連載 What is the Next New Design? 9
デザイナー松井桂三さんとの90分 初めての渡米 自由の国で感じた「格差」
掲載日:2006年1月5日
ザ・フェニックスホールのアートディレクター松井桂三さん(ハンドレッドデザインインク=2006年2月から「感動デザイン研究所Designart」に改称=代表)の半生をたどるインタビューシリーズ。欧州・アジア旅行から大阪に戻り、フリーのデザイナーとして活動。その後、髙島屋宣伝部に入り、大きな仕事を手掛けるようになった。しかし、あるコンクールに入賞したことからアメリカに出掛けた。この旅を契機に松井さんはより自由な創作への思いを募らせるようになり、新たな道を歩み始める。
(聞き手 ザ・フェニックスホール「サロン」編集部)
アメリカ行きは、あるデザインコンクール入賞のご褒美。その受賞でニューヨークへ行けることになったんです。1981年の「日米グラフィックデザイン展」で、日本のデザイン雑誌「アイデア」がニューヨークのアート・ディレクターズ・クラブ(ADC)と共催していた。
出品したのはパッケージ。東京港区の麻布十番にあるブティック用に作ったもので、材料は一枚の紙。接着剤なし、折って作る。外見は粋なアタッシェケース風。取っ手の形を工夫し、嵩張らないようにするなど「機能と美しさ」を追求してみたんです。
この頃、サラリーマンデザイナーとフリーランスを並行して続けていました。これもフリーの仕事。デザイナーの世界は実力で勝負。とはいえ、コンクール入賞はやはり「力」の証。同僚には入賞歴を誇る者も多く、ボクも狙ってた。応募は初めてでしたが、銀賞に入り、本当に嬉しかった。
ニューヨーク行きの飛行機に共に乗り込んだのは、高岡一弥さんや勝岡重雄さんらフリーデザイナーばかり。晴れの受賞に胸を膨らませ、機内でも話が弾んだ。宿はヒルトン。一流です。ブロードウェイでミュージカルを見たり、ジャズスポットで音楽を聴いたり。ビッグ・アップル(ニューヨークのあだ名)を五感で満喫しました。
式典場所は、あの「9・11」事件で崩れたツインタワー。最上階のレストランに、アメリカを代表する大物デザイナーが詰め掛けてました。当時のデザインをリードし、名声を世界に轟かせた工房「プッシュピン・スタジオ」主宰ミルトン・グレーサー、シーモア・クワスト、ポール・デイヴィス…。大阪では仕事の合間、デザイン雑誌に載った彼らの作品を熱心に見たもんです。そんな雲の上の人々が、目の前に並んでいる。日本人受賞者は、事前に発表されていたのですが、ニューヨーク側は当日一斉。グラミー賞発表に集まる映画スターのように、タキシード姿で息を詰めて待っている。こちらまで緊張してしまった(笑)。
滞在中、アメリカを代表するイラストレーター、フレッド・オトネス氏を訪問する機会がありました。日米デザイン界の掛け橋役として知られるアートディレクター虎新一郎さんの紹介です。
オトネス氏が住んでいたのは、コネチカット州の広壮な邸。庭のプールに立派な石がしつらえてある。驚いたのは、居間に10㍍もあるサンドイッチが作ってあったこと。自分で切り分け、食べる。ユーモア溢れる歓待は、さすがイラストレーター。飾らないお国柄も感じました。 その後、さまざまなデザイナーの話を聴くうち、日本とアメリカでは、どうもこの仕事の社会的な地位が、かなり異っていることが見えてきたんです。
例えばデザイナーと企業の関係。当時、アメリカの広告界では普通、両者が直接やり取りする。お互いの信頼を基に、大手放送局のCBSでもフォルクスワーゲンでも、一年間は契約で同じデザイナーに仕事を任す。一方日本では広告代理店が介在することが多い。彼らは、顧客である企業に複数のプランを示せる。企業はお気に入りを選べる。「コンペ」と言われるこの仕組みは代理店も企業も、選択リスクを軽く出来るメリットがあるかもしれません。でもプランが不採用となったデザイナーは、殆ど実入りがない。ただ疲れるだけ。アメリカの一流広告デザイナーは、企業の信頼や恵まれた待遇の中で快活に生きているように、ボクには見えたんです。
大阪で仕事に戻ったんですが、どうも世界が違って見える。もっと自分の個性を打ち出したくなったんですね。髙島屋での仕事は、商品を売ることが至上課題。デザインは、その手段です。自分の創造性を発揮するより、顧客企業の要請を満たすことが優先。同じ広告デザインでもアメリカの同業は、あんなに自由を謳歌していたのに。
勤務が長くなるに連れ、ボク自身、仕事に「慣れ」も出てきた。デパートでは毎年季節ごと、同じテーマを扱う。季節衣料に物産展、中元、歳暮、クリスマス。小売業の宿命ですよね。デザイナーとして、去年と違うものを生み出そうとするのですが、己(おのれ)の個性と企業の要請との狭間で、知らずしらず妥協点を探るようになった。そんな「熟練工」みたいな面に気付いて、自分ながら嫌気が差すようになったんです。
やっぱり独立したい-。上司に相談すると、難波の飲み屋に誘われました。「フリーは浮き沈みが激しい。やめとけ」。中座し、鏡で時分の顔を見てみたら、何とも不満な表情でしたね。職場で、女性の少し上の同僚と大喧嘩したのも、この頃です。
ウジウジしてても仕方ない。会社に籍は置いたまま、独立の準備を本格的に始めたんです。心斎橋で事務所を借り、「松井桂三デザイン室」の看板も掲げた。そんなある日、知り合いの建築家・安藤忠雄さんから電話がかかってきた。受話器の向こうは、いつもの大声です。
「おぉ、松井君か。すまんけどナ、友達のファッションデザイナーが神戸に店作るんや。ちょっと相談に乗ったってくれへんかな」。
そのファッションデザイナーというのは、コシノ・ヒロコさんでした。出身地大阪の「ブランド力」を掲げ、これから活動を広げよう、という時期でした。彼女は1984年春、神戸・北野町にブティックを開く計画を進めていた。オープンに合わせた挨拶状のデザインを、ボクにやってみろ、と言うのです。
(続く)
写真説明/
モデルに囲まれて=ニューヨークで