ピアニスト 松田康子さん インタビュー(上)
ミュンヘンで「独り立ち」
掲載日:2006年9月22日
ザ・フェニックスホールは2006年度、関西ゆかりの優れたアーティストや舞台を紹介する新しいコンサートシリーズ「Kansai Soloists & Ensembles(カンサイ・ソロイスツ・アンド・アンサンブルズ)」を始める。12月8日(金)夜のシリーズ第1回公演に出演するのは、京都出身のピアニスト松田康子(まつだ・やすこ)さん。巨匠チェリビダッケ(文末注※1)指揮するドイツの名門ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会の独奏者として本格的なキャリアをスタートさせ、以後、欧州を軸に華々しいキャリアを築いてきた。まさに関西から「世界」に羽ばたいた実力派の一人だ。ドイツ在住は既に33年に及び、欧州での盛んな演奏や教育の一方、昨秋から京都市立芸術大学で後進の指導を始めた。故郷での活動展開に意欲を燃やす松田さんに、これまでの歩みや公演に向けた思いを語ってもらった。2回にわたり、紹介する。 (聴き手 ザ・フェニックスホール谷本 裕)
ドイツでの歩みを語る松田さん
(京都市西京区の自宅で)
――松田さんがドイツに留学したのは1973年。ドイツを選んだのはなぜ。
ミュンヘン音楽大学のローズル・シュミットに師事するためでした。彼女は18歳でフルトヴェングラー(※2)と共演するほどの才能でしたが、舞台で上がってしまうタイプで、早い時期にコンサートから身を引き、教育に打ち込むようになったんですね。私が、最初にピアノを習った大阪の伊奈和子先生が彼女の弟子で、紹介を受けました。留学前、東京芸大で就いていた永井進先生や田村宏先生がドイツで学ばれた方々だったことも、大きく影響していると思います。私はプライベートで園田高弘(※3)先生にも師事していたんです。ちょうど園田先生がドイツはじめ欧州で盛んに演奏をされていた頃で、レッスンでは"本場の薫り"を感じ、「自分も、西洋音楽の生まれた場所で勉強をしたい」と思ったんです。地図を広げてみると、ミュンヘンは欧州の中心にある。留学中の友達があちこちに居たので、動き回るには都合が良いかな、とも思っていました。
――そのころから活発な女性だったんですね。
そうでもないんです。私、幼い頃は体が弱く、性格も大人しかった。京都の堀川高校(音楽科)時代の私については、周囲から期待してくださる方が多かったようですし、家では本当に真面目に練習を重ねていました。でも授業は、熱を出しては休むことも多かった。それと、とても無口でしたね。でも、芸大に入ると東京で一人暮らしをすることになりました。周囲には「演奏活動で月100万円も稼いでいるらしい」なんて噂に上る先輩もいて、「ふーん、人生いろいろだなぁ」なんて思うようになってきたんです。家庭の事情もあって、経済的には殆ど自活していたので、少しずつ逞しさは身に付けていたんでしょうね。親にも反抗するようになり、大学院を終える頃は、ほぼ断絶状態になっていました。留学も自分だけで決めて、実家に戻ってドイツ行きを伝え、3日後に飛行機に乗り込みました。
――まさに「翔んでるピアニスト」だったんですね。どんな留学生活だったんですか。
生涯で一番勉強したのは、あの頃だったのかもしれない。ローズル先生の指導を受け始めて間もなく「あぁ、自分は何も分かっていなかったんだ!」と痛感したんですよ。もちろん、日本で音楽の、特に技術的な基礎は身に付けていた積もりだし、中高生のころに既に幾つかのコンクールでトップになって、自負もありました。でも、ローズル先生のレッスンで初めて「音楽の意味」がテクニックと結び付いていることの重さが、身に染みて分かった。彼女は、欧州で連綿と受け継がれてきた芸術音楽の系譜を引いている。私もその一端に触れた訳です。芸大時代も結構、周囲から期待されていたんですけど、正直なところ、音楽以外に気を取られて過ごすこともあった。でも留学してからは、自分がなぜ学ばなくてはならないかを悟って、猛烈にさらいました。当時、住んでいた家では夜や日曜、祭日はピアノが弾けなかったので、限られた時間でいかに課題をこなすか、いつも一生懸命に模索していました。今と違って古今の名手の演奏をCDなどで手軽に聴くなんてことはできませんでした。先生の指導を踏まえ、一つ一つの音符の意味を自分自身で考えて、考えて、考え抜いてレパートリーを少しずつ広げていったんです。最近、よく思うんです。勉強をしている時期っていうのは、適度にお金がなく、適度に情報が少ない方が良いかなって。音楽は、自分の中から湧き出てくるもの。名手たちの録音を聞いて学ぶのは良いけれど、最近はお気に入りの演奏を繋いだパッチワークのような演奏を耳にすることもある。物質的に恵まれているのも、ちょっと考え物かもしれないわねえ。
――勉強以外の時間は、どう過ごしていたんです?
留学後、暫くすると心身ともいよいよ逞しくなってきて(笑)、名物のビールやワインも少しは飲めるようになったし、欧州流に言葉で自己主張することも覚えた。時には、思い切り遊ぶようにもなりました。一人の人間としての基礎をつくったのは、間違いなくこの時代のミュンヘンで、です。町は元々、バイエルン王国の首都。ヴァーグナーを支援した国王ルートヴィヒ二世は、日本でも有名ですよね。そんな歴史を映してか、芸術を尊ぶ風土がある。大都会ベルリンなど何するものぞ-という気質が強く、似たような面がある京都出の私には水が合ったのかも。町には国際的に評価の高い州立歌劇場があり、当時はサヴァリッシュ(※4)の全盛時代です。友人とオーケストラピットに潜り込んで、臨場感溢れる「音楽の現場」を味わうのが楽しかった。今をときめくリッカルド・ムーティの指揮で(ヴェルディの)≪アイーダ≫を体験したのも、ピットの中でした。同じバイエルン州の小都市で夏、開かれる「バイロイト音楽祭」には何度も足を運び、オペラを堪能しました。地元のオーケストラの中では、クーベリック(※5)率いるバイエルン放送交響楽団がお気に入りでした。音楽以外だと、カンディンスキーのコレクションで知られるレンバッハ美術館に通ったものです。クラナッハやデューラーの作品を収めたアルテ・ピナコテーク、ゴッホの『ひまわり』はじめ、ゴーギャン、クリムトといった近現代の作家の作品を収めたノイエ・ピナコテークは今も昔も、大好きな場所です。
――楽しい毎日だったんでしょうね。
それはまあ、青春時代ですから。でも私、人よりは苦労して勉強してたんじゃないかしら。留学費用は、芸大時代のアルバイトで得た資金を充てていたけれど、ドイツの奨学金も受けていました。州立バレエ団の練習ピアニスト(コレペティトゥーア)をし、生活の足しにした時期もあります。ここはプリマ・ドンナのコンスタンツェ・ヴェルノンがリーダーでした。弾くのは、普段自分で練習しているピアノの独奏作品とは全然違う。ヴェルノンはとても厳しく、マゴマゴしてると怒鳴りつけられたものでした。
――そうこうするうち、学生時代が終わる。。。
国家試験で演奏家資格を取りましたし、大学院も無事修了しました。暫くすると、ミュンヘンから西に80㌔ほど離れたアウグスブルクにある音楽院の常勤講師の口が見つかった。モーツァルトの父レオポルトの出身地で、小じんまりした静かな町です。週2回通勤しながら、少しずつ演奏活動を始めた。最初はミュンヘン近郊の保養地とか教会とか、小さな会場でのリサイタルが多かったんですが、フランクフルトやブレーメンの放送局からお仕事を頂いたりするようになり、少しずつ仕事が広がっていきました。
――そして、あのチェリビダッケとの共演がやって来る。
留学当初のミュンヘンフィルは歴史は古いけれど、バイエルン放送響に比べると、地方の、少し野暮ったい感じのオーケストラでした。でも、チェリビダッケがGMD(総音楽監督)に就任して、ブルックナーの交響曲などを繰り返し取り上げるうち、グングン洗練されていったんです。彼は、体もですけど、創り出す音楽が桁外れに大きかった。ミュンヘンフィル本拠のヘラクレスザールで、彼の指揮するバルトークやプロコフィエフを聴くうち、ゆったりしたテンポで作品の細部まで彫琢する個性に夢中になりました。「共演するならゼッタイ彼だ、そうだ、この人しかいない!」とまで思うようになった。伝手を頼るうち、知人が楽団事務局の方に話をしてくれ、幸運にも「フォアシュピール」させてもらえることになった。御前演奏、つまりは個人的なオーディションです。用意して行ったのは、ラヴェルの「鏡」と、ベートーヴェンの「ソナタ第32番ハ短調作品111」、それとモーツァルトの何かだったと思います。会場に入ると、いつもは舞台の上でミュンヘンフィルの団員を貫いている鋭い眼が、真っ直ぐ私に注がれている。それまで彼は遠くから仰ぎ見る存在でしたから、体が熱くなるようでした。一心にラヴェルを弾いたら、彼が「スゴイ」って言ってくれたんです。「素晴らしい才能だ」って。もう天に昇る気持ちでした。その場で翌84年10月の定期演奏会での起用が決まり、ラヴェルの協奏曲を弾くことになったんです。
――万全の準備をしたことでしょう。
この作品は、まだ人前で弾いたことがありませんでした。もし突然、彼が現われて「ヤスコ、弾いてみろ」なんてことになったら大変です。他の仕事もありましたけど、懸命に弾き込んだのを覚えています。本番までに一度、打ち合わせがありました。第2楽章にピアノと木管楽器の歌心に満ちた掛け合いがとても美しい箇所がある。練習の時、「音楽の高揚が頂点に達したら、同じ時間をかけて減衰していってほしい」と言われたのが印象に残りました。彼の時間感覚は実にユニークで、生前、自らの演奏録音の発表を認めなかったのも、そうした彼の哲学が許さなかったんですね。指揮をしている時のチェリビダッケは実に厳しく、妥協を許さない独裁者。でも、食事やサーカスに行くと、大きなヤンチャ坊主という感じで、無邪気にはしゃぐ。大食漢で、テーブルがお皿で文字通り溢れかえりました。
――コンサートはどうでしたか。
本番の一ヶ月ほど前になって親指が痛くて動かなくなったんです。よっぽど練習し過ぎたのかしらね。お医者の勧めで、暫く休養を取りました。本番が近付いてくる中、焦る気持ちが全く無かったというと嘘になるけれど、「災い転じて福となす」‐というか、心身共に英気を養うチャンスにし、「初日」を迎えたんです。ミュンヘンフィルの定期演奏会は、一種類のプログラムにつき、4回の本番がありました。しかも、すべてが満員になるんです。素晴らしいでしょう? 朝、楽団からアウディのリムジンが家まで迎えに来てくれたことは覚えてますけど、演奏中のことは夢中で、何も覚えてないですね。。。ただ、終演後、チェリビダッケが「今日の2楽章は、ミケランジェリ(※6)の演奏より素晴らしかったヨ」ってウインクをしてくれたんです。この話、今まで人にしたことはなかったんですが、私にとっては生涯忘れない、称賛の言葉です。本当に嬉しかった。ホールを出て、友人たちと打ち上げに出掛けましたよ。あの夜のビールの味、忘れないわ。(続く)
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(※1)セルジュ・チェリビダッケ(1912‐96)
ルーマニア出身。パリで学んだ後ベルリンに移り、大戦後の47‐52年、ベルリンフィル首席指揮者。その後ストックホルムやシュトゥットガルトの放送交響楽団などで常任指揮者を歴任し、79年ミュンヘンフィル総音楽監督に。妥協を許さない厳しい指導で知られ、ブルックナーの交響曲や、ロシア・近代フランスの管弦楽作品などで独自の境地を拓いた。毒舌家で知られたが、禅をはじめとする日本文化にも造詣が深い学者肌の巨匠だった。死後10年を経た今もファンは多い。
(※2)ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)
ドイツの指揮者。ライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団、ベルリンフィルの常任を務めたが、第2次大戦後、ナチスドイツへの協力を糾弾され一時活動を休止。その後ウィーンフィルやウィーン国立歌劇場、バイロイト音楽祭などで活躍。19世紀のドイツロマン派音楽の系譜を継ぐ巨匠として親しまれた。
(※3)園田高弘(1928-2004)
ピアニスト。東京出身。東京音楽学校(現東京芸大)を経てベルリンで学ぶ。54年初来日のヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のN響と協演。翌55年、ベルリンフィル定期に招かれるなど内外で活躍する一方、武満徹らと芸術家集団「実験工房」を設立するなど現代音楽の紹介に努め、後進の指導にも情熱を注いだ。
(※4)ヴォルフガング・サヴァリッシュ(1923-)
ミュンヘン出身。アーヘン、ヴィースバーデン、ケルンなどの歌劇場で経験を積み、34歳でバイロイト音楽祭デビュー。71年バイエルン州立歌劇場音楽監督。交響楽・管弦楽の指揮でも知られウィーン響、スイス・ロマンド管、フィラデルフィア管などを率い、名演を残す。N響桂冠名誉指揮者。
(※5)ラファエル・クーベリック(1914-96)
チェコ出身。プラハ音楽院卒業後間もない34年、チェコフィルでデビュー。36年同楽団常任となる。ブルノ歌劇場音楽監督の後再びチェコフィル常任になるが48年チェコの共産化に反対し英国亡命。61-79年バイエルン放送響音楽監督として一時代を築いた。シカゴ響、メトロポリタン歌劇場でも活躍。
(※6)アルトゥーロ・ベネディッティ=ミケランジェリ(1920-95)
イタリアのピアニスト。ミラノ音楽院で学んだ後、一時医学を志す。39年のジュネーヴ国際コンクールで優勝。第2次大戦に従軍し戦後カムバック。透き通るような音色と完璧な技巧で、名声を築いた。チェリビダッケ共々、録音嫌いとして有名。「キャンセル魔」としても知られた。
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