打楽器奏者 山口恭範さん・吉原すみれさん夫妻インタビュー
「始原の音」を追い求めて
掲載日:2006年9月1日
今年は世界で最も知られた日本人作曲家・武満徹さん(1930-96)の没後10年。ザ・フェニックスホールは9月13日(水)夜、彼の室内楽作品を集めたレクチャーコンサート「意識された空間」を開く。20世紀以降に生まれた音楽の楽しさを講演と生演奏で皆様にお伝えするレクチャーコンサート新シリーズ「20世紀音楽」の幕開け公演。今回は作曲家・大阪教育大学助教授の猿谷紀郎さんを講師に招き、武満の作品に聞かれる独特の「音の響き方・響かせ方」を考える。その一例として公演では、かつて大阪万博で初演された4人の打楽器奏者のための≪四季≫が取り上げられる。お弟子2人と共に演奏に臨む山口恭範(やすのり)さん・吉原すみれさんのご夫婦を横浜のご自宅に訪ね、青年期からの交流を通じ親しんだ武満さんの音楽観や、「響き」についての考えなどを聞いた。
(聞き手:ザ・フェニックスホール谷本 裕)
――武満さんとのお付き合いはいつからですか。
山口:1960年代の半ばです。僕は学校(東京芸大)を出た後、暫く欧米で修業し、東京でフリーランスの仕事を始めた。N響や日本フィル、東京交響楽団などのリハーサルや本番を毎日のように掛け持ちし、その合間に放送局やスタジオで録音の仕事もこなしていたんです。武満さんの書いた映画音楽や放送向けなどの音楽を頼まれて演奏するうち、ご本人と知り合ったんですね。間もなく、彼のコンサート作品も手掛けさせてもらうようになりました。
吉原:私も、映画でご一緒したのが最初です。(東京芸大)大学院1年の時、ジュネーヴのコンクールに優勝し、ヨーロッパで仕事をして帰って来た時、恭範さん(夫の山口さん)に誘われたんです。恭範さんは学校の先輩で、それまでもオーケストラの賛助出演などのアルバイトを紹介してもらったり、演奏のアドバイスをもらったりしていました。この仕事は「青幻記」(1973年、成島東一郎監督作品)の録音。確か、暮れに早稲田のスタジオで収録があり、初めて徹さん(武満さん)に会いました。高校時代、音楽鑑賞で≪弦楽のためのレクイエム≫(※1)を聴いてましたし、学部時代も万博で≪四季≫の初演に接したりして尊敬してましたから、会えて嬉しかったですね。
元気だった頃の武満さん(左)と、吉原さん・山口さん
=1980年代、東京・渋谷
――お客さんとして、≪四季≫を実際、聴いたんですね。
吉原:1970年、大学2年の時、大阪万博に出掛けていったんです。8月、暑い最中でした。会場は「鉄鋼館(※2)」。ホールといっても、今のクラシック専用とは違い、体育館みたいな造りでした。徹さんがここで「今日の音楽」っていう音楽祭を企画し、世界の現代音楽を紹介していたんです。自作を初演するにあたり、恭範さんに声を掛けたんですね。当日は不思議な楽器をいろいろ使ってました。特注の「楽器彫刻」(※3)です。例えば金属の板にガラス棒が埋め込んであって、濡れた指でガラスをこすると、華奢で透明な音が、ふわーーーーっと会場に広がっていくんです。
――≪四季≫は本来、打楽器奏者4人が会場の四隅に分かれて陣取り、聴衆を囲んで演奏する作品ですが、この折は2人で演奏されたそうですね。
吉原:確かに本番に出て来たのは、恭範さんとマイケル・ランタの2人だけでしたね。とっても静かな曲だった印象があります。
山口:それには訳があるんです。ランタは万博のドイツ館で別作品を毎日のように演奏していた。僕も1週間前に関西に入り、カナダから来る予定のロビン・エンゲルマンとジョン・ワイヤーの2人を待ちました。ところが全然、現われない。事情で渡航できなくなったんですね。でも「新作初演」は予告済み。残る2人で演奏せざるをえなかったんです。
この曲は元々、静かな作品ですが、リハーサルもなく、4人向けの曲を2人で演奏した訳ですから、静けさが更に目立ったことは確かです。翌71年、ツトム・ヤマシタ(※4)らと本来の形でレコーディングしました。いま譜面を見るとこの曲は、独りでも、3人でも2人でも演奏できることになっていますけれど、実はこの時、ツトムが「自分独りでも演奏できるよう、残り3人分をテープ録音してくれないか」と、頼んできたので、武満さんに了解を得、皆で作ったのが始まりです。
吉原:徹さんの生前から、打楽器以外の楽器と組んで演奏することもあったわね。例えば、打楽器2人と琵琶と尺八と。雅楽の笙と篳篥(ひちりき)と組んだこともある。
――打楽器向けの曲でしょう? 意外ですね。
山口:文化庁の派遣で海外演奏に行く時などにリクエストが出るんです。日本伝統音楽の雅楽や邦楽の演奏家と一緒になることが多いので、打楽器4人ではなく彼らと合奏するように頼まれる。ヨーロッパの教会などで"混成バージョン"をよくやりました。でも武満さんは本来の姿を望んでいました。あの曲は、「音楽」以前の「音」や「響き」に立ち返ることの大切さを込めた作品です。楽譜の指示に従い、演奏家が即興で音を出さなくてはならない。打楽器は音色や響きのみで演奏を組み立てられるのですが、別の楽器で演奏すると節(メロディ)が多くなってしまう。武満さんにしてみれば、自作が演奏されるのは嬉しいけど、痛し痒(かゆ)しだったんじゃないかな。
吉原:亡くなる前年の95年の秋、明治神宮で野外演奏の本番があったんです。療養中の徹さんが一時退院していて、聴きに来てくれました。メンバーは琵琶の田中之雄さん、尺八の三橋貴風さんと、私たち夫婦でした。終わったあと、「この編成、ベストメンバーだね」って言ってくれました。その後も何度か、このメンバーで演奏しました。勅使河原宏(てしがはら・ひろし ※5)さんの総合演出で、徹さんの追悼公演「花舞台」が広島・宮島の厳島神社で執り行われた時も一緒でした。海上の能舞台は、女人禁制。私は確か、回廊で演奏したんです。
――この曲は、武満さん初の打楽器作品でした。その後は、今公演でも演奏される≪ウェイヴズ(波)≫や、お2人が初演された≪雨の樹≫、また≪雨の呪文≫や≪クロス・ハッチ≫など打楽器のためのいろんな作品を80年代のはじめまで書いています。打楽器が好きだったんでしょうね。
山口:この頃は、多くの作曲家が打楽器音楽というものに注目し、様々な試みがなされていました。でも、武満さん自身が「音色」に、こだわっていたことが大きいと思います。彼は、西洋音楽を学びながら西洋から距離を置き、もっと広く地球や宇宙を見据え、創作を目指していました。明治以来、「クラシック」として親しまれてきた音楽は、地球全体でいえば、ごく一部の、ヨーロッパ地方の近代芸術。現実には、それ以外の地域の方が圧倒的に広いし、歴史的にもそれぞれ豊かな音楽を持っている。武満さんはそんな地域の打楽器も駆使して、西洋を見詰め直そうとしていた。演奏の時は「きれいな音」は、もちろんだけれど、「汚い音」もないとダメ、とよく言われました。
――晩年、武満作品を評する際に使われた「タケミツ・トーン」という言葉には、ひたすら美しく透き通る音のイメージが強いですが、これとは違った音色を追求した時期もあったのですね。
山口:例えば、武満さんには「秋庭歌一具」という雅楽のための曲があります。ある雅楽団体が演奏したんですが、本番の後「ちょっと奇麗過ぎるかな。弱っちゃった」と仰っていました。メンバーは音大を出た者も多く、西洋音楽の世界で言う「耳が良い」人が多い。何人かで同じ旋律を演奏するパッセージも皆、ピタリ音を揃えるから透明な音になる。それが不満だったんですね。彼は邦楽でいう「サワリ」、ある種の「濁(にご)り」や「翳(かげ)」が好きでしたね。それと、自然の音を愛していました。
今でも忘れられないのは、軽井沢で武満さん夫婦と僕らとで徹夜マージャンをした時のことです。夜が明けて、林の中のツグミが次々にさえずり始め、鳴き声が渾然一体、素晴らしい響きになって、あたり一面を満たした。大人4人が手を止め、聞き惚れていると、娘の眞樹ちゃんが「ねぇお父さん、あんな曲書かなきゃ」って言ったんです。腕組みして一心に耳を澄ましていた武満さんが、「うん。僕も本当にそう思うよ」って仰った。その声が、今も僕の心に残っています。自然の音に感動し、それがいかにパワフルなものであるか、人一倍感じ取っていたんですね。水、波、風-。彼は自然や、それらが紡ぐ音たちを心から慈しみ、西洋音楽の世界の音に置き換えて響きを醸し出そうと、ずっと心を砕いたんです。
武満さんとの交流を語る
山口恭範さん・吉原すみれさんのご夫妻
=8月4日、横浜市港南区の自宅で
吉原:徹さん、水の音が本当に好きだったわね。水槽に鈴(りん)を浮かべ、撥で叩く。水が揺れ、エコーがかかって不思議な音が消えていくのを、じーっと聞いていた。
山口:生の水音もね。水を水槽に入れ、手ですくって零(こぼ)れ落ちるのを、そのまま使った作品もあった。「生きている音」に、惹かれていたんだと思う。
吉原:それと、時間の感じ方も特別だった。西洋の古典なら、皆が揃って「パン」と音を出すような場面でも、徹さんの場合、「そこは、少しずつズレて、ぱらぱらっと音が出る方が良いんだ」って言うことがよくあったじゃない? 譜面を見ると、三十二分音符や六十四分音符なんかを使って、音楽の細かい動きが精密に書き込んである。その通りに合わせるのは本当に大変で、欧米のオーケストラの人たちは、懸命に揃えようとする。なのに、当の作曲者から「少しズレた方がベターです」と言われると、彼らは戸惑っちゃう。発音の時機を無心に崩す-という考えに、慣れてないから。
――初演から30年余。武満さんが≪四季≫で表そうとしたのは何だったと今、思われます?
山口:一つは、音のない「時間」が音を成り立たせている-という考え方です。沈黙や静寂の重さですね。あの作品では、ポツン、ポツン、と音が鳴る。そんな音と音との関係を、日本でいう「間(ま)」が形作っていく。こうした音や響きを、音楽として感じ取るのは、一人ひとりの聴き手なんですね。西洋近代の音楽には、殆ど無い考えです。武満さんの目の前には、こうした思想を、禅から学び取った先輩ジョン・ケージ(※6)が、存在していた。武満さんは青年期にケージから受けた影響を、大切にしていました。また、≪四季≫では「空間」も大きな意味を持っています。CDで聴くとこの作品は、どうも音が多く感じられるんです。生演奏だと、三次元を満たす音の広がりが、左と右の、たった2つのスピーカーから出てくるので、平板に聞こえてしまう。生演奏を注意深く聴いていただいたら、色んな場で音が生まれ、響きが空間を漂い、徐々に衰え、消え去っていくのが分かるはずです。一つひとつの音が、それぞれ独自の変化をしている。たとえ交錯しても、気にはならないと思います。「間」を意識し、静かに耳を傾けてほしいですね。
吉原:この「間」の考えが、欧米の演奏家には分かりづらいんです。時と場所に応じて、微妙に変わるから、譜面に書けないし、伝えようがない。演奏するホールが別だと、大きさや響きに応じて「間」は変わる。音楽も当然、変わる。
山口:雨か晴れか、昼か夜かによっても変化します。僕ら演奏する方はもちろん、お客様だって心の状態が違ってきます。音を待ち詫びる聴き手の心の動きを読んで、微妙な「間」を取って音を送る-。演奏の「妙」は、ここにあると思います。
吉原:楽器にはそれぞれ音色や響き方に特性やクセがある。それは、ふだんから楽器に向き合っている私たちが一番、知っている。徹さんの曲を手掛ける際は、彼がその曲に込めた音色や響きのイメージをしっかり掴み、舞台ごとに臨機応変、創り上げていくしかありません。私、徹さんによく、打楽器の新作をねだったんですよ。でも「うーん。打楽器は難しいからねぇ…」って仰ってました。「間」や音色、響き-。譜面に書き表せない事柄の重さを、感じていたんじゃないでしょうか。
山口:武満さんの場合、打楽器は、明確なリズムを刻むより、繊細な音色や響きによって、静謐な世界を醸す役割を担うことが、圧倒的に多かった。僕らプレーヤーは、彼の狙いをよくよく理解して演奏に反映することが、常に求められていた。作曲家というと、部屋に閉じ篭って五線譜を埋めている印象が強いかもしれません。でも、武満さんは仲間と呑んだり、おしゃべりしたりするのが大好きでした。この家にも何度も来て、一緒に食事をしたし、練習部屋で新しい音を探したりもしました。僕たちは、新しい楽器を手に入れたり、新しい音を見つけたりすると、連絡したものです。「徹さん、きっと喜んでくれるよ」ってね、すみれ共々、胸が躍りましたよ。武満さんの方もフランスの旅から帰ると、田舎で手に入れた赤ん坊向けのガラガラを持って来てくれたり、引っ越しの時にはインドネシアのアンクルン(※7)をプレゼントしてくれたりね。作曲家と演奏家、立場は違っても「新しい音」を求める気持ちは同じでした。
――武満さんの音が、演奏家との協働で生まれたことの、一つの証(あかし)ですね。一方で、演奏家に厳しい面もあったと聞いたことがあります。
山口:ある高名なピアニストが彼の曲を弾いた時に、「もうヒドくてね、途中で(会場から)出て来ちゃったよ」と、苦々しい表情で仰っていたのを覚えています。自分の作品を演奏するプレーヤーについてキチンと評価をし、場合によっては直接「あなたには弾いてほしくない」と言うこともあった。こんな作曲家は古今東西を通じ、珍しいと思います。もっとも、断る時には「あなたには別の作品を書くから」っていうのが、武満さんの優しさでした。亡くなってからは、いろんな演奏家が自由に手掛けていますが、彼一流の「厳しさ」も、心に留める必要はあると思います。
――お2人をはじめ、武満さんと親しかった演奏家の方々が今春、室内楽作品の全集CD(※8)を出されたのは、そんな思いも関係しているんでしょうね。
山口:たとえば武満さんが譜面に記したテンポは、実際にリハーサルなどで彼が好んだテンポと、かなり違うことが少なくありませんでした。ですから「譜面通り」の演奏が、いつも良い訳ではない。長く一緒に仕事をしてきた者として、作曲者の考えを形に残しておきたいと思ったんです。とはいえ、こうした「伝統」から自由な若い演奏家が、地球の裏側でとてつもなく斬新な演奏を生み出す可能性もあります。僕らは、一つの型でそれを縛るつもりはありません。そんな「権威」を、武満さんはとても嫌っていました。「アンチ権威」の生き方は、阪神タイガースのファンだったことにも表れていたんじゃないでしょうか。
――若い時期、音楽界の権威からの手厳しく批判されたのが影響してるのかもしれませんね。
山口:コンサートの打ち上げなんかで、居合わせた人が巨人ファンだと分かると、よく怒ってました。「キミ! 現代音楽やってるくせに、巨人ファンだなんて、信じられないよ!」って(笑)。
吉原: 阪神ファンは、家族ぐるみでした。≪カシオペア≫だったかしら、徹さんの作品の独奏者として、ヨーロッパのオーケストラから招かれた時、ご本人に直接尋ねたいことが出て来て、当時の東村山のご自宅まで伺ったことがあります。ちょうど、阪神戦の真っ最中でした。テレビから中継が流れてるのはよくあることですが、居間のトランジスタラジオも鳴ってるんです。ザーザー雑音ばっかりで殆ど聞こえないけど、どうやらそれも、中継放送なんです。奥様の浅香さんや真樹ちゃんにご挨拶した後、徹さんの仕事部屋であれこれ尋ねていると、浅香さんが飛び込んで来て「アナタッ、大変よ。掛布が逆転満塁ホームラン打ったわ!」。ご本人もガバッと立ち上がって「エッ、キミ、そりゃ大変だ」って、居間に行っちゃった。打ち合わせはそれでお終い。後は宴会でした。1985年、阪神が21年ぶりに優勝した時には「良かったですね」って声を掛けたんですが、徹さん、「う~ん。あんまり嬉しくないヨ」なんて仰ってました。タイガースファンらしく、無理してたのかしらって、今も阪神戦を見る度、思い出します。そんな子供みたいな部分もあったんですよ。今回はタイガースの本拠地、大阪でのコンサート。夫婦共々、徹さんとの交流を思い出しながら、心を込めて演奏します。
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※1 ≪弦楽のためのレクイエム≫
武満徹の初期代表作。1957年、東京交響楽団からの委嘱を受け書かれ、同年6月、上田仁の指揮により東京・日比谷公会堂で初演された。弦楽オーケストラのための作品で、演奏時間は約10分。一つの主題による自由な三部形式。当初の評判は必ずしも芳しくはなかったが、来日したストラヴィンスキーが「この音楽は実にintense(厳しい)。このような烈しい音楽が、あんな、小柄な男から生まれたとは」と述べ、高く評価したことから、武満の名は一躍、国際的に知られることになった。武満の先輩で、黒澤明監督ら数多くの映画音楽を担当した作曲家早坂文雄に捧げられている。
※2 鉄鋼館
日本万国博覧会Expo’70(大阪)に日本鉄鋼連盟が出展したパビリオン。内部に高さ17メートル、一辺40メートルのホール「スペース・シアター」がある。演出プロデューサーであった武満徹の意図に基づき、NHK技術研究所の研究員藤田尚が設計した。ホールの天井や床下、壁には1008個のスピーカーが配置され、ホール自体が一つの楽器となっている。ホール機能を生かす作品として武満の≪クロッシング≫、クセナキス≪ヒビキ・ハナ・マ≫、高橋悠治≪エゲン≫が演奏されたほか、万博開催期間中には、雅楽や声明、現代音楽祭などが開催された。建物は現在も残っている。
※3 楽器彫刻
フランス人彫刻家フランソワ・バシェと、兄のベルナール・バシェが考案した特殊な楽器。2人は大阪に約4ヶ月滞在し、地元の技術者とともに製作した。ガラスのリードを濡れた手でこすったり、鉄の棒を叩いたりすることで、花びらのような形をした部分から奇妙な、しかし豊かな自然音が発生する楽器など、さまざまな種類のものがあった。鉄鋼館のホワイエに展示された。
※4 ツトム・ヤマシタ(山下勉)
打楽器奏者。1947年京都生まれ。中学・高校時代から大フィルの演奏に参加、ジュリアード音楽院やバークレー音楽院などで打楽器、ジャズを学ぶ。ソリストとしてベルリンフィル、シカゴ響、ロサンゼルスフィルなどと共演、英オールドバラなどの音楽祭に招かれる。72年、演劇と音楽の融合を目指す芸術集団「レッド・ブッダ・シアター」を立ち上げる。演奏活動の一方、作曲や映画音楽担当など多彩な活動を展開。自ら研究した仏教音楽を基に、音による法要「供音式」を国内外で重ねるなどユニークな音楽活動を続ける。1971年、武満徹の打楽器協奏曲≪カシオペア≫を初演。
※5 勅使河原宏
華道草月流家元・映画監督。1927年東京生まれ。東京美術学校(現・東京芸大)を経て映画界入り。62年第1作「おとし穴」でNHK新人監督賞。64年、「砂の女」でカンヌ映画祭審査員特別賞。「ホゼー・トレス」(59年)、「他人の顔」(66年)、「サマー・ソルジャー」(72年)、「利休」(89年。モントリオール映画祭最優秀芸術賞)、「豪姫」(92年)などを監督した(以上の作品はいずれも、音楽を武満が担当した)。家元は80年に継承、国内をはじめミラノ、ニューヨークなどで個展を開くほか、土門拳記念館(山形県酒田市)の作庭、オペラや新作能の演出、茶室制作、陶芸など多彩な創作を展開した。2001年死去。
※6 ジョン・ケージ
1912年米ロサンゼルス生まれ。シェーンベルクにカリフォルニアで、また仏教学者・思想家の鈴木大拙にニューヨークで師事。磁気テープに直接作品を録音する技法を開発したほか、弦に消しゴムやボルトを挟み込み特殊な音響効果を持たせたプリペアードピアノ、図形楽譜などを考案。不確定的要素を導入するなど前衛的な試みを次々に続けた。代表作に「易の音楽」「4分33秒」「龍安寺」など。92年死去。
※7 アンクルン
インドネシアの西部ジャワ地方の民族楽器。二本の竹筒と枠から成る。筒は中がえぐられ、オクターブに調律してある。手で振って筒と枠をぶつけると、軽やかな音が出る。インドネシアでは一人が一音を受け持ち、複数で演奏することが多い。
※8 室内楽作品の全集CD
「武満徹・響きの海」。キングレコード制作、全5巻。高橋アキ(ピアノ)、佐藤紀雄・荘村清志(ギター)、小泉ひろし(フルート)など武満と親交を結んだ演奏家グループ「アンサンブル・タケミツ」が2001年から3年間にわたり、開いた公演を収録している。
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プロフィール
山口恭範(やまぐち・やすのり)
東京芸術大学卒業後、欧米で研鑽を積む。1966年、東京文化会館でパーカッションソロリサイタルを開き、注目される。70年大阪万博で武満徹「四季」を初演。72年から10年間、新日本フィルハーモニー交響楽団在籍。72年ピアノの高橋アキ、フルートの小泉浩と現代音楽演奏グループ「アーク」結成。83年「第一回中島健蔵賞」受賞。同年武満徹企画の「Music Today」でソロリサイタル開催。93年ベルリン芸術週間で石井眞木作曲・指揮による打楽器コンチェルト「砕動鬼」初演。このほかワルシャワの秋、パリの秋、ロンドン、アビニオン、ウィーン、タングルウッド、ニューヨーク・リンカーンセンターなどの主要音楽祭に出演するなど、内外で演奏を続けている。92年ソロCD「イルージョン」をアイオロス・レーベルから発表。同志社女子大学嘱託講師。大阪教育大学非常勤講師。「アンサンブル・タケミツ」メンバー。2004年「朝日現代音楽賞」受賞。サウンドスペース「アーク」主宰。
吉原すみれ(よしはら・すみれ)
東京生まれ。幼少のころから工藤昭二氏のマリンバのレッスンを受ける。高校入学時から打楽器を小宅勇輔氏に師事。東京芸術大学に入学、打楽器一般を有賀誠門、マリンバを高橋美智子氏に師事。1972年同大学大学院在学中に、ジュネーヴ国際コンクール打楽器部門で優勝。同時に各部門のグランプリであるプリ・アメリカン賞も受ける。以後ヨーロッパ、日本を中心にソロ活動を続ける。77年ミュンヘン国際コンクールで1位なしの2位。ソロレコードがRCAから全世界に発売される。79年から85年までカメラータ・レーベルで5枚のソロアルバム(「吉原すみれ・打楽器の世界」1-5)を制作。80年サントリー音楽賞受賞。アルバム「吉原すみれ・打楽器の世界1」により芸術祭優秀賞受賞。アンサンブル・ヴァン・ドリアン、トライアングル・ミュージック・ツアーなどアンサンブル活動も行い、アンサンブル・ヴァン・ドリアン団員として83年中島健藏賞受賞。86年ジャーナリスト立花隆の制作録音によるCD「とぎれた闇」を発表。86年から93年までに、CBSソニーで4枚のソロCDと、1枚のデュオCD(笛の藤舎推峰との「デュエル」)を制作。91年・97年ミュンヘン国際コンクール、92年ジュネーヴ国際コンクールの審査員を務めた。93年ニューヨークでミュージック・フロム・ジャパン公演。97年「打楽器通信」、2002年「打楽器通信2」(フォンテック)CDをリリース。02年第20回中島健藏音楽賞優秀賞を受賞。04年第13回朝日現代音楽賞受賞。「アンサンブル・タケミツ」メンバー。武蔵野音楽大学教授。