連載 What is the Next New Design?10
デザイナー松井桂三さんとの90分 ヒロコさん。そして再びNY 「デザインは提案」を実感
掲載日:2006年5月1日
ザ・フェニックスホールのアートディレクター松井桂三さん(感動デザイン研究所 Designart代表)の半生をたどるインタビューシリーズも第10回を迎えた。欧州・アジア旅行から大阪に戻り、フリーのデザイナーとして活動。その後、髙島屋宣伝部に入り、大きな仕事を手掛けるようになったものの、アメリカへの旅を機に松井さんの心は羽ばたき始める。ファッションデザイナー、コシノ・ヒロコさんとの出会いが、あらたな展開をもたらすことになった。 (聞き手 ザ・フェニックスホール「サロン」編集部)
早速コシノ・ヒロコさんを訪ねました。ミナミのビルの一室がアトリエです。あの大きな目で迎えてくれた。ちょうど彼女が自社ブティックの全国展開を図っていた時期にあたり、頭角を現してきた人物ならではのエネルギッシュなオーラが漂っていました。仕事を紹介してくれた建築家の安藤忠雄さんはヒロコさんと親しく、彼女の芦屋の邸の設計をしたほど。当時、神戸北野にヒロコさんが出す新店舗の入居先ビルも手掛けていた関係で、ボクが顧客への案内状をデザインすることになった。
内容は一任されましたが、いちおう過去の新店舗の開店案内状を見せてもらった。殆どが東京のデザイナーによるもの。小奇麗でしたが、ヒロコさんを表すには何か物足りない。彼女は当時、アジアやアフリカの民族衣装にも通じるようなデザインをしていた。一方で江戸の武士や遊女の和服から触発されたような作品でも注目を集めていた。ボク自身はこの「和」の部分に関心があった。
思い浮かんだのは、日本の風呂敷包みでした。それも、布地でなく、硬い紙を使って折り紙にし、中に書面を収めるというスタイル。折り紙には、イスラム圏の唐草模様のような、英ヴィクトリア朝時代の草花模様のような、不思議な模様を施し、「和」とエスニックな感覚の融合を目指してみました。当時としては、随分「遊び心」溢れる提案でしたよ。これはもちろんボク個人の仕事ですが、高島屋宣伝部に所属していましたから、そちらの時間を盗んで仕上げたんです。
ヒロコさん、デザイナーだけに色には厳しかったですが、気に入ってくれました。この仕事のあと、暫くして高島屋を退職しました。1984年春だったと思います。彼女とはその後もこうした仕事はもちろん、彼女がパリ・コレクションの際、出す案内状デザインや発表した新作カタログ制作などでお付き合いさせてもらっています。
実は、この「風呂敷挨拶状」が機縁でボクは、ニューヨークで仕事をすることになるんです。ファッションブランド、イトキンの辻村金吾会長(現・取締役名誉会長)が当時、中心街の西54丁目と55丁目のブロックすべての高層ビルの1、2階部分を借り切り、自社のファッションプラザを出店する計画を進めていた。同社とヒロコさんに繋がりがあったことから、会長に紹介してくれた。話を聞くと、この店は日本人デザイナーのブランドを核に据えるという。世界の人々が行き交うあの街で、「日本発」のファッションの力を問う、実に意欲的な試みでした。日本の国全体が、活気に溢れていた時代でしたね。
ニューヨークは、ボクにとっては日米グラフィックデザイン展の授賞式に出席して、魅了された街でしょ。そこで、こんなにも早く仕事が出来るなんて-。思いもしなかっただけに嬉しかったし、力も入りました。
店では日本人6、7人のデザイナーがDC(デザイナーズブランド)と呼ばれる高級衣料や靴、鞄、アクセサリーなどを扱う。そのロゴやパッケージをデザインし、広告戦略を立て、プロモーションを進めるのがボクの仕事です。ニューヨークに滞在し、この街の空気を、胸いっぱいに吸い込んでは大阪に戻る。そのうち、ニューヨークの仕事の人手が足りなくなり、心斎橋に開いた個人事務所に、同僚に手伝いに来てもらう状況になってきたりもしました。
他の仕事も含め、このころ以降、ニューヨークに滞在する機会が増えていくのですが、訪れる度、街が変化しているのに気付きます。
例えばホテル。ホテルを単に「宿泊施設」と見るのではなく、「ブティック」であるという発想でモーガンズホテルがマディソン・アベニューに造られる。設計は、フランス人デザイナーのアンドレ・プトマン。客室は、わずか24室。内装はすべてモノクロで、しかも全室デザインが異なる。雑誌『プレイボーイ』で募集されたスタッフは、すべて長身の美青年で、ニューヨーカーの話題を呼んだかと思うと、今度は同じフランス出身のフィリップ・スタルクが、ホテルは「サロン」だというコンセプトを打ち出す。彼が内装設計した「ザ・ロイヤルトン」がオープンする。各室とも青とアイボリーを基調にした落ち着いた雰囲気で、暖炉や燭台が高級感をかもし出していた。
スタルクは更にこの後、ホテルは「ギャラリー」であるという考えを打ち出し、ブロードウェーの劇場近くのパラマウントホテルの内装も手掛けます。このホテルなどは、1階ロビーにオブジェ風の椅子がポツン、ポツンと置かれ、まさにアートギャラリー。1階から2階に向かって広がる緩やかな階段も、実に印象的でした。客室のドアには番号の表示がなく、天井からの照明が数字を廊下の床に映し出す仕組み。今では、やや平凡なアイデアに感じられるかもしれませんが、当時はとっても新鮮でした。ボクにとっては、「デザインは提案である」という命題が、現実に、次々に現われ、それが変化していくのを自ら体験する、実に貴重な滞在でした。
日本には当時、こうしたニューヨークの動きを真似る動きもあった。でも、追随はいつも、陳腐なものです。ボクはデザイナー。絶対、真似は出来ない。彼らを超える新たなコンセプトを自分で見いだし、そしてそれを美しい形にして見せること-。その尊さと重さを胸に、太平洋を越える飛行機に乗り込んだものでした。
(続く)
写真説明/
松井さん(右)とコシノ・ヒロコさん(中央)との仕事は今も続いている=1980年代なかば