ヴィオラの祭典

「ヴィオラスペース」をリードする今井信子さん

掲載日:2010年4月28日

ヴィオラ。高音でメロディを歌うヴァイオリンと、朗々たる低音を奏でるチェロの間で、内声部を支える弦楽器である。まろやかで深く、また温かな音色が特徴で、管弦楽や室内楽では上下音域を繋ぐ「縁の下の力持ち」。楽器のイメージとしてしばしば「いぶし銀」と称され、ソロ楽器としては認識されない時代が長かった。そんな地味な楽器に光を注ぎ、振興を図る音楽祭が「ヴィオラスペース」(主催:テレビマンユニオン)。今年は本拠地・東京や、名古屋に先駆け5月20日、ザ・フェニックスホールで大阪公演が行われる。このヴィオラの祭典を20年近く率いてきたのが、国際的ヴィオラ奏者、今井信子さん(スイス・ジュネーヴ音楽院教授)。欧米を拠点にソリスト、室内楽奏者、そして教育者として世界を駆け巡る、真に卓抜したアーティストだ。3月下旬、今井さんの一時帰国の折、東京でお話を伺った。(ザ・フェニックスホール 谷本 裕)

名手・名作 好循環目指す

 ヴィオラスペースが始まったのは1992年。
会場はその4年前、日本初の室内楽ホールとして              
(c)Marco Borggreve
東京お茶ノ水に開設されたカザルスホールだった。今井さんは91年、同ホールで初リサイタルを開いて成功を収め、継続的なプロジェクトとしてこの祭典を構想した。創設にはどんな思いがあったのか。

「ピアノの詩人」ショパンが、美しいチェロソナタを残しているのをご存知でしょうか。彼の作品は大半がピアノ曲ですが、優れたチェロ奏者に創作意欲を掻き立てたからこそ、名作が生まれたのです。ヴィオラはどうでしょう。モーツァルトやベートーヴェンは自らヴィオラを弾いたと言われ、その特性を生かした作品を残しています。ドヴォルザークもそう。でも、クラシックの中心をなす古典派・ロマン派の音楽は総体的には、ヴィオラのレパートリーが他の楽器より少ない。私は青春時代、米国タングルウッド音楽祭で名ヴィオラ奏者の演奏を聴くまでは主にヴァイオリンを弾いていました。ヴィオラに転向後、オリジナルの作品が少ないことを知り、ショックでした。その状況は、キャリアを積み始めた40年ほど前から、外国でも日本でもあまり変わりませんでした。現代の名作が生まれれば名手が育ち、また名作が生まれる。そんな循環が、楽器の可能性を広げていったのです。

今井さんは優れたヴィオラ奏者として知られる店村眞積さん(N響ソロ首席)や、川崎雅夫さん(ジュリアード音楽院教授)と企画を練り、毎春、シリーズを展開してきた。決定的な飛躍を遂げたのは4回目、1995年に行った「インターナショナル・ヒンデミット・ヴィオラ・フェスティバル」。ヒンデミットは1895年、ドイツに生まれた作曲家。指揮者としても活躍し、あらゆる楽器を演奏したという。ヴィオラの名手としても名高く、そのための作品も多数残したが「知る人ぞ知る曲」。それらを1週間かけ弾き通す冒険企画だった。

あの舞台は、ロンドンやニューヨークのホールと連携していました。日本でお客様が集まって下さるか、不安もありましたが、幸い連日満員でした。カザルスホールの総合プロデューサーだった萩元晴彦さんはよく、「すべては一人の人間の熱狂から始まる」と仰ってましたが、本当にそう思います。ホールは仕事に携わる「人」がつくるもの。事務局の方々が頑張ってくれました。カザルスホールが日本大学の所有に移った後も、紀尾井ホールがヴィオラスペースを快く受け入れて下さいました。ファイナンスをはじめスポンサーの方々に継続してご支援頂くなど「奇跡」の連続。10周年の節目にヴィオラスペースのCDをBISレーベルで国際的に発表できたのもステキな思い出です。

ヴィオラスペースは今ではヴィオラ音楽の紹介、若い奏者のための公開マスタークラス、新作委嘱・初演、そして国際コンクールなど多岐にわたる。大阪では04年、相愛大学でマスタークラスが始まり、翌年からコンサートも。つまり関西では教育が先行した。その教育に関し今井さんは「音楽の教師が学生に第一に教えるべきことは、テクニックではない。音楽のそのものでさえない。本質的な倫理感だ」と著書に書いている。

まず、人間として良く生きること。若い音楽家に何より重要なのは、これに尽きると思います。桐朋の学生時代、音楽を通して斎藤秀雄先生から教わったのも、それでした。友人にフィリップ・グラファンという素晴らしいヴァイオリニストがいます。彼は若い頃、フランスの伝説的名手ヒルシュホルンに学びました。グラファンも「ヒルシュホルンは人間的にとても尊敬できるから師事した」と話していました。良い演奏をするには、良い人物であることが欠かせません。その点、他から謙虚に学ぶ姿勢を関西の学生からは強く感じます。中国や韓国、台湾などアジアの学生と似た熱気が、大阪にはあります。

それは、ある種の「ハングリー精神」だろう。萩元さんはしばしば「知っていることと、分かっていることは別」と話していたそうだが、今井さんも近年、東京や欧米の若者を前に似た思いに駆られることがあるという。

頭だけでなく、感情や経験を通し理解する。それが「分かる」ということです。武満徹さんが、ヴィオラとオーケストラのために書かれた「ア・ストリング・アラウンド・オータム」()という曲があり、私が初演しました。この曲は、短い動機が次々に現れ、消えてゆく。それをどう繋げて弾いたら良いのか、最初は分からなかった。お宅を訪ねて演奏を聴いてもらったんですが、その時は少しがっかりされたようでした。考えては練習し、それを繰り返す中、ある時、自宅近くの並木道を散歩しました。秋が深まり、紅葉している。小道を巡り歩くと梢から青空が覗き、ふんわり浮かんだ雲が見える。風に揺れ、枝が緩やかにしなう。葉擦れが、さざなみのように響いて来る。そうか、あの曲もこんなイメージなんだ、と理解できました。演奏家は譜面を、自分の心を通して音楽にしなくてはならない。例えば、失恋したことがなければシューマンの曲は弾けません(笑)。若い人にはいろんな経験を積み、人間として成長してほしい。そんな彼らの姿もお客様に見守ってほしいですね。

A String Around Autumn 1989年、武満徹がフランス革命200年記念に委嘱され、創作したヴィオラとオーケストラのための作品。同年11月、パリのサル・プレイエルでケント・ナガノ指揮パリ管弦楽団と初演された。のち、小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラとの共演で録音されたCDがベストセラーとなった。

■プロフィル
いまい・のぶこ 東京生まれ。桐朋学園大学、イェール大学、ジュリアード音楽院に学び、1967年ミュンヘン、68年ジュネーヴの両国際コンクールで最高位入賞。東京カザルスホールの87年の開館時から音楽アドヴァイザー、90年からは同レジデント・クァルテット(カザルスホール・クァルテット)メンバー。同ホールで91年からリサイタルを行い、翌92年、これが「ヴィオラスペース」と題したヴィオラのための音楽祭に発展。その後、継続・展開し、大阪ザ・フェニックスホールでも開催されている。95年はヒンデミットの生誕100年を記念し東京、ロンドン、ニューヨークで開かれたインターナショナル・ヒンデミット・ヴィオラ・フェスティバルの音楽監督を務めた。97年第1回淡路島しづかホール・ヴィオラ・コンクールの審査委員長。2009年東京国際ヴィオラコンクール審査委員長。アムステルダム音楽院、ジュネーヴ音楽院、上野学園大学などで教授を務める。エイボン女性芸術賞、芸術選奨文部大臣賞、京都音楽賞、モービル音楽賞、毎日芸術賞、サントリー音楽賞、紫綬褒章を受賞。著書に『今井信子 憧れ-ヴィオラとともに』(春秋社 2007年)。

■公演情報
「ヴィオラスペース2010大阪」は、2010年5月20日(木)19:00開演。今井さんに加え、ヴィオラの菅沼準二(N響元首席)、店村眞積(N響ソロ首席)、ヴァイオリンの小栗まち絵(相愛大教授)、ピアノの野平一郎(東京芸大教授)の各氏が出演。入場料5,000円(友の会価格4,500円、指定席)、学生2,000円(限定数。ザ・フェニックスホールチケットセンターのみのお取り扱い)。チケットのお求め、お問い合わせは同センター(電話06-6363-7999 土・日・祝を除く平日10:00~17:00)。若手演奏家のための公開マスタークラスは19日(水)13:00~18:00、相愛大学(入場無料)。問合せは同大学(電話06-6612-5900 内線338)。

■プログラム
シューマン:ヴィオラソナタ 第1番 イ短調(原曲:ヴァイオリンソナタ第1番 イ短調 作品105)
今井信子(ヴィオラ)/野平一郎(ピアノ)

ベートーヴェン/ターティス編曲:3つのヴィオラのための三重奏曲 ハ長調 作品87
店村眞積/今井信子/菅沼準二(ヴィオラ)

ブルクハルト:ヴァイオリンとヴィオラのための≪クライネ・セレナーデ≫作品15
小栗まち絵(ヴァイオリン)/菅沼準二(ヴィオラ)   ほか