ピアニスト 松田康子さんインタビュー(下)

京で探る「音楽二都物語」

掲載日:2006年10月15日

▲ザルツブルクの、モーツァルトの生家の前で
(写真中央が松田さん)=1989年1月

関西ゆかりの優れたアーティストや舞台をザ・フェニックスホールが紹介する新しいコンサートシリーズ「Kansai Soloists & Ensembles(カンサイ・ソロイスツ・アンド・アンサンブルズ)」。12月8日(金)の初回公演を飾るのは、京都出身のピアニスト松田康子さん。1984年、巨匠セルジュ・チェリビダッケが指揮するドイツの名門ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団との共演を機に本格的な演奏活動に入り、以後ミュンヘンを軸に華々しいキャリアを重ねる一方、国際コンクールの審査や教育活動にも携わってきた。前回に引き続き、ピアニストとしての歩みや思い、昨秋から故郷にある京都市立芸術大学で後進の指導を始めた思いなどを話してもらった。      
(聴き手 ザ・フェニックスホール谷本 裕)
 
――チェリビダッケとの共演の後、忙しくなったことでしょう。 

▲ザルツブルクの、モーツァルトの生家の前で
(写真中央が松田さん)=1989年1月
 
芳しい批評も載ったし、出演依頼は確かに増えたわ。ベルリン、ザルツブルク、ライプツィヒ-といったドイツ語圏だけでなく、フランスやイタリアからも招かれるようになった。当時、30代なかば。体力も気力もあり、目の前に開ける道を、精一杯歩もうとした。演奏会の準備をして、本番に立って、また準備して。無理をした気はないけど、今振り返ると、毎日が夢中だった。 

 
――89年1月、ザルツブルク音楽祭『モーツァルト週間』でウィーンフィルとも共演されています。
 
プログラムは、モーツァルトの協奏曲(第21番ハ長調K467)でした。出演が決まった後、主催者からスコア(総譜)が送られてきたのです。こういうことは初めてでした。指揮はレオポルト・ハーガー(※1)。モーツァルト演奏で定評がありました。私、ウィーンフィルの演奏を聴衆として聴いたことがなく、いきなり共演だったんです。覚えているのは、オーケストラの音色。温かくて柔らかくて、「艶(つや)」は噂通り。本番で、オーケストラの音色にすっぽり包み込まれるような不思議な体験をしたんです。「音の森林浴」とでも言うのかしら、こんもり茂った森の香りに安心して身を委ね、音楽に集中できた。それとザルツブルクの祝祭大劇場はとても広く、大喝采の中、舞台の袖から中央部に置かれたピアノに辿り着くまで、距離がとても長く感じられた。終演後は、「ゴルデナー・ヒルシュ」(※2)でご馳走になりました。

 
――その後も多くの名門オーケストラ、名指揮者たちとの舞台が続きます。
 
いま東京交響楽団でも活躍しているユベール・スダーン(オランダ出身。1946‐)とは、ザルツブルクのモーツァルテウム管弦楽団の公演で共演しました。もう亡くなってしまったけれどスイス出身のペーター・マーク(1919‐2001)はとっても優しい、気さくなお爺ちゃんでした。公演に招かれる時は、モーツァルトを依頼されることが増え、「モーツァルト弾き」と言われるようになった。当時、ドイツで活動を目指す音楽家は古典派を避け、近現代、特にロシアやフランスなどの作品でキャリアを目指す傾向があった。でも、私にはチャイコフスキーやラフマニノフの超絶技巧作品は向いていない。舞台経験を積むうち、モーツァルト、ベートーヴェンといった古典派、あるいはシューマンやシューベルトといったロマン派の作品を、じっくり作り上げるのが性に合っていると思うようになった。日本人の私が、古典派やロマン派の本場ドイツで評価を得られたことは嬉しかったし、誇りにもなった。お陰でいろんな舞台で、多くのマエストロから勉強させてもらえました。

――松田さんの「武者修行時代」でしたね。

 日本ではあまり知られてないけれど、ヨーロッパには良いオーケストラがまだまだある。イタリアのパドヴァ・エ・ヴェネト室内管弦楽団、旧東ドイツのイエナ・フィルハーモニー、若き日の作曲家マーラーが一時、音楽監督を務めたカッセルの立歌劇場のオーケストラ…。共演した公演、一つひとつが今も印象深い。でも、いつも上手く行った訳でもない。ライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団と共演した時の大家の指揮は、力づくでねじ伏せるようなところがあって弱ったものでした。音楽家も人間だから、やっぱり「相性」ってある。人として関係がしっくりいくと、演奏も楽しい。その点、気の合う仲間数人で奏でる室内楽は、オーケストラとは違った魅力がある。

――今年も春以降、フランスやイタリアで室内楽の演奏旅行を何度かなさいましたね。室内楽はいつごろから?
 
確か、私がソロで活動を広げ始めたころから、共演するようになったと思う。ミュンヘンのバイエルン放送交響楽団でコンサートマスターをしている(フロリアン・)ゾーンライトナーとは、気がついたら一緒に演奏していた。ミュンヘン音大時代からの知り合いで、私が学内のオーケストラとシューマンの協奏曲弾いた時もコンマスでした。彼は室内オーケストラも主宰していて、バイエルン州の小都市によく日帰りで演奏に行きました。最近、デュオを組んでいるのが、ピエール・オマージュ。仏マルセイユを拠点に活動するヴァイオリニストです。こうした仲間と一緒に過ごす時間は、貴重。普段は、自分では気付かない面を、教えられることがありますね。

――と言うと?
 
例えば、私は演奏家として、準備にかなり時間を費やすタイプらしい。演奏旅行で室内楽の仲間と一緒に過ごしていると、「ヤスコ、練習し過ぎだ。もう十分じゃない?」なんて言われることがある。室内楽作品の場合、弾かなきゃいけない音の数は大抵、弦楽器や管楽器に比べ、ピアノが一番多い。さらわなくてはならないのは宿命なんです。

――仲間からでさえ見えづらい面が、あるものですね。
 
皆さんが思うようには、作品ってなかなか思うようには仕上がらないものなのよ。デビューから20年以上経つけれど、本番というのは、今もやっぱり緊張する。少々ミスがあっても、経験が演奏の質を支えてくれるので、有り難いとは思うけれど、頼っていたら、演奏は精彩を欠く。だから常に指を訓練し、曲や作曲家を勉強したり、練習であれこれ工夫したり。一見ボンヤリしてるようにしか見えないかもしれないけれど、無心に考える時間も絶対に必要なんです。

――ピアニストの中には、お客様の心を「征服」することに喜びを感じるソリストもいるようですが、松田さんは。
 
そんな風に感じたことは一度も無い。古典派の作品は技巧の力で聴衆を唸らせることは、少ないからかも。でも「今日は聴衆の心に入っていけたな」って、幸せな気分になることは時折ある。「スポットライトや喝采を浴びて、本当に良いわね」と、羨ましがられることも多いけれど、ほんの一瞬の事。この仕事は、常に自分と賭けをしてる面がある。続けていると、「辛いなぁ」と思うこともあるもんです。

――ピアノを止めようかと思ったことは?
 
うーん…(間)。まだ、ないですね。「この本番で"お上がり"にしよう」なんて思うことはあるんだけど、実際には一つ終わると、次の仕事が待ってるわけですし。本番が終わった夜くらいはゆっくりするけど、翌朝にはまた何か新しく準備を始めないと、落ち着かない。音楽は、私に生きるエネルギーを与えてくれる。こんな幸せな人生は、なかなか無いのに、「苦しい」なんて言うのは、罰当たりかもね。

――そうした演奏活動の一方、音楽学校や夏の講習会などで、教える仕事にも携わっておられます。
 
 ミュンヘン近郊のアウグスブルク音楽院で常勤教員を11年間務めたあと、地元のリヒャルト・シュトラウス音楽院で教え始めたのは1990年。こちらも常勤で毎週10時間以上の割合で教えてきました。講習会やレッスンはフランスやイタリア、もちろん日本でも。一昨年はニューヨークでも教える機会もあった。演奏と教育に携わって来たけど「自分はまだやっていないことがある」という気が膨らんできた。ずっとヨーロッパで生き、学んできた。自分が身に付けた音楽を、日本の若い人たちに伝えなきゃいけないんじゃないか、と。

――それが故郷の芸大で教えるきっかけに?
 
10年越しで誘われたことは大きいと思う。私自身の中にも「人生、冒険しなければいけない」という思いがあった。私は、日本人なのに日本のことをあまり知らないし、故郷で若者に音楽を伝える中で、何か自分も得るもの、学べるものがあるに違いない。本能的にそう感じるの。

――住み慣れたミュンヘンと京都の間を往復する生活は心身とも、大変でしょうね。
 
昨年、京都芸大の近くに家を借り、どんな生活がつくれるか、暫くは体当たりで模索してます。京都は故郷ながら、実は殆ど未知の町。住んでみて、短期の里帰りでは見えなかったことが少しずつ見えてきた。日本の生活、物の見方・考え方は、私には「異文化体験」で、ヨーロッパ人の感覚でそれを味わい、時に戸惑っている自分に気付く。いま京都にいる時は、殆ど教えてばかり。逆にミュンヘンに戻ると、仲間と演奏であちこち飛び回ることが多い。今後は京都、ミュンヘンの双方で、演奏・教育のバランスがとれたコミュニティを築きたい。関西の演奏家の方々と室内楽をしてみたいし、ミュンヘンの仲間にもこちらに来て欲しい。ただ二つの町を頻繁に行ったり来たりすることは、どちらの町も自分の"逃げ場"にする危険もある。新しい生活を軌道に乗せられるかどうか、結局は人との出会いが決めるんじゃないかな。

――その意味でも、12月の公演は大切ですね。最後に選曲について話してください。
 
今回、モーツァルトとシューベルトでプログラムを組んでみました。今年はモーツァルト没後250年の節目でもありますしね。彼の「ソナタ第8番イ短調K310」は、彼のピアノソナタの中では珍しい、短調の作品。彼の母親の死のころに書かれていて、憂いや翳(かげ)りが盛り込まれている。これと対になるのが、同じモーツァルトの「ソナタ第10番ハ長調K330」。第8番と同じころの作品ですが、飛び跳ねるような軽妙さが特徴的な、内容豊かな作品です。それから、シューベルトの「3つの即興曲D946」ですが、私、シューベルトの作品も大好きなんです。特に歌曲の、独特の歌い回しに魅力を感じるし、東洋でいう「無常」を思わせる死生観も感じられる。そのシューベルトの遺作のハ短調ソナタをメーンに据えています。ここでは切羽詰った、劇的な内容を感じていただけたらと思っています。最初のモーツァルトの「ソナタ第10番」と、最後のシューベルトの「ソナタハ短調」とは、作曲年代の上では50年もの差があり、二人ともオーストリア人でありながらも作曲の舞台はパリとウィーンと、離れています。そんな時空の違いが醸す差や類似点を、比較・対照していただくのも面白いんじゃないかしら。
(終わり)

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(※1)レオポルト・ハーガー(1935-)
オーストリアのザルツブルク生まれ。生地の音楽院で学んだ後、リンツやケルンの歌劇場を経て、フライブルクの音楽総監督に。69‐81年ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団首席。モーツァルト作品の専門家として欧米の楽団に客演を重ねるほか、ルクセンブルク放送響の首席として活躍。

(※2)ゴルデナー・ヒルシュ 
1407年開設の、ザルツブルクの名門ホテル。「黄金の鹿亭」と訳される。旧市街の目抜き通り「ゲトライデガッセ」に面し、モーツァルトの生家にも近い。社交場として有名で、ザルツブルク祝祭(音楽祭)の期間中は音楽家・俳優らが利用することで知られ、指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)も30年にわたり、定宿としたといわれる。
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松田康子(まつだ・やすこ) 
京都出身。13歳で大阪フィルハーモニー交響楽団と共演。京都市立堀川高校音楽科から東京芸術大学、同大学大学院に学ぶ。伊奈和子、土肥みゆき、田村宏、永井進、園田高弘の各氏に師事。73年渡独。ミュンヘン音大でローズル・シュミットに師事。国家芸術家試験に最優秀賞で合格。78年ヴィットリオ・グイ室内音楽コンクール入賞。84年セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘンフィルとラヴェル「ピアノ協奏曲」で共演、キャリアを本格スタートさせる。88年ベルリン・フィルハーモニーホールでのモーツァルト・ピアノ協奏曲ツィクルス(コンラート・ラッテ指揮)に起用される(90年・94年・96年も)。89年ザルツブルクのモーツァルト週間でレオポルト・ハーガー指揮ウィーンフィルと共演したのをはじめ、ポーランド室内管弦楽団、北ドイツ放送響とも共演。91年若杉弘指揮ミュンヘンフィルとベートーヴェン「ピアノ協奏曲第3番」を、また94年にはライプツィヒのゲヴァントハウスで中央ドイツ放送響とリヒャルト・シュトラウスの「ブルレスケ」を演奏。同94年にはマルク・アンドレーエ指揮のハイドン・オーケストラとイタリアとオーストリアを演奏旅行した。96年ミュンヘンの野外コンサート「アメリカのクラシック音楽」公演でライザ・ミネリと共演、ガーシュイン「ラプソディ・イン・ブルー」を演奏。99年イタリア・ミラノのヴェルディホールでリサイタルを開催。2001年にはミャンマー文化庁と日本大使館の招待を受け、首都ヤンゴンでリサイタルを開いた。このほかにもザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団、イエナ・フィルハーモニー管弦楽団、パドヴァ・エ・ヴェネト室内管弦楽団、カッセル州立管弦楽団、バッハ・コレギウム・ミュンヘンなどの公演に招かれている。ペーター・マーク、カール・エステルライヒャー、デヴィッド・シャローン、ユッカ=ペッカ・サラステ、ユベール・スダーン、朝比奈隆、小泉和裕といった著名指揮者との共演も多い。リサイタルソリストとしてミュンヘンのヘラクレスザール、モスクワのスクリャービン博物館などに登場。室内楽にも積極的に取り組んでおり、バイエルン放送響コンサートマスターのフロリアン・ゾーンライトナー、州立歌劇場管弦楽団首席チェロ奏者ペーター・ヴェットケ、バイエルン放送響元首席フルーティストのアンドラーシュ・アドリアンらとしばしば舞台を共にしているほか、近年はフランスのヴァイオリニスト、ピエール・オマージュと共演を重ねており、2006年8月にはルブリアーナ・フェスティバル(スロヴェニア)はじめ、フランスやスペインの音楽祭に招かれている。ブゾーニ、カサ・グランデ、ポルト、ポッツォーリ、サンレモ、アンドーラ、ピネロロなどの国際ピアノコンクール、トリオ・デ・トリエステ室内楽、ヴィットーリオ・グイといった室内楽コンクールの審査員を務める。ミュンヘンのR・シュトラウス音楽院で教鞭を執る。2005年10月から京都市立芸術大学助教授として活動。京都にも居を構え、日欧双方で演奏活動を展開している。