平松英子さん インタビュー

掲載日:2008年10月8日

ザ・フェニックスホールは、子育て真っ最中のお母さんや子育てを終えた全てのお母さんたちに、ご家族ともども聴いていただきたいコンサートを11月8日(土)午後、開きます。スポットをあてるのは「夏の思い出」「ちいさい秋見つけた」などで有名な作曲家、中田喜直さん(なかだ・よしなお 1923‐2000 ※1脚注参照)の歌。ピュアで優しく、温かいけれど、ちょっぴり人恋しい心持ち。今も昔も、それはこどもにあり、私たち大人の中にも宿っています。そんな「こどもの心」に贈る、ほのぼの舞台。ドイツ歌曲や宗教曲の分野で活躍する一方、日本の歌、こどもの歌を「ライフワーク」として取り組むソプラノ平松英子さんに、歌う心や中田さんの思い出などを語ってもらいました。

(東京・銀座で ザ・フェニックスホール 谷本 裕)

歌い継ぎたい 「温もり」を  

ホームシックで“開眼”

 

 

――バッハ、ハイドンの宗教曲でソリストとして歌われ、シューマンやブラームス、R・シュトラウスらのリート(歌曲)を手掛け、モーツァルトのオペラを演じと平松さんにはドイツ・オーストリアの芸術音楽の専門家、というイメージがありました。でも今回は、日本の、中田喜直さんの曲。日本の歌や、こどもの歌に取り組むようになったきっかけは。

 

私は学生時代、ドイツやイタリアの歌曲、オペラに打ち込んでいました。日本歌曲に初めて郷愁を覚えたのは、ドイツに留学して間もないころです。自分の取り組むドイツ歌曲が生まれ育った風土や人々の日常に触れてみたかったんです。移り住んだ最初は、ドイツ語がきちんと話せないし、知り合いも少ない。ちょっと寂しかったんですね。一人ぼっちで居る時、無意識に口ずさんだのが、山田耕筰の童謡「赤とんぼ」でした。あの詞は、詩人・三木露風が、望郷の思いを綴った作品です。それまで日本歌曲を自分から意識的に歌うことはほとんどなかったですが、当時は、私自身の孤独感と重なる部分が大きかったんだと思います。まもなく私は、偶然、ある公演の代役で出演を請われたのを機に、プロとしてヨーロッパの舞台に立つようになりました。日本歌曲を歌う機会も、増えていきました。

 

――どんな作品ですか。

 

最初に手掛けたのは、山田耕筰、林光、三善晃といった作曲家の曲でした。(ミュンヘン・フィルの本拠地としてしられる音楽施設)ガスタイクや、郊外の老人ホーム、ミュンヘン音楽大学などで開いたリサイタルで、ドイツの歌曲と組み合わせて歌うようになり、日本から船便で譜面を取り寄せてはレパートリーを広げていきました。仕事を通じて仲間の輪が広がると、「お互いの、ふるさとの歌を歌おう」という場面が出てきます。日本歌曲を披露したあとで、ハンガリーやチェコで歌い継がれてきた歌を聴くと、曲想に似たものが結構あり、驚きました。(優れた日本研究で知られるポーランドの名門)ヤゲウォ大学で歌った時は「エイコ、これは僕たちの国の歌とおんなじ音楽だネ」と言われました。

 

――遠く離れているのに、不思議ですね。
私もそう思います。でも日本歌曲に込められた心情にはドイツ歌曲の、例えばシューベルトの有名な「冬の旅」と同じようなものがある。故郷に思いを馳せ、音楽に哀しい色が少し入っている。日本で、ドイツ歌曲が受け入れられた背景には、例えばこんな共通点があるからかもしれない。「赤とんぼ」に曲をつけた山田耕筰はベルリンに留学し、リヒャルト・シュトラウスらの歌曲を手本に創作を模索しています。彼が帰国後、近代日本の歌曲ジャンルを開拓したことを思うと、ドイツをはじめとするヨーロッパの歌との繋がりも、単に偶然ではないように思えてきます。私が日本の歌の世界に抵抗なく入れたのは、小学生の頃、東京少年少女合唱隊(※2)で歌っていて、童謡やこどもの歌に馴染んでいたことが影響しているかもしれません。私にとって日本歌曲や童謡はシューベルトやブラームスといったドイツ歌曲と全く同じ音楽なんです。
――留学当初のような、孤独感・寂寥感はもう無い訳でしょう? いま、平松さんにとって、日本歌曲は一体、どんな存在ですか。
 
孤独ではないにしても、愛(いと)おしさや人恋しさみたいな感情は自分の中に今もあります。日本の歌は一番、心が和む音楽。やっぱり母国語、日本語の強さですね。日本でリサイタルを開くようになってからも、ドイツ歌曲を軸にしつつ日本歌曲を組み合わせ、舞台を重ねてきました。この6月には、東京で「こころのうた」という、日本歌曲だけのシリーズを始めました。これから、声が年齢と共に変化していきます。声の「寿命」を考えながら、じっくり取り組みたいジャンルです。
忘れられない初対面

 

――今回、スポットを当てた中田喜直さんの作品との出会いは?
最初に歌ったのは、代表作の「さくら横ちょう」。ドイツで日本歌曲を頼まれ、自分で選んだ中の一曲でした。春の宵、咲き誇るサクラの花に失恋の切なさを託した、加藤周一の詩に基づく作品です。私は、頭の中に映像イメージが思い浮かばないと歌に心が込められないんです。その点、この曲は前奏の一小節を聴いたら、もう風が吹いてきて、揺れる梢や散る花びらが目に浮かぶようでした。おかげで原詩の話し言葉そのままに、とても自然に歌えたことが印象に残っています。その後、少しずつ先生の歌に取り組んできました。作品は、一般にいう「こどもの歌」「童謡」のカテゴリーには収まらない高い芸術性があり、世界に誇れる音楽と思うようになりました。そんな私にとって先生は、「雲の上の人」だったんです。
――「接点」はどのようにして出来たんですか?
留学しておよそ10年後、日本でオペラを歌ったのが縁で、横浜のフェリス女学院大学で教えるようになったんですが、中田先生は名誉教授でいらした。でも学校には殆ど来られません。ちょうどその頃、「さくら横ちょう」などを収めた初CDを発表したばかりでした。思い切ってご自宅にお送りしたんです。数年後、お会いする機会が巡って来ました。1997年10月、東京・王子のホールで開かれたコンサート。作曲家の三枝成彰さんの企画でした。前半、ブラームスの「五月の夜」などを歌い終え、舞台袖に引き上げてきたら、思いがけず激励に来てくださったんです。薄暗い場所でしたが、先生の姿だけ、ほのかに明るく見えました。手を取って「きょうは、あなたを聴きに来ましたよ」と声を掛けていただいた。細い指でしたが、手のひらの温もりは忘れません。周囲には他の出演者の方もおられたのですが、皆、有名な先生が突然見えたので黙ってしまい、お褒めの言葉を私一人でいただいてしまって、嬉しいような、恥ずかしいような心持ちでした。その後は折にふれ、お葉書をいただきました。「いつも聞いてます」と書き添えていただいたのを、今も大切に残しています。
――作曲者ご本人との交流は、同じ時代を生きる演奏家にとっては掛け替えのない体験ですものね。
先生は、たばこの煙が大嫌いで、エッセイでも繰り返し嫌煙権を主張されていました。学校で同僚と激論を交わされたこともあるそうです。でも、私には温和そのもので、ずっと変わりませんでした。舞台でご一緒させていただいたこともあるんですよ。1999年の11月、フェリスのチャペルで開かれたレクチャーコンサート。先生の発案で、日本歌曲の歩みをお話と生演奏でたどる企画の第1回でした。聴衆の大半は、フェリスの同窓生。先生の教え子の方も多かったと思います。実はそのころは、先生のお体はもう大分悪く、公演が予定通り行われるかどうか、気を揉んだのを覚えています。リハーサルで、先生に歌を聴いてもらいました。

 

嬉しかった「お墨付き」

 

――緊張されたでしょうね。
先生の前で歌うのは初めて。おっかなびっくりだったんですが、一言、「今ので、良いです」と、言ってくださり、安堵しました。日本歌曲はドイツ歌曲と同じ発音で歌うと、歌詞が聴き取りづらくなることが多いんです。留学以来、ずっと自己流で歌っていましたが、キチンと聴き取れる発音を、自分であれこれ研究してきましたから、「お墨付き」に誇りも感じ、自信にも繋がりました。客席中央の通路を、出口に向かって歩きながら歌を聴いておられた小さな背中。その姿が瞼に残っています。先生のピアノで「かもめの水兵さん」なども歌いましたが、フェリスの舞台に先生が立たれたのは、あれが最期になってしまった。亡くなった後、奥様から「平松さんには、ボクの曲をもっと歌ってもらいたい、って言ってたのよ」と伺った時には、涙がこぼれました。生前、先生のお体に障るかもしれないと心配でお邪魔するのは遠慮したんですが、もっとお話を聴いておけば良かった、と悔いる時期もありました。先生の歌を歌い続けることを自分の「使命」と決め、芸術歌曲としての側面に光を当てたいと長く願ってきました。先生が亡くなって8年。今回の公演で、初めてそれが実現できます。
――今回のプログラムについて話してください
最初の「ほしとたんぽぽ」は、小さな命や自然に優しい眼差しを注ぎ、注目を浴びる詩人・金子みすゞ(1903-1930)の詩による、愛らしい作品です。だれもが読める詩、だれでも歌えるメロディで、聞く人の年齢や人生経験に合わせた受け止め方が自由に出来る懐の深い作品。先生はこれに「童謡歌曲集」という副題を付けておられます。この曲は、日本歌曲の一つの「頂点」だと私は思っています。これは晩年の作品ですが、逆に、後半に取り上げる「六つの子どものうた」は、最初期の作品。先生は若い時代、ピアニストとして活躍され、フランス近代のフォーレやドビュッシーの音楽から強い影響を受けておられる。楽譜を弾いてみると、それがよく分かります。晩年は、どんどん音が削ぎ落とされて、日本語の響きやアクセント、抑揚をそのまま音楽にしたようなシンプルな作風に変わっていった訳です。前半と後半で、その対照を味わっていただけたら嬉しいですね。

 

 

 ■プログラム

 

 中田喜直:童謡歌曲集「ほしとたんぽぽ」(金子みすゞ詩)より 

 1 つゆ

 2 こだまでしょうか

 3 おさかな

 4 いぬ

 5 つち

 6 ほしとたんぽぽ

 

 マヌエル・ポンセ:スケルツィーノ・マヤ(ピアノソロ)

 

 林光:ほうすけのひよこ(谷川俊太郎詩)

 

 中田喜直:「6つの子供の歌」

 1 うばぐるま(西条八十詩)

 2 烏(小川未明詩)

 3 風の子供(竹久夢二詩)

 4 たあんき ぽーんき(山村暮鳥詩)

 5 ねむの木(野口雨情詩)

 6 おやすみ(三木露風詩)

 

 マリオ・アルメンゴル:雲の色(ピアノソロ)

 

 中田喜直:夏の思い出(江間章子詩)

       :ねむの花(壷田花子詩)

       :「日本のおもちゃうた」(岸田衿子詩)よりあねさまにんぎょう

       :ちいさい秋みつけた(サトウ・ハチロー詩)

 

※1 なかだ・よしなお 東京生まれ。1943年東京音楽学校(現・東京芸大)ピアノ科卒業。軍隊生活の後、戦後、柴田南雄らのつくった作曲家グループ「新声会」に入る。47年歌曲集「6つの子供の歌」「海四章」「木兎」などを発表し、創作活動に入る。49年NHK毎日音楽コンクールでピアノ・ソナタ入賞。以後、毎日音楽賞、芸術祭賞などを受ける。歌曲、合唱曲、童謡、ピアノ曲を作り、大部分が出版され、またレコードやCDも数多い。「小さい秋みつけた」(詩サトウ・ハチロー)、「夏の思い出」(江間章子)、「雪の降るまちを」(内村直也)、「めだかの学校」(茶木滋)などの作品で、学校のコーラス、お母さんコーラスなどでも幅広く親しまれ、「日本のシューベルト」と呼ばれた。校歌の作曲も多く、関西では大阪教育大学教育学部附属天王寺小学校、滋賀県長浜市立長浜小学校、大阪府茨木市立大池小学校、兵庫赤穂市立赤穂西小学校などの校歌を手掛けた。フェリス女学院大学音楽学部や神戸山手女子短期大学音楽学科の両教授、日本童謡協会の会長などを務めた。2000年没。   ※2 東京少年少女合唱隊 1951年、中学校の音楽教員だった長谷川新一氏が結成した東京少年合唱隊が前身。ルネサンス時代の作品を日本の子どもたちに伝え、ヨーロッパの音楽伝統に基づく教育の展開を狙いとした。メンバーは都内の小学校児童から募り、グレゴリオ聖歌指導で知られたポーロ・アヌイ神父も指導で協力。60年に結成されていた東京少女合唱隊と64年に合併、その年、アメリカのカーネギーホールで公演を開いたのをはじめ、欧米、アジア・オセアニアへ演奏旅行を行っている。また、90年には、ヨーロッパ放送網主催の国際合唱コンクール児童合唱部門で優勝。国内では定期公演開催や、クラウディオ・アバド指揮ベルリンフィルやウィーン国立歌劇場はじめ、内外の一流指揮者・オペラ団体などとの共演を続けている。

  親子でお買い上げの方に、1割引の特典  

「Songs ~ こどもの心に 平松英子ソプラノリサイタル」は、2008年11月8日(土)午後4時開演。ピアノはラファエル・ゲーラさん。入場料3,000円。こども・学生券1,000円(ザ・フェニックスホールチケットセンターのみのお取り扱い)。指定席。おとな券と、こども・学生券を同時にお申込みいただきますと、チケット価格が1割引となります。例:ご両親と、お子様お一人7,000円のところ、6,300円に。チケットのお求め、お問い合わせは、同センター(電話06・63636・7999 土・日・祝を除く平日午前10時-午後5時)へ。なおお子様には終演後、チョコレートを進呈いたします。