連載 What is the Next New Design? 8

デザイナー松井桂三さんとの90分 髙島屋宣伝部 実体験で紡ぐ 大衆の「夢」

掲載日:2005年12月1日


 ザ・フェニックスホールのアートディレクター松井桂三さん(ハンドレッド デザイン インク代表) の半生を引き続きインタビューでたどる。欧州・アジア旅行から大阪に戻りデザイナーとしての活動を始めた松井さん。仲間や先輩に恵まれ、活動を広げていく。フリーランス生活に一区切り付け、デパートの宣伝部に入った松井さんは仕事を通じ、これまで以上に人々の暮らし、生き方に関心を持つようになっていった。
(聴き手 ザ・フェニックスホール「サロン」編集部)
 
 
帰国して間もない頃、アーティスト兼グラフィックデザイナーの横尾忠則さんと同様、僕に影響を与えた方に、建築家の安藤忠雄さんがいます。欧州の旅先で知り合った吉田保夫さんが梅田の安藤さんの事務所で働いていたのが機縁でした。
 
今でも印象に残っているのは、安藤さんが小さな紙片に建築のイメージを描いている姿です。独特の髪型は今と同じ。声が大きく眼が鋭い。独特の迫力がありました。曲がったことは大嫌い。キチンとした礼儀を身に着けた人でしたね。勉強熱心で、事務所に積まれた白いカラーボックスには本がぎっしり。「松井君、一日に必ず2時間本を読め。僕はずっとやっているんだ」と言われました。スイスの建築家コルビュジエの作品に心酔し、「光と陰」について熱心に語っていました。安藤さんの仕事の「芽」が、既に出ていたと思います。
 
当時僕は、平面のグラフィックデザインを手掛けていた。一方、建築は立体のデザインです。でも周囲の環境に配慮し、クライアントの意見を聴きながら、自らの主張を打ち出す面も強くあって、その点、共通する点が多い。相手の要望を受け止めながらも、自らの領域に引き込める解決策を示す能力が、とても大切なのです。 

当時の関西は、先輩デザイナーが東京に流出していた。あちらは仕事が多い。高待遇も魅力。建築界が同じ状況だったかどうかは分かりませんが、安藤さんは飄々としてました。「松井君。仕事は、どこでやっても一緒だよ。自分がやっているかどうかだよ」ってね。

髙島屋に入ったのは1974年、28歳の時でした。それまでのボクのクライアントは薬品メーカーや京都の着物屋さん。どうしても仕事の範囲が限られてくる。若いんだし、狭い世界だけでなく、色んな情報に触れ、幅広い仕事を手掛けたいと考えるようになったんです。その点、デパートは何せ間口が広い。食料品から家具、そしてファッション。。。人の生活に関わるものは殆どすべてを扱うわけですからね。たまたま学生時代の同級生が髙島屋にいて、「来ないか」と声を掛けられた。面接の時、お願いをして、これまでの仕事もそのまま続けさせてもらえることになりました。

当時の宣伝部は大所帯。デザイナー20数人、コピーライター4、5人。カメラマンが3、4人は居たでしょう。学歴は無関係。実力がモノをいう世界です。仕事は広告の制作から売り場の設計や、物産展・催し企画も手掛ける。東北などにバイヤーと出掛けて行き、地元の食材を探して食べ歩いたりもしましたが、デザイナーとしての「花形」は、ファッション広告。それは、個々の商品の広告というよりも、髙島屋というデパート全体のイメージを打ち出すことを狙ったものでした。

ウンガロ、カルダン、テリー・ミグレー。。。こうした女性向けの海外ブランドの広告を、新聞で打つんです。大新聞の夕刊を1ページ丸ごと、それこそ1センチ四方で何万円もするようなスペースを、たった一人で使える。本当に気持ちが良かったなぁ。

例えば、八尾の飛行場を借り切り、滑走路に航空機を止めて翼の上に女性モデルを並べる。関西だけでなく、名古屋や広島、福岡からも呼び集めるんです。当然ヘアメイクのスタッフも、スタイリストも要る。また、深夜にオートバイのサイドカーに女性モデルを乗せ、亀岡市の森林の中で撮影をしたこともあります。漆黒の闇の中、黒革のツナギに身を包んだ女性の胸元に鮮やかなオレンジ色のシャツが覗く。目の覚めるような斬新さを演出したかったのです。制作費はかなり、かさみましたが70年代の終わり、高度経済成長期でした。今思うとデパートにも、社会全体にも活力があったんですね。

さてデザインが終わると今度は、コピーライターと一緒に広告のキャッチフレーズやボディコピーを考える。大衆に最もアピールする表現は何か。言葉と格闘する中で僕は、これからの時代の「快適さ」や「夢」は一体何なのか、を真剣に考えるようになりました。時代の流れを読み、人々の暮らし全体を見据え、次代の生活スタイルを提案する。だから、大衆より一歩も二歩も先んじたセンスを自分の中に持つことが何より大切でした。そのためもあって、年に一度は必ずヨーロッパに飛び、新しい動きを見るようにしていた。これ、自分の仕事で行ったんですよ。行き先はパリが中心ですが、ロンドンやミラノにもしばしば足を運びました。

当時、宣伝部は海外の雑誌を購読していて、同僚の多くは、そうした資料を素にデザインを考える。でも僕は「現場」を踏んでいる。同じ風景を見ても、そこにどんな風が吹いていたか、靴が石畳の上でどんな音を立てたか、自分の五感で捉えた経験があるから、彼らとは明らかに違うデザインを、しかも確信を持って生み出せる。フィールドワークの経験が醸し出す、独特の「ライヴ感」。それは強みでした。現地でセンスを磨くことの大切さは、若き日のハングリー旅行が僕に教えてくれた教訓だったのかもしれません。二つの仕事をするのはキツかったですが、お金になりました。外で仕事をさせてもらった分、会社にお返ししたつもりです。
 
こんな無我夢中を自分なりに楽しみながら、あっという間に10年が経った。どうも一所に留まっていられない性質なんですかねぇ、デパートの仕事が概ね呑み込めるに連れて、また新しいことがしたくなってきたんです。
(続く)

 matui8
写真説明/
友人で建築家の吉田保夫氏(右から2人目)と松井さん(中央)。