映画監督 篠田正浩さんインタビュー

「宇宙」奏でた二声のフーガ

掲載日:2007年2月7日

「武満との仕事はアバンチュールでした」と語る篠田監督

                 =2007年2月 東京・渋谷

ザ・フェニックスホールは2月24日(土)夕、映画監督篠田正浩さん(1931-)を招いたレクチャー公演「音楽の越境者」を開く。テーマは、21世紀を代表する作曲家・武満徹(1930‐1996)の映画音楽。2人は1960年代から30年以上も仕事を続けた。公演では、斬新な音色と世界音楽の響きを映画に持ち込み、映像の流れと音・音楽を巧みに組み合わせて新たな表現を目指した、創作の軌跡をたどる。また、代表作『心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)』(主演=岩下志麻・2代目中村吉右衛門)を上映する。元禄期、大坂・網島(現・大阪市都島区網島町)で起きた事件を近松門左衛門が脚色、今なお人形浄瑠璃や歌舞伎で演じ続けられる名作だが、篠田監督と武満は協働によってこの古典を、現代に通じる凄まじい表現へ昇華した。ここでは、音や音楽が映像と緊密・不可分に付されており、武満の知られざる創作の思想が刻まれている。今公演は「銀幕の音」に耳を澄ます異色の舞台。映画の「聴き所」はどこに-。渋谷のオフィスで、お話を伺った。
(聴き手 ザ・フェニックスホール谷本 裕)

 

光る合一 「勧進帳」

日本の芸能は「演劇」か「音楽」か。早稲田(大学文学部)で近松門左衛門を研究した時以来、本当に微妙な問題だと思ってるんです。近世以前、日本で生まれた純粋な器楽作品(楽器演奏のための作品)は多くない。ほとんどが何らかの形での演劇音楽で、しかも西洋音楽でいう「伴奏」じゃなく、音楽そのものが演劇として存在している。能、浄瑠璃や歌舞伎などの力は、アメリカのミュージカル以上に強いんじゃないか。人の心を揺さぶる魔力を、はらんでいる。

 

演劇の進行と、音楽的な時間の流れとのシンクロ(一致)の度合が高ければ高いほど、傑作になる。その代表が、有名な歌舞伎の『勧進帳』(文末注※1)です。弁慶が花道を引き揚げる際の「飛び六法」は、音楽抜きに考えられない。劇と拍子木の音や掛け声とを、画然と分かつことなど出来ないという意味が、お分かりいただけると思います。

 

逆に、演劇の進行と音楽の流れがズレると、ギクシャクする。例えば、歌舞伎の『心中天網島』中之巻に、主人公である治兵衛を訪ね、舅が紙屋の店先に押し駆けて来る場面がある。ここで大切なのは、言葉(台詞)も音楽としての働きを持っている点です。学生時代、僕がこの劇を見た歌舞伎座の舞台は、間口が広かった。「治兵衛は居(お)るか」と舅が述べてから、中央にたどり着くまで、どうも間延びしてしまう。もともと人形浄瑠璃として生まれた演劇を、歌舞伎に翻案したことに伴って生じた空間と時間のズレ。人形遣いなら一瞬で移動できる距離も、生身の人間だと時間がかかり、舞台上で違和感となって表れるわけです。

 

つまり演劇空間は、言語の音楽的なリズムに完全に規定される。近松のドラマを浄瑠璃以外で完全に実現しようとするなら、現実空間を否定し、架空の空間を設定しなくてはならない。正に近松の唱えた「虚実皮膜論」(芸能の本質は、虚と実の間の薄い皮膜に存在するという思想)です。学生の頃は、こんなことを考えていたのですが、映画会社に入って助監督になり、暫くは忘れていた。そんな考えを揺さぶり起こしたのが、武満が手掛けたラジオドラマ≪心中天の網島-らじお・いりゅうじょん≫(※2)でした。

 

放送劇聴いて奮起

1958年11月のある夜、ラジオから流れる言葉と音楽に、僕はハッとしました。言葉の美しさやリズムがそのまま、音楽に聞こえたからです。音響構成は武満徹。前年57年6月、僕は彼の出世作≪弦楽のためのレクイエム≫の初演を日比谷公会堂で聴いた。人間存在の哀しさを突いた壮大な悲劇性の表出に、強烈な印象を受けていました。その彼が、七五調言葉のドラマを手掛けている。声の合間に、義太夫や三味線も入っていた。目を閉じて聴き入ると、正にブラックシアターです。暗闇の中、言葉が通り過ぎるだけで十分、映像化出来る、と創作欲をいたく刺激された。 

 

このドラマは、近松の脚本に忠実に台詞を作っています。実は、浄瑠璃≪心中天網島≫は1720年(享保5年)12月の初演後、改作されて原作通りには長く取り上げられませんでした。先代の竹本綱太夫さん(義太夫)に伺ったんですが、近松の原本は、七五調というには「字余り・字足らず」が多く、簡単には語れない。言葉に込める力の配分が難しく、練習中に腹に巻いたサラシが切れたこともあったそうです。僕の映画では、原作を大阪出身の作家富岡多恵子さんが訳し、さらに武満と僕とで整える形で脚色した。あれほど原作に忠実な姿で取り上げたのは恐らく、初演以降初めて。この上方言葉が、映画に強い力をもたらしてくれました。

 

あの映画ではもう一つ、「話し言葉」を音楽として効果的に使った箇所があります。それは冒頭のシーン。浄瑠璃の人形が出て来て、人形遣いが動きをチェックする映像が続くのですが、脚本の富岡多恵子さんと僕との会話が流れます。武満が≪心中天網島≫のための音楽素材をテープに入れて持って来た日の朝、いきなり求められ、リハーサルもなしに収録したんです。現実から虚構の世界に入り込むための、武満の工夫でした。

 

「流れ」を一貫設計

僕と武満は、合計16本の映画を作りました。最初の『乾いた湖』(1960年)から最後の『写楽』(1995年)まで、武満の中で変わらなかったことがあります。それは、「音と音楽は常に連続している」という考えです。

 

ドラマの中で、音が止まって沈黙が訪れる。でもそれは、西洋音楽の「休止符」では決してない。彼は頭から尻尾まで、作品全体を貫く音の流れを考え抜きました。1オクターヴが12の半音から成る西洋の音楽だけでなく、先ほど述べた話し言葉や足音、衣擦れ、雨や風といった自然の音など、「ノイズ」を含む全ての音を「音楽」と捉えたのです。そして貪欲に音を漁り、集め、作り、さらに加工を重ね、挿入の時機を慎重に計って音を入れたり、削ったりしたのです。

 

そうした彼の音楽は、まるでバッハの作曲したインベンションのように、僕の映像と2声のフーガを紡いだ。映像と音。この2つは近付いたり、離れたり。対決したり、寄り添ったり。はたまた浸食し合ったり。スクリーンの上に、思い掛けない効果を生んだ。予想できないコントラスト、「出会いの妙」が、彼との仕事にはありました。武満の映画音楽は、彼が大きな影響を受けた作曲家ジョン・ケージの唱えたチャンス・オペレーション(偶然性の音楽 ※3)の理論によって、かなりの程度、僕は説明が出来るように思います。

 

通常、武満が僕の映画向けの音楽を具体的に考えるのは、出来上がった映像のラッシュを見てからです。試写室の隣席で頬や額に光を受けていた横顔が、懐かしい。仕事を決める前にはシナリオを読んでもらってますし、僕が伝える俳優やロケの状況も勘案し、頭の中で構想を練っていたと思いますが、固めていくのはこの「儀式」の後でした。

 

『心中天網島』の試写の直後、彼は「曲は書かない」と明言しました。ドレミファソラシドの音楽は作らず、後で述べる世界の民族音楽や現実音の音源を使い、映画の音をデザインすることを決めたのです。「太棹(三味線)は使わない」とも言っていました。この映画で僕は、心中のドラマを導く存在として、歌舞伎や浄瑠璃で介添え役を果たす黒子(黒衣)を登場させました。武満にすればその映像に、ことさらに浄瑠璃を連想させる太棹三味線を使うのは、安易・陳腐に思えたのかもしれない。実際には、太棹の音もたった一箇所だけ入っているのですが、映像と測りあえる音色づくりにとことんこだわった、彼の創作の魂を見る思いがします。

 

武満と長く一緒に仕事をして、一つ言えるのは、映像の完成度が高いと、音楽を付けなかった点です。「絵の中に、音楽が詰まっているから、ここは要らない」というのです。だから音や音楽の量が少ない『処刑の島』(1966年)は、僕の中のベストムービー。武満は、僕の映画の最初の観客ですから、反応を見るのは嬉しくもあり、少し緊張もする瞬間でした。

 

「風姿花伝」を尊重

映画監督と作曲家。関係や仕事の在り方は、様々です。黒澤(明)さんのように、自分の映像に付ける音楽のイメージが極めて鮮明で、作曲家にもそれに添うよう求めるケースもあります。例えば『羅生門』(1950年)では早坂文雄にラヴェルの≪ボレロ≫を、『乱』(1985年)では武満にマーラーの≪大地の歌≫や≪交響曲第1番「巨人」≫を求めた。

 

でも僕は思うんです、「それは音楽家の迫害だ」とね。マーラーやラヴェルの音楽が欲しいなら、そのまま使えば良い。僕は、武満の音楽に注文を付けることはありませんでした。一緒に仕事をする以上、決して彼を裏切らない。それが僕の「倫理」でした。

 

僕が、自分は相当良い監督だったなと思うのは、俳優の起用が上手かったってことです。俳優や女優には皆それぞれ、個性的な姿かたちや身なり、声色や言葉遣い、語りの滑らかさといった、世阿弥風に言えば「風姿花伝」がある。役柄に応じ、少々の注文は付けることがあるにしても、彼らの日常、立ち居振る舞いまで変えることなんて出来やしない。むしろ個性を見極めて起用するのが僕らの役目です。

 

作曲家に対しても同じ。一緒に仕事をするって決めたら、そこから先はもう「何でも来い」とね。僕は元々、アナーキーなところがあるんです。武満と出会った頃の松竹大船撮影所には、セットや演技、音楽、ロケ先に至るまで、ある種の「ルーティン(紋切り型)」があって、それが嫌で仕方なく、将来に絶望していた。今さら先輩の小津(安二郎)や木下(恵介)、溝口(健二)の後塵を拝するわけにはいきません。戦争や敗戦を経て、僕らはもう、ベートーヴェンの音楽のようなヒューマニズムの世界には戻れないと思っていた。だから、何が起こるか分からない武満との協働に、ワクワクした。彼との仕事は「アバンチュール」だったんです。

 

『心中天網島』のラストシーンは、治兵衛の首括りです。そこに武満が付けたのは、トルコの笛と太鼓の、ある種凶暴なデュオでした。僕の映像と彼のテープを重ねてみると、音楽の方が早く終わってしまう。で、武満が言うんです。「なぁ篠田、この先の映像は要らないから、捨てちゃえよ」って。実はその後まだ、3分ほどのシーンが続いていた。ためらいが皆無だったと言えば、嘘になる。でも、切りましたよ。幻のフィルムが何処にいったのか、僕は分からない。

 

「原始の衝動」描く

『心中天網島』で武満はトルコの楽器のほかに、インドネシア(バリ)の民族楽器ガムランも使っています。こうした世界音楽の使用自体、日本の古典演劇向けの音楽としては極めて異色の組み合わせです。実際に使用したシーンは、映画で確かめていただくとして、なぜ彼はそうした西洋以外の文化圏の、プリミティヴ(原始的)ともいえる民族楽器の音色を選んだのか。

 

この演劇は、悲劇的でありながら、とても甘く、官能的です。それは、人間のヴァイオレンス(暴力)とエロスを一緒に扱っているからです。この二つの衝動は容易に結び付くもので、それはひとり、この演劇の舞台になった日本の近世に限らず、古今東西、すべての人類に共通なのではないか。つまり、人間に宿るプリミティヴな衝動を、武満はガムランやトルコの楽器を通して普遍的に表そうとしたのではないか。映画『心中天網島』について、「日本の民族意識を高揚する素晴らしい作品」と言う方も居るけど、とんでもない。武満は、あの音楽を僕の映像にぶつけることで、人類=世界に通用する表現を目指したのです。あの音は、偶然の出会いを準備するための「必然」でした。

 

僕の映画人生の中で、武満は「中性子」でした。彼の手になる音や音楽との出会いは、僕の映像に思いもよらない、宇宙的パースペクティヴをもたらし、映画をビッグバンへ導いてくれた。あれほど素晴らしい「他者」は、もう居ない。彼が世を去って、映画が心底「ユートピア」だった時代は、幕を閉じたのです。

 

(※1)『勧進帳』 歌舞伎の人気演目。源義経が、兄・頼朝に追われて加賀の国安宅(あたか)の関所を通過しようとする際、家来・武蔵坊弁慶の機転で難を逃れる。元禄時代、初代市川団十郎が初演。その後途絶えたが、天保年間に7世市川団十郎の弁慶で再興。能の「安宅」を下敷きにしている。

(※2)ラジオドラマ≪心中天の網島-らじお・いりゅうじょん≫ 1958年11月28日午後10時20分-11時05分、毎日放送。制作:毎日放送。音の素材:義太夫(野沢吉二郎)、太棹三味線(鶴沢絃二郎)、唄(王子おひろ)、三味線(藤本秀夫)、そのほか邦楽(福原鶴祐、玉藻会)、高音の金属製打楽器。キャスト:中村鴈治郎(紙屋治兵衛)中村扇雀(きの国屋小春)中村富十郎(おさん) =この項、『武満徹全集 第5巻 うた、テープ音楽、舞台・ラジオ・TV作品、補遺』 小学館出版局『武満徹全集』編集室編 2004年 から抜粋

(※3)チャンス・オペレーション 偶然性の音楽。作曲家が楽譜に音の高さやリズム、音の長さ、強度など音楽の構成要素を書き込まず、演奏者の任意の解釈や即興に委ねて、一回限りの音現象を音楽として取り入れる。楽音以外の幅広い音を使い、20世紀の芸術音楽に衝撃と大きな影響を与えた。ケージ(1912‐1992)はアメリカの作曲家。中国の易や日本の禅に影響を受け、偶然性の音楽を唱えた。