三谷研爾さん インタビュー

掲載日:2008年12月8日

「モラヴィア」と聞いてピンと来る人は、ちょっとしたヨーロッパ通だろう。 現チェコ共和国南東部に広がる地方の名。女優サラ・ベルナールのポスターで有名なアールヌーヴォー画家ミュシャ、「夢判断」の精神分析学者フロイト、遺伝法則のメンデルや「イノベーション理論」の経済学者シュンペーター。多彩な才能を送り出してきた。レクチャーコンサート「モラヴィアから世界へ-土俗のひびき、越境のしらべ-」は、同地方の中核都市ブルノから20世紀楽壇に登場した作曲家ヤナーチェク※1)を取り上げる。講師は大阪大学大学院教授の三谷研爾さん。ドイツやオーストリアの文学、中欧文化が専門。「ハプスブルク帝国」(※2)支配下のモラヴィアに生まれ、ブルノで創作を重ねた作曲家の姿を浮き彫りにし、音楽の中の「中央」と「周縁」の関係を考えてみる。

(ザ・フェニックスホール 谷本 裕)

 

「流れ」が変えた「中央」・「周縁」

 

――レクチャーコンサートは毎年度テーマを決め、20世紀音楽を紹介してきました。08年度は「ドナウ水域」。国境を超える水の流れ、人や情報の動きと音楽の関係を探っています。今回扱う「モラヴィア」地方と、ドナウの関係から語って下さい。
 
チェコの河川で思い浮かぶのは、「モルダウ」(チェコ名ヴルタヴァ)でしょう。スメタナの交響詩「わが祖国」で親しまれています。ですが、あの川が流れているのは同じチェコでも北西のボヘミア地方。北海に注ぐエルベ水系に属します。ドナウに通じるのはモラヴァ川。モラヴィア地方の、ブルノの町の東側を流れています。ドナウとの合流点周辺ではチェコとスロヴァキアとオーストリアが接し、ハプスブルク帝国の都ウィーンもすぐそばです。モラヴィアはヨーロッパの南北東西の移動の軸線が交錯する回廊で、さまざまな言葉や民族、宗教が接触する文化の重層性、雑種性が隠されています。こうした多様性に惹かれ、中東欧の文学や文化に興味を持ち続けています。

 

――最初のご研究はチェコの小説家、カフカ(※3)だったそうですね。

 

彼はプラハ生まれのユダヤ系ドイツ人。作品はすべてドイツ語で書きましたがチェコ語も堪能。ユダヤ教の聖典の言葉であるヘブライ語も勉強しています。チェコ・ドイツ・ユダヤといった複数の文化が一人の人間を形作っていて、彼自身、自分が何者か分からない。その不安定さが、彼のアイデンティティになっていたと思います。作品には、具体的な人名・地名があまり出てきません。イニシャルだけだったりします。出来事も細部がクリアな半面、全体としてはつかみどころがない。そこだけを見ると、抽象的でシュールな表現といえそうですが、同時代の20世紀初頭、プラハに住んだ人にとっては当時の街がリアルに描かれている。実験的・前衛的な特性とプラハの風土や環境、つまりローカル性が繋がっている。これは彼と同時期、中東欧で生まれたバルトークやヤナーチェクの音楽に共通する特徴ではないでしょうか。2つの要素の複雑な絡み合いが、芸術ジャンルを超え、またチェコやドイツやハンガリーといった国の枠を越え、存在しています。

 

――ヤナーチェクの音楽との出会いは?

 

CDで聴いてはいたのですが、オペラ上演に接し、「目からウロコ」の体験をしました。数年前、ベルリンに1年近く住んだ時、3つのオペラ座が共同企画していた「ヤナーチェク週間」で、集中的に見ることが出来ました。再評価の機運が高まりつつあった時期のようで、夢中になったんです。「シンフォニエッタ」などのオーケストラ作品でも感じるのですが、彼の音楽には荒削りな生命力が溢れています。民俗的な要素や、前衛音楽的な技法など多様なファクターが組み合わさったり、循環したりしていて、ベートーヴェンやブラームスらのドイツ音楽に典型的な「構築性」「形式性」は、あまり見えてこない。その意味で「お行儀が悪い」音楽と言えなくもないですが、ワイルドさ、集中力に大きな魅力を感じました。
 
――そんなヤナーチェクを生んだモラヴィア、ブルノ。どんな所ですか。
 
アルコール文化で見ると、ボヘミアはヨーロッパのビール圏に属します。一方、モラヴィアはワイン圏です。盆地のボヘミアに比べ、モラヴィアは南に開いた丘陵で、割りと暖かい。同じチェコ人ですが、話し言葉はモラヴィアの方が柔らかくメロディアス。気質も、例えばプラハの人は理知的で、経済的にも合理性を追求する傾向が強いのに、ブルノの人は人情味豊かで温かいと言われる。この秋、旅行でブルノ近郊の町で宿に入った折、「明日のブルノの宿が決まってない。情報がほしい」と経営者の老夫婦に頼んだら「今日、ウチの泊まり客は、ブルノに知り合いが居ると言ってたから、後で尋ねてあげる」との返事でした。東西冷戦が終結し、もう20年。チェコにも市場経済は定着してます。提携先に確認するか、観光案内所に照会する。そんなビジネスライクな対応を予想していたので、驚きました。同行のチェコ人も「プラハじゃありえない」って言ってました。

 

moravia-map
(c) モラヴィア地方とブルノ、その周辺
――緩やかな時が流れる田舎ですね。ブルノも同じ?
 
人口はプラハ120万強、ブルノ40万弱。プラハは何といっても首都。中世の面影を残しながらも地下鉄のある都会、経済都市です。ブルノはあくまでモラヴィアの中核。周囲は豊かな穀倉地帯で、その経済力が集まる産業・商業の拠点としての地位は不動ですが、路面電車がノンビリ走る地方都市。今の景観が整ったのは19世紀末後半からです。
 
――彼はそこで自分の内面を見詰め創作した…。
 
ヤナーチェクがモラヴィアの民謡を収集・研究し、それを基に独自の世界を築き上げたことは比較的知られています。ただ彼が毎日、故郷モラヴィアの山や畑だけを心に思い描き、専ら土俗的、牧歌的な音楽を追求していたのではないと思います。ブルノはウィーンやロンドン、パリと比べれば確かに辺境の「地方都市」です。でも、人・モノ・情報の流れに着目すると、19世紀後半から特に20世紀前半、この町にはむしろ、さまざまな文化が流入し、独特の活況を呈していたと考えます。

 

――というと。
 
ブルノは今も昔も交通の要衝です。ウィーンからプラハへの、またハプスブルク帝国時代には「ガリツィア」と呼ばれた今のポーランド南部やウクライナ西部への、それぞれ中継地。19世紀はじめ、ナポレオンがロシアやオーストリアの皇帝と戦った「アウステルリッツの戦い」の場は、町の近郊でした。日本でいえば関が原や天王山。陸路の拠点です。現代の鉄道だとブルノからプラハまでは2時間30分。ウィーンは1時間45分くらい、お隣のスロヴァキアの首都ブラチスラヴァやポーランドの古都クラコフだと1時間30分で行ける。特にウィーンとは水路での繋がりもあり、古くから大きな影響を強く受けていたに違いない。ブルノを歩くと、19世紀末には新築のアパートメントだったとおぼしき立派な建物が少なくない。また旧市街のはずれ、小高い住宅街にあるモダン建築「トゥーゲントハット邸」(※4)は、この町が1920年代から30年代、モダニズム芸術を受け入れる、進取の気風溢れる都市だったことを物語っています。そんな空気を呼吸したヤナーチェクであれば、シェーンベルクやストラヴィンスキー、バルトークらの同時代の音楽に関する情報をキャッチしていたのではないでしょうか。モラヴィア方言の話し言葉を基盤に、ユニークな表現を獲得した彼の音楽は、この町なりのモダンな文化風土に「共振」していたと思います。その姿は、「中央」に背を向け「周縁」に引きこもり、孤高の創作に打ち込んだ野人的作曲家のイメージとは違う。晩年のヤナーチェクについてはしばしば「年下の人妻との熱愛で創作意欲をたぎらせた大家」と言われますが、ブルノの文化的環境が及ぼした影響も軽くはないでしょう。公演で取り上げる弦楽四重奏曲「クロイツェル・ソナタ」は、そうした側面からも聴いて頂きたいです。
 
――この公演では、ヤナーチェクと同郷ながら、逆に「中央」のウィーンや、米国でも活躍を広げたコルンゴルト※5)も取り上げますね。

 

コルンゴルトの人生はヤナーチェクとは対照的です。フロイトの名を挙げるまでもなく、ハプスブルク帝国の時代、学芸の才能に恵まれた人々、特にユダヤ人は帝都での成功を目指すのが定型でした。いったんはここで最高の栄光に包まれたコルンゴルトでしたが、第1次世界大戦終結でハプスブルク帝国は解体してしまう。その後、芸術・文化の新たな中心地に浮上したベルリンに行かなかったのは、自他共に認める「ウィーンの音楽の継承者」という意識が、働いていたためかもしれません。ハリウッドに渡り、持ち前の才覚で大衆文化の担い手たる映画音楽で成功を収めたものの、芸術音楽の世界からは「娯楽音楽作曲家」の烙印を押され、失意の中で亡くなる。私たちは多かれ少なかれ、「中央」や「周縁」に生きている訳ですが、2人の歩みはその意味を、あらためて私たちに問い掛けてくるのです。
※1  レオシュ・ヤナーチェク 1854年モラヴィア北部の寒村フクヴァルディ生まれ。11歳でブルノに出、聖アウグスチノ会修道院付属学校聖歌隊員となり、音楽を学ぶ。ドイツ人中学校や教員養成学校などを経てプラハ・オルガン学校、ライプツィヒやウィーンの音楽院に留学。81年、27歳の年にブルノに戻りオルガン学校を開設、校長となる。合唱曲やオペラの創作を手掛ける一方、モラヴィアの民俗音楽の収集や編曲、研究・出版に携わる。こうした活動から得た音楽語法や、モラヴィアの話し言葉の抑揚を音楽的に置き換えた「発話旋律」により独自の世界を開き1916年のオペラ「イェヌーファ」でプラハ、ウィーンで成功を収めた。このほか「カーチャ・カヴァノヴァー」、「利口な女狐の物語」、「マクロプロス事件」などのオペラで評価を得、「タラス・ブーリバ」、「シンフォニエッタ」といった管弦楽作品、ピアノ曲や弦楽四重奏曲などを多数残す。晩年は欧州各地で自作が演奏され、ベルリンのプロイセン芸術アカデミー会員に推挙されるなど高く評価された。1928年モラヴィアのオストラヴァで没。

 

※2 ハプスブルク帝国 15世紀半ばから20世紀初頭にかけ、オーストリアのハプスブルク家が君主として統治した中東欧の帝国。10を超す民族がモザイク状に内在し、統治は困難を極めたが、異質な文化が重なり、混交する中で多様な文化が展開した。別名「ドナウ帝国」。

 

※3 フランツ・カフカ(1883-1924) オーストリア・ハンガリー帝国時代のプラハ(現チェコ)に生まれた小説家。プラハ大学で法学を学んだあと、ボヘミア王国の労働者災害保険局に行政マンとして勤務。散歩や旅行を楽しみながら、執筆を重ねた。朝起きると毒虫に変身していた男を描いた「変身」や、得体の知れない村で官庁を相手に格闘する測量士が主人公の「城」など、不条理で幻想的、時にグロテスクなストーリーを淡々とした筆致で紡いだ。

 

※4 トゥーゲントハット邸 20世紀モダニズム建築を代表するドイツの建築家ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)の代表作の一つ。チェコだけでなく、近代建築の世界的な名作として知られる。ドイツ系の織物商が結婚を機に設計を依頼したもので、1928年に設計開始、1930年竣工。建物は大きなガラス面で囲まれており、外部の空間と室内空間を自然に繋げている。ユネスコの世界遺産に指定されている。

 

※5 エーリッヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト 1897年、モラヴィアのブルノ生まれ。父は音楽評論家ユリウス・コルンゴルト。4歳からウィーンで育つ。マーラーの勧めでツェムリンスキーに作曲を師事。11歳の時のバレエ・パントマイム「雪だるま」がウィーン宮廷歌劇場でウィーンフィルにより初演され成功。神童として知られ、ワルターやニキシュら巨匠指揮者が進んで作品を演奏。22歳で創作したオペラ「死の都」で名声を確立した。その後、ウィーン市芸術勲章を受け、オーストリア大統領からウィーン音楽大学名誉教授の称号を授けられた。1930年代に入るとオペレッタを、続いてハリウッドで映画音楽に手を染める。38年にナチスドイツがオーストリアを併合後は米国で亡命生活を送り、43年帰化。ハリウッド映画の音楽様式を打ち立て、「ロビンフッドの冒険」などでオスカー賞受賞。戦後はコンサート音楽の創作を再開、「ヴァイオリン協奏曲」などを発表するが、後期ロマン派の薫りを残した作風は時代遅れと受け取られ、芸術音楽の世界では評価されなかった。57年、ロサンゼルスで死去。