この活動を主軸に、異なる作曲家の弦楽四重奏の名作にも取り組み、幅広い聴衆獲得にも努めている。あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホールには1996年6月以来出演を重ね、2008年から弦楽四重奏の教育・啓発事業「Phoenix OSAQA(フェニックス・オーサカ 弦楽四重奏を志す若者のための自由塾)」講師を務めている。JSQの創設や活動展開に際して、上野製薬(本社・大阪)の上野隆三・前社長(故人)が積極的な財政支援を始め、ストラディヴァリウスのヴァイオリン、同チェロ、ゴフリラーのヴィオラといった銘器を貸与するなど、活動をバックアップし続けたことは特筆される。
公演情報
Phoenix OSAQA 10年 -ジャパン・ストリング・クヮルテット
2017年3月17日(金) 午後2時開演
入場料(指定席)
一般:4,000円 友の会:3,600円
学生:1,000円(限定数。ザ・フェニックスホールチケットセンターのみお取り扱い)
*前売り券は完売いたしました。当日券の有無については、3月16日(木)午後1時以降にお電話いただくか、
ホールホームページでご確認ください。
[プログラム]
ベートーヴェン :弦楽四重奏曲 第2番 ト長調 作品18-2
弦楽四重奏曲 第6番 変ロ長調 作品18-6
ドヴォルザーク :弦楽四重奏曲 第12番 へ長調 作品96 『アメリカ』 (予定)
チケットのお問合せ・お申し込みは
あいおいニッセイ同和損保
ザ・フェニックスホールチケットセンター
TEL 06-6363-7999
(土・日・祝日を除く平日の10時~17時)