Prime Interview カルミナ四重奏団ヴィオラ奏者 ウェンディ・チャンプニーさん

弦楽四重奏版モーツァルト「レクイエム」 2015年11月 ティータイム公演

掲載日:2015年7月24日

金曜の午後2時、美味しいお菓子や飲み物と共に、上質でバラエティに富んだ音楽をお楽しみいただくティータイムコンサート。来年2015年度は7回のラインナップをご用意しました。。ザ・フェニックスホールは「室内楽の殿堂」を標榜し、その「代表選手」ともいえる弦楽四重奏に力を入れています。来年度は11月、スイスのチューリヒに拠点を置く名門「カルミナ四重奏団」が登場します。結成から30年。ヨーロッパを代表する実力派として世界に知られています。今回のプログラムでは、モーツァルトの遺作「レクイエム」を演奏します。本来はオーケストラと独唱、合唱のための作品ですが、これを弦楽四重奏で演奏するユニークな試み。創設の経緯から弦楽四重奏の営みの妙、そしてこの作品・演奏などについて、ヴィオラのウェンディ・チャンプニーさんに聴きました。
(あいおいニッセイ同和損保ザ・フェニックスホール 谷本 裕)

いにしえの編曲、弾き込む

 

 

カルミナ四重奏団の始まりから伺いましょう。

この弦楽四重奏団の「根」は2つあります。一つは2人の弦楽器奏者。スイス人のヴァイオリン奏者マティーアス・エンデルレと、米国人ヴィオラ奏者の私です。1979年、米インディアナ州ブルーミントンの音楽学校で恋に落ち、彼の拠点チューリヒで生活することになりました。彼はその頃、室内楽に惹かれ始めていました。私は幼い頃から室内楽に馴染んでいて、2人で室内楽活動を志すのは自然な流れでした。もう一つの根は、ヴィンタートゥーア音楽院。マティーアスと、メンバーのスザンヌ・フランク(ヴァイオリン)、シュテファン・ゲルナー(チェロ)は同窓です。音楽家に成長する最初の同じ時期、同じ場所で培った絆があり、音楽性も共有しています。マティーアスと私が、弦楽四重奏団をつくる仲間を探し始めた時、これはとても貴重な財産でした。82年の暮れ、私とマティーアスはまず試しに、シュテファンと弦楽三重奏曲を合奏してみたんです。音楽の「化学反応」が起き、意気投合しました。赤ワインを飲み交わし、弦楽三重奏に取り組むことを決めたんです。翌83年6月に予定されていたパリの国際コンクールに挑戦する。それが目標でした。アンサンブル名は「カルミナ・トリオ」にしました。

 

 

名の由来は?
シュテファンのアイデアです。私たちは元々、地名や人名に因む名は好みではありませんでした。ラテン語の「カルミナ」には「歌」と「詩」の意味が両方ある。音楽というものは、歌うのと同じくらい語るものでもあるから、これにしようと。「カルミナ」ならドイツ語でもフランス語でも、どんな言語でもキチンと発音してもらえそうです。それに、シュテファンは高校時代、この名を付けたピアノ三重奏団でコンクール優勝したことがあったらしく「ラッキーネームだ」と言うので、験(げん)を担(かつ)いだんです。ご利益が有ったのか半年後、私たちも優勝しました。これが84年、四重奏団創設へと繋がっていきました。

 

最初は弦楽三重奏団


皆さん、独奏で活動しようとは思っていませんでしたか。オーケストラに入る道もあったでしょう。
ソリストの道は弦楽四重奏に比べ孤独で、或る意味、向こう見ずなものです。その点、カルテットはチーム。ソリストのようにひとりぼっちではありません。皆で頭と心を使い、話し合う。そして、生涯を賭けてレパートリーを学ぶのです。またカルテットのメンバーは(指揮者の下で演奏する)オーケストラ楽員に比べると、演奏表現を自分で決められる。独立した音楽家としてステキな仕事です。ただ、立場はフリーランス。基本的には経済的保証はありません。音楽家が、創造的な活動に打ち込むには純粋な自信や信頼できる仲間が必要ですが、家族の生活も支えられなくてはなりません。活動を始めて比較的早い時期、カルテットの活動が軌道にのっていなかったら、皆それぞれソリストやオーケストラの道を探ったのではないかと思います。そう考えると、あのパリでの優勝は「カルミナ」がキャリアを築く上で、大きな弾みとなる、決定的な出来事でした。

 

スザンヌが加わり、弦楽三重奏から四重奏へ展開したのでしたね。

彼女は学生時代のヴァイオリンの先生がマティーアスと同じでした。カルテット創設後、イタリアの難関コンクールで最高位に入り、スイスの雑貨店チェーン「ミグロス」も財政支援を決めてくれた。アマデウスやラ・サールといった著名な弦楽四重奏団、シャーンドル・ヴェーグ、ニコラウス・アーノンクールら優れた音楽家からも指導を受ける機会に恵まれ、メジャーなCDレーベルとの仕事が決まるなどトントン拍子。カルテットになってからも、「カルミナ」は確かにラッキーでした。

 

既に、30年も活動を続けています。

ロンドンのウィグモア、ベルリンのフィルハーモニー、アムステルダムのコンセルトヘボウ、ワシントンのケネディセンター…世界の舞台で演奏を重ねてきました。旅に付き物の、事故や冒険も少なくありません。乗った飛行機のエンジンが火を噴き、空港に戻ったこともあります。クラリネットのザビーネ・マイヤーと地中海のクルーズ船内で共演するツアーは、嵐に翻弄され、乗客も私たちも船酔いでダウン。多くの公演がキャンセルになりました。イスラエルでは毎日、マイクロバスであちこち出前演奏をしました。日本との付き合いも長い。最初に来た頃はメンバーも皆、若かった。全く新しい文化に触れ、何度も来るうち、とても好きになりました。

 

 

 

カルミナ四重奏団オーソドッ

 右から2人目がウェンディさん

 

 

 

解散の危機もありましたか。

活動全体に影が差すようなピンチは思い出せませんね。カルテットのメンバーなら誰でも、少なくとも一度くらいはリハーサルで「私、もう辞めちゃおうと思ってるの!」とキツい口調で言い放ったことがあるはずです。原因の大半はプライベート。カルテットのメンバーも人間です。時には外で抱える問題を、何とか解決しないとならないことがある。カルテットそのものにも、何ごともはかどる時期もあれば、全然ダメな時期もあります。小さなグループには日常茶飯。結婚生活だってそうでしょう?でも私たちはこうして今なお一緒に弾いています。そのことが私には誇り。芸術的に、人間的に、偉業といえるのではないでしょうか。

 

スイス人気質を共有

 

長続きの理由は。
忠誠を尽くすとか、物事にしっかり関与するとか、私たちは、生き方が似ています。また皆、兄弟・姉妹が3人以上も居る家で育ちました。「集団」に慣れており、自分より優先することも出来る。一方で皆、自分の意見もハッキリ持ってもいて、これは演奏の質を高めるのに役立ちます。私以外の3人はスイス育ち。多分このことも大きいでしょうし、全員がチューリヒに住んでいるのも良い。厳しい仕事に徹底し取り組む「スイス人気質」を揃って身に付けています。スイスの社会が、弦楽四重奏団の活動に適している点も見逃せません。長旅をしなくても、良い報酬が得られる公演が地元で多数あります。メンバーは、カルテットを犠牲にしなくても、さまざまな音楽に関われる機会に恵まれています。近年、私たちの活動は教育分野にも広がりました。ソリストとして活動したり、音楽祭を主宰したり、バロック奏法の研究・演奏に打ち込むとか、指揮にも挑むなど、興味を自由に追求しています。人脈が広がり、生活もより安定しますし、結果的に本業が豊かになっていくのです。

 

 

カルテットとしての特性はどこに。

私たちは一人ひとりがスコア(総譜)をしっかり読み込み、複雑に絡み合った役割を踏まえつつ、作曲家の意図を理解するようにしています。多くの弦楽四重奏団も同じでしょうが、特に異なっているのは、それぞれが独自の解釈を持つことを尊重する点でしょう。古楽(*2)の試みも特徴です。私たちは80年代の古楽運動に触発された、多分最初の弦楽四重奏団の一つ。古典派作品を明晰でユニークな手法で演奏することは重要なテーマです。

 

合唱パートを「復活」

 

今回は何とモーツァルトの「レクイエム」を取り上げますね。
私たちの近年の活動の中でも極めて異色のプロジェクトです。この曲は、私たちの心の深い部分に響く、素晴らしい音楽です。でも弦楽四重奏団の演奏家として、この曲に携わることは出来ませんでした。ある時、スザンヌが偶然、ラジオでどこかのグループがこの曲を弾くのを聴いた。モーツァルトの同時代人が編曲していたんですね。「私たちもやってみましょう。きっと上手く出来るわ」。そう言い募るので、他のメンバーも心が動きました。最初に演奏した時は実のところ、このアレンジは完全とは言えないと思いました。でも、音楽の力が強く、「これは演奏しなくてはならない」とも感じました。マティーアスは、削除されていた合唱パートを復活させるなど、スコアを少しずつ改めました。カルテットとしても何週間もリハーサルを重ね、微調整を繰り返したんです。反対・賛成、きりのない議論。同じパッセージを違う編曲で録音し、聴き比べたりもしました。気の遠くなるプロセスでしたが、音楽の魔法に支えられました。弦楽四重奏版では、作品の新しい姿が浮かび上がってきます。モーツァルトの音楽が、閃光のように輝くのです。お客様も頭を切り替え、クリアで親密な演奏に耳を澄ませていただきたいですね。

 

取材協力:トリトン・アーツ・ネットワーク

 

(*1)130年以上の歴史を持つスイスの名門音楽院。現在は、チューリヒ芸術大学の一部

(*2)
ある楽曲を、作曲当時の楽器や方法で演奏することを通じ、本来の姿を追求する演奏手法