連載What is the Next New Design?17

デザイナー松井桂三さんとの90分 NY進出 「新たなアートの波」痛感

掲載日:2009年11月28日

 ザ・フェニックスホールの情報誌「Salon」では2005年から、ザ・フェニックスホールのアートディレクションを担当する松井桂三(まつい・けいぞう)さんのインタビューを連載してきました(ダイジェストは「■これまでのお話」をご覧下さい)。私たちホール主催公演の、オシャレなチラシやポスターはすべて、松井さんが手掛けています。米アップルコンピュータ社のデザインコンサルタントをはじめ、政府広報のシンボルマーク制作、ファッションデザイナー・コシノヒロコさんのブランディング、様々な商品のパッケージデザインなど、幅広い仕事に取り組んでいます。作品は世界的な権威を誇る米ニューヨーク・アートディレクターズクラブから1980年代以降、何度も表彰を受け、ドイツやチェコ、旧ソ連など内外の国際デザインのコンクールでも優勝・入賞を重ねてきました。ルーブル美術館はじめ世界の美術館でポスターが永久保存され、内外の国際コンペの審査員を務めるなど、正に日本を代表するアーティストであり、アートディレクターです。現在はデザイン事務所「ドラマティカ」(有) www.keizomatsui.com =西宮市=アートディレクター、大阪芸術大学大学院芸術研究科教授、日本グラフィックデザイナー協会会員。こう書くと、気難しい芸術家を連想されるかもしれませんが、若い時代はヨーロッパからアジアを放浪し、サラリーマンも経験。広い視野で社会や文化を見つめる一方、人情の機微に通じ、個性溢れる創作を展開する頼もしい先生。そんな松井さんの半生記、今回はニューヨーク進出の巻-。
                                                                            (聞き手 ザ・フェニックスホール「サロン」編集部)

NY2
 

ニューヨークにデザイン事務所のオフィスを開いたのは、1993年。アップル社でコンピュータのパッケージの仕事を手掛け、ヨーロッパでも仕事に携わるようになり、世界に目を向けて仕事をしたいと思うようになったんです。最新情報が見える都市としては、ニューヨークしか考えられませんでした。まだ高島屋宣伝部にいた81年、「日米グラフィックデザイン展」に入賞して初渡米して以来、何度も足を運びました。時代の中、刻々移り変わる様子を目の当たりにし、その空気をいつも呼吸していたかった。ボクの中では事務所というより、構想をはぐくむ「アトリエ」という位置付けでした。
 場所は、高層ビルが立ち並ぶ中心街マンハッタンの南西部。「トライベッカ」と呼ばれるその地区は、アーティストやデザイナーが多い地区「ソーホー」に隣接し、新興アーティストが集まり始めていた。映画「ニューヨーク・ニューヨーク」主演の俳優ロバート・デ・ニーロが経営するレストランがあり、ちょっとした観光スポット。
事務所名は「ハンドレッドデザインインク ニューヨーク」。前年92年、大阪で「ハンドレッドデザインインク」という同名の会社を設立しています。命名は実は、米国事務所の所在地「リードストリート100番地」に因んだものでした。
日本での仕事があり、ボクは駐在できない。以前、事務所のスタッフだったテリー・ブライトを常駐に据えました。生粋のニューヨーカー。30代の働き盛りで、マディソン・アヴェニューの広告代理店も回り、製紙メーカーのPRやパンケーキの商品開発など、色んな仕事をゲットしてくれた。ボクも頻繁に通い、脈打つように動くアートの現場を肌身で感じました。
 当時、流行したものの一つに、パフォーマンスアートがあります。アーティスト自身の身体表現を重視する新ジャンル。筋書きのない演劇のような、即興的なモダンダンスのような、不思議なアートです。あちこちで連日、公演があり、友人のニューヨークタイムズの記者に連れられ、よく出掛けました。例えばほとんど真っ暗な舞台。その中央にプールがしつらえてある。全裸の男女が何度も水しぶきを上げ走る。かなりアヴァンギャルドな舞台でしょ。観衆はほとんどがイヴニングドレスとタキシードのカップルで、根は保守的なのかブーイングが絶えませんでした。
ロビーで紹介されたのがアンディ・ウォーホル。スープ缶詰の絵や色鮮やかなマリリン・モンローの肖像を作品として発表、物議を醸したポップアートの旗手。トレードマークの銀髪が印象的でした。
彼に限らず、当時のニューヨークでは、大衆の日常を新しいコンセプトで捉え、アートに変容させようとする試みが広がっていました。以前も話しましたが、教会や子ども向けの劇場、あるいは操車場やトンネルを改造してディスコにしてしまうとか、ホテルを単なる「宿」ではなくブティックとしての性格を持たせたり、社交の場としての「サロン」に仕立てたり、ギャラリーとしての機能を持たせたり。意表をつく考えが次々に生まれ、人々が反応し、賑わいが生まれる。いつしかそれは「文化」になっていく。その渦中で、ボクはデザインの行方を深く考えるのでした。

NY1
      NY3      NY4
             NYリードストリート100番地周辺      周辺のストリートアート(上部掲載の画像は、同じく100番地周辺の店舗の看板です。)   

            

 ■これまでのお話
松井さんは1946年、京都生まれ。原爆の傷跡が残る広島で成長し、アメリカの大衆文化に触れてアートに開眼した。大阪芸大に進学してデザインに興味を深め、才能を発揮。70年の大阪万博では学生ながら、公園内の照明向けの作品が採用されるなど、頭角を現した。その後、いったん就職し、家庭も持ったが一念発起し、世界放浪の旅へ旅立つ。シベリア鉄道経由で欧州に向かい、イタリアに滞在した後、ギリシャ、トルコ、イラン、アフガニスタンを経てパキスタンからインドに入り、近代西洋とは異なる文化に生きる人々の姿を目に焼き付け帰国した。フリーで活躍した後、大阪の高島屋宣伝部に入り食品、家具、高級ファッションなどの広告戦略を担当。ニューヨークのデザインコンクールに入賞し、授賞で渡米したのを機に再び世界に目を開き、独立する。建築家安藤忠雄さんの紹介で、ファッションデザイナーのコシノ・ヒロコさんと仕事をし、さらに大手アパレルメーカーのニューヨーク進出の仕事にも携わる。世界の民族・文化が入り混じるニューヨークの摩天楼の中で独自の創作を探るようになった。アップル社のパソコンパッケージのデザインやコシノさんのパリコレ出展のサポートなど大阪を軸に欧米の仕事を手掛けるようになった。一方でブルノ(チェコ)やモスクワ(旧ソ連)のグラフィックデザインのコンペで優秀な成績を収め、アーティストとしても活動。現代の多文化の時代にあって「普遍的な表現」とは何か。それを問う歩みを、続けている。