安原雅之さん インタビュー

掲載日:2008年1月10日

20世紀には、アメリカと拮抗する大国が世界に存在していた。ソヴィエト社会主義連邦共和国(ソ連)。現在のロシア連邦を軸に、東は日本海、西は東欧・北欧に接し、南は中央アジアから北は北極海まで。世界一広大な国土を誇った文字通りのスーパーパワー(超大国)。共産主義イデオロギーによって統治され、「東」ブロックの盟主として君臨したが、1980年代なかば以降、自由開放政策が進められ、1991年12月に崩壊。首都モスクワを要(かなめ)とする中央集権体制も終焉を迎えた。これに伴い、それまでソ連内部で抑圧されていた様々な音楽が噴出し、世界によって「発見」されることになった。今公演の講師安原雅之さん(愛知県立芸術大学准教授)は、学生時代からソ連やロシアをしばしば訪れ、特に国家崩壊の際は混沌の極みのモスクワを目の当たりにするなど社会の変動を肌身で感じてきた。旧ソ連やロシアの音楽とご自身の関わり、今公演の聴きどころなどを聞いた。                  (ザ・フェニックスホール 谷本裕)

揺れた「文脈」激動の時代

――最初の「ソ連体験」から聞かせて下さい。

シベリア鉄道の旅です。大学3年、横浜から船で沿海州ナホトカに着き、3週間ほどかけ大陸を横断、ヨーロッパへ行きました。旅行ガイド本『地球の歩き方』が出始めた頃で、バックパック背負って出掛けたんです。1983年でした。列車で同室になったおじさんと、片言のロシア語で話し、結構通じたんです。でも「住所を教えて」って頼んだら、断られた。ソ連市民は、外国人との接触はご法度。心の「壁」を感じさせられました。

 

――音楽大学の学生で行き先がソ連。異色だったのでは?

ロシア音楽が好きでした。物心ついたころには毎年11月の革命記念日に赤の広場で行われる軍事パレードなど、モスクワ発のニュースがメディアで大きく取り上げられ、国家としてのロシア=当時のソ連に興味を感じていました。米国のジョン・リードが革命を描いた『世界を震撼させた十日間』や、同時代の暮らしを描いた新聞連載など、貪るように読んでいました。卒論テーマを探る中、1920年代、建国間もないソ連で一時期、「ロシア・アヴァンギャルド」と呼ばれる前衛芸術運動が勃興したことを知りました。当初は国の理解もあり、音楽でも新たな動きが展開したのですが、政治が保守化する中で否定され、音楽家の名も辞典から抹消された。普通の西洋音楽史の教科書に、そんなことは載ってないし、作品に触れる機会も全くない。ところが、ある日、渋谷の「ユーロスペース」で特集コンサートが開かれたんです。

 

――20年以上前ですよね。すごく貴重な機会でしたね。

高名な評論家が、ルリエ(※1)やロースラヴェツ(※2)といった作曲家の作品を紹介し、高橋悠治さんがピアノを弾いた。「前衛」とはいうけれど、1920年代のヨーロッパの古き良き時代の薫りを残す、マイルドな革新性が印象的でした。終演後、楽屋で譜面を見せて、と頼んだんですが、「ベルリンに行けば手に入るよ」とお預けをくらいましてね、「それなら自分で」と、出掛けることにしたんです。

 

――なるほど。それでヨーロッパまで。

モスクワやレニングラード(現サンクトペテルブルク)などを巡って西ベルリンに着くと、今度は本当に分厚いコンクリートの壁が町を囲んでいる。世界は東西に二分され、僕は西側の人間だ、と痛感しました。そのベルリンで何と、「ロシア・アヴァンギャルド」音楽を、まとめて聴くことができたんです。

 

――奇遇ですね。

冷戦が生んだ視線

 

音楽祭「ベルリン芸術週間」が、特集を組んでいた。10日ほど留まり、毎晩、公演に通いました。ルリエ、ロースラヴェツはもちろんモソロフ(※3)の室内楽、ピアノ曲など歴史に埋もれた作品に触れることが出来た。同時代の前衛作曲家として、シュニトケ(※4)の曲を耳にしたのも、あれが最初です。例の楽譜は、図書館でスンナリ手に入り、卒論のテーマに決めました。でも考えてみると、あの音楽祭のテーマ設定、実は政治的な意図があったかもしれない。

 

――というと?

西ベルリンは東=共産主義世界に向けた、西=資本主義世界の「ショーウインドー」と言われていた。ソ連が抑圧した音楽を、壁のすぐ傍で連日演奏し、西の聴衆が喝采するという構図は挑発的ですよね。冷戦時代の政治的なコンテクスト(文脈)の中では、東で価値を否定された音楽を西が評価することで相手の文化のあり方、国のあり方に政治的に抵抗する意味合いが込められていた。日本の僕の興味も無意識に、そうした文脈を体現していたんです。もっとも、こんな文脈の存在に気付いたのは、随分あとになってからですけど。

 

――その後、何度もソ連に行かれた訳ですが、この種の音楽はどう扱われていましたか。

こと貴重な資料となると、ソ連の図書館は西でも公開されているものしか、西の人間には見せてくれなかった。ある時、レニングラードの音楽図書館で、ルリエの楽譜の閲覧を若い司書に頼んだ。一般には非公開の蔵書カードを手掛かりに、楽譜の束を出してくれました。何とルリエが亡命先アメリカで出版した譜面も混じっていた。そこへ年配の職員が戻って来、譜面を見るなり、部下を怒鳴りつけたんです、「あれは駄目だ」と。譜面には「亡命者注意!!!」と記されていた。若い司書は事情を知らず、善意で出してくれたんでしょうが、閲覧禁止でした。

 

――でも国が否定した作品の譜面を、公開もしないのに、わざわざ外国からも集めるなんて・・・。

彼らは、自分で価値判断こそしないけど “虐げられた”作品でも資料は蓄積しておき、後世の研究者に託そうとしてたんじゃないか。ソ連はしばしば、非情な「官僚国家」として描かれましたが、個人的には末端の役人たちの人間臭さを感じていました。特に状況が変わったのは85年のゴルバチョフ(※5)の登場以降。図書館でマイクロフィルムのコピーを頼むと、日本に郵送してくれるんですが、これも当初は禁止ばかり。でも2、3年すると、非公開資料がぽつぽつ届くようになった。「これをお送りできることを嬉しく思います」。メッセージも添えてある。改革、民主化、情報公開。新路線「ペレストロイカ」の浸透でした。

 

――改革の最終段階、ソ連崩壊の頃のモスクワは、どんな様子?

緩む封印 迫る終焉

 

91年秋、正に崩壊の直前に留学しました。在籍中のアメリカの大学からモスクワに入ったんです。「飽食の国」からは一転、食べ物はじめ、国営の店にはともかくモノがない。街にヤミ市が立っていて、パンから電球、自転車、洗濯機に至るまで、あらゆるものを買いました。当時、テレビニュースの物価指標はソーセージの値段だったんですが、これが猛烈な勢いで上がっていく。農民が開く自由市場では、トマト一山に何万ルーブルの値が付く。外貨を持つ僕は一カ月2万円ほどで悠々暮らせましたが、買い物の折は庶民の殺気立った視線を感じました。大学では教官が授業で居眠りする。よほど生活に疲れていたんでしょう、会う度に目の下の隈(くま)が大きくなっていった。政府高官や国家組織の重鎮が、国有財産の建物やアパートを外国企業に売ったり、又貸しで稼いだり。想像を絶する醜聞が報じられ、混乱そのもの。そのうち、現地の新聞に「国の名前が変わった」という記事が小さく出た。意味が呑みこめず、三井物産の支店に行ったら、日本の新聞の一面に「ソ連崩壊」の見出しが躍っていた。街では大騒ぎする人が居るわけでなし、台風の目の中みたいな静けさが街を覆っていました。

 ――研究は進んだんですか。

通い慣れたソ連作曲家同盟(※6)のホールである日、入り口にロースラヴェツの作品演奏会のポスターが張ってあるのを見つけた。一瞬、目を疑いました。だって70年近くも“封印”されてきた音楽です。ソ連の衰退と符合するかのような、かつての前衛音楽の「復権」。茫然としました。特別な宣伝がある訳でなし、200人ほどの客席を埋めたのは70人足らず。でも作曲家同盟の改革派、デニソフ(※7)の顔もあった。このころからロシア・アヴァンギャルド音楽の楽譜や資料は入手しやすくなり、アメリカでもちょっとしたブームになりました。モスクワでは資料を収めた公文書館が外国人にも門戸を開くようになったんですが、著作権を外国の出版社に売り払うために再び閉鎖されるなどイザコザが続き、もう嫌気が差してしまった。ともかく論文は書き、自分の中では一段落つけました。

――その後の研究のテーマは。

ロシア・アヴァンギャルドの影響を受けたショスタコーヴィチです。彼については、特にスターリン時代に、ソ連国家による政治的な抑圧にさいなまれながらも権力批判を孕(はら)む創作を続けた作曲家として知られています。こうしたイメージを形づくる上で80年代、『ドミートリ・ショスタコーヴィチの回想(邦題・ショスタコーヴィチの証言)』(ソロモン・ヴォルコフ著 1979年英国刊)という書物が極めて大きな役割を果たしました。でもこの書物は実は、研究者の間では当初から信憑性が疑問視されていたんです。時代によって音楽を囲む政治や社会の状況は移り変わる。そうした「文脈」の中で音楽を捉える面白さは、危険性と表裏一体の関係にある。レクチャーでは、環バルト海を軸にそれを考えてみたい。

――その公演の共演者ヴァディム・サハロフ氏(ピアノ)は同じ愛知県立芸術大学の教官をお務めですね。

ロシアのピアニストには、二つのタイプがある。ラザール・ベルマンやタチアナ・ニコラーエワに見られる、時には “過多”ともいえそうな、ロマンチックな表現を得意とするタイプ。もう一方は、知的な抑制を効かせ、構築性を前面に出すタイプ。こちらはスヴャトスラフ・リヒテルやミハイル・プレトニョフが代表。でもサハロフ先生はどちらでもない、独特の繊細さを持っている。ソ連時代は、それこそアップライトのピアノしかないような小村でも舞台を重ね、ソ連崩壊の少し前にフランスに亡命。国際的なキャリアを築いてきた名手です。

――そのサハロフ氏の音楽人脈もお話の一つです。

「曲そのもの」問う

先生のモスクワ音楽院時代からの盟友にギドン・クレーメルがいます。モスクワからは少し離れた、北欧寄りの環バルト海の小国、ラトヴィア出身の高名なヴァイオリニスト。先生自身も中央アジアのアゼルバイジャン共和国の出身です。ソ連時代、モスクワ音楽院には全土から俊英が集まっていた。モスクワは文字通りの「中央」。そこを経由してこそ西側に名声を轟かせることも出来た。しかしそこには、当局の監視や抑圧も付きまとった。崩壊後は、そんな縛りが消え、ロシア・アヴァンギャルド音楽と同様、西には知られていなかった周縁の作曲家や作品も脚光を浴びることになりました。

――プログラムには、比較的著名なシュニトケのほか、アゼルバイジャンのアリ=ザデ(※8)、ウクライナのシルヴェストロフ(※9)といった作曲家の曲も並んでいます。

彼らは以前、旧ソ連の辺境の創作家、或いは少数民族の音楽家として、興味を集めたものです。何しろ崩壊の前後は、情報が極端に少なかった。こうした興味は、超大国の崩壊という政治的な文脈が引き起こした視線によるものでした。でも既に16年が経過、こうした見方は薄れつつあり、作品はいまやグローバルな視点で、つまり「音楽作品としてどうなのか」という観点から正当に評価されるようになってきている。ここでも、音楽そのものは変わらない。でも、それらを取り巻く社会の文脈が変わることで、音楽は違って受け止められる。今回の公演では、ヴァイオリンの久保田巧さんと、チェロの山崎伸子さんといった正に日本を代表する名手も演奏します。「グローバル・スタンダード」の前に投げ出された作品が、どのように皆さんの耳に響くか、私自身、楽しみにしています。

※1 アルテュール・ルリエ(1892‐1966) ペテルブルク(現サンクトペテルブルク)出身。通常の半音より細かな音程を使う微分音や図形楽譜などを用いた実験的作品を発表。ロシアモダニズムを主導し、革命後はソ連政府の教育人民委員会音楽部門を率いたが、1922年にドイツ亡命。のちフランスやアメリカで活動。80年代に入りロシア・アヴァンギャルドの代表として脚光を浴びた。

※2 ニコライ・ロースラヴェツ(1880-1944) ウクライナ出身。モスクワ音楽院在籍中から革新的な作風を示す。新生ソ連の作曲界をリードする存在として1920年代、ハリコフ音楽院長、国立音楽出版局の責任者など要職を務めたが、アンチ前衛主義勢力からの批判が強まり、次第にプロパガンダ的な作品を生むようになった。30年代以降は音楽史から名が消されたが、80年代に再発見され、高い評価を得た。

※3 アレクサンドル・モソロフ(1900-73) キエフ出身。モスクワ音楽院在学中からロシア、西欧双方のモダニズムを吸収し、前衛的な作風を確立。1920年代、30年代初めは前衛音楽の最先端に立ち、国外の音楽祭でも作品が取り上げられるなどで成功を収めたが、国内保守派からの攻撃を受け、徐々に作風を軟化させ、第2次世界戦後は、体制が求める社会主義リアリズム的な音楽を書いた。

※4 アルフリト・シュニトケ(1934-1998) 旧ソ連ヴォルガ・ドイツ共和国で、ユダヤ人の父とドイツ系母の間に生まれる。ウィーンでピアノを学び、帰国後モスクワ音楽院で作曲など専攻。新ウィーン楽派の音楽を学び、のちロシアと西欧、伝統的な音楽と新たな語法を組み合わせた「多様式主義」を確立。母の死を機に追悼的な作風を強めた。西側諸国で活動を広げ、90年ドイツに移住、同国籍を取得した。

※5 ミハイル・ゴルバチョフ(1931‐) 政治家。スタヴロポリ出身。40歳で共産党中央委員となり、1980年最年少の政治局員に。改革派として頭角を現し、85年書記長。ペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)、ノーボエ・ムイスレーニエ(新思考)といったスローガンを掲げて変革を進め、外交面ではレーガン米大統領と共に冷戦終結を図った。90年には一党独裁をやめ、初代大統領に。国内共和国への権限委譲を図り、91年のソ連崩壊を招いた。90年ノーベル平和賞受賞。

※6 ソ連作曲家同盟 職業音楽家団体。1932年に設立された音楽組織が起源。モスクワとレニングラードに最初の支部がつくられ、ソ連内の共和国首都に組織が広がっていった。第2次世界大戦終結後、活動を活発化させ、交響楽・室内楽、オペラ・バレエ、音楽学、軍楽、児童、対外といった部会を持っていた。独自の出版社を通じ、書籍・楽譜、定期刊行物などを出すなどソ連の音楽界を代表した。

※7 エディソン・デニソフ(1929-96) トムスク出身。同地の大学理学部で学んだのち、ショスタコーヴィチの勧めを受け、モスクワ音楽院で学ぶ。12音技法やセリー技法を用いた作品を発表し、ソ連の前衛音楽をリード。国内保守派と対立しながら、西側の作曲家とも交流を深めた。ソ連崩壊後は同音楽院で作曲を教える一方、現代音楽協会を設立、作曲家同盟書記となり、現代音楽普及に努めた。

※8 フランギス・アリ=ザデ(1947-) アゼルバイジャン生まれ。バクー音楽院で作曲とピアノを学び、アゼルバイジャンの作曲家に関する研究に携わったのち、96年から同教授。新ウィーン楽派やケージ、シュニトケらの作品を紹介した。トルコに移住したのち、ドイツを拠点として活動。アゼルバイジャンの音楽と戦後の西側の前衛音楽を併せ持つ作風で知られる。

※9 ヴァレンティン・シルヴェストロフ(1937-) キエフ出身。工科大学に在籍したあと、同地の音楽院で作曲・和声・対位法を学ぶ。青年期には調性音楽、無調音楽と偶然性の音楽、また新古典主義などさまざまな音楽の統合を試みたが、その後は西欧の伝統的な音楽様式を基本に据えた創作を探るようになった。