レクチャーコンサート講師 伊東信宏さんインタビュー

離散と混合 ポップスの源

掲載日:2005年11月1日

 

 お話と生演奏で音楽の楽しさを紹介するレクチャーコンサート。今春、幕を閉じた長期シリーズ「ピアノはいつピアノになったか?」に次ぐ舞台は、「シャガールのヴァイオリン-中・東欧の村の楽師たちと20世紀音楽の前衛」だ。手掛かりは「幻想の画家」として知られるマルク・シャガールの絵に描かれたヴァイオリン弾き。19世紀後半から20世紀にかけ、東欧の楽師が奏でた大衆音楽が芸術音楽(クラシック音楽)に入り込み、さらには現代のポピュラー音楽のルーツにもなったのではないか-というスケールの大きいテーマを扱う。遥かな時空を見詰め、ロマン溢れるお話を展開するのは、大阪大学文学部の伊東信宏助教授(音楽学)。演奏は洗練と野趣を併せ持つ演奏で人気のピアノ三重奏団「トリオ・ミンストレル」。初秋の研究室で、伊東先生から公演について聴いた。
(ザ・フェニックスホール 「サロン」編集部) 
 
――公演タイトルの「シャガールのヴァイオリン」からご説明ください。 
 
 シャガールというと画商のウインドウに飾ってある色鮮やかな絵で知られているのではないでしょうか。パリを拠点に世界で創作を展開、「愛と幻想の画家」と呼ばれたブランド画家のイメージが強い。ボクの父は構成主義の流れを汲むデザイナーで幼い頃、家で抽象的な作品に囲まれていたせいか、華やかなシャガールの絵は好きになれなかった。知人が「マーマレードみたいな絵」と評するのを聴き「その通り」と思ったものです。鮮やかな色彩に甘ったるい作風。「かなわん」と。ところが、ある時期から彼の絵が、全く違って見えるようになった。
 
――きっかけは。
 
10年ほど前、東欧のユダヤ人の職業音楽家が演奏する大衆音楽(クレズマー音楽)を聴き始めたんです。ヴァイオリンにクラリネット、トランペットなどを交えたバンドの音楽で、ダンス伴奏が主。日本で聴けばサーカスの音楽やジンタのように聞こえるかもしれません。ボク自身、幼い頃からヴァイオリンを弾いており、どこかで聴いたようなリズムや旋律に興味を持った。調べるうち、彼ら楽師が皆カフタンと呼ばれる長い外套を着、顎鬚(あごひげ)を生やし、帽子を被っていることに気付いた。それはシャガールが特に初期に描いた楽師そっくりでした。彼は今のウクライナにあるヴィテブスクという片田舎の街で生まれた。自伝によると、祖父は牛を扱う肉屋だった。ユダヤの人々にとって肉の確保や処理は宗教上、大切な仕事です。またヌーシュという叔父さんがヴァイオリン弾きで、聞き惚れた思い出が記されています。シャガールのルーツは、極めて伝統的なユダヤ人社会。その風俗を基に描いた初期作品は、例えば老人が緑色の顔をしていたり、黄金色の顎鬚を蓄えていたり。パリに出て以降の作風とは裏腹に、おどろおどろしさに彩られている。そうした部分を秘め、洗練の極致を行くような画風を築いたことを、大変面白いと今は思う。ボクは最も洗練されたものと、最もドロドロとしたものに好奇心をそそられるのですが、シャガールの影響かもしれません。
 
――公演では、彼が聴いた音楽を聴くのですか。
 
 旧ソ連の作曲家ドミトリ・ショスタコーヴィチが残した≪ピアノ三重奏曲第2番≫を聴いて頂きます。この曲に奇妙な音楽が紛れ込んでいます。第4楽章冒頭、ヴァイオリンが奏でる旋律は、シャガールの絵にも共通する不気味さがある。続いてピアノが奏でる舞曲風旋律もそう。ショスタコーヴィチは、ヴィテブスクでシャガールの弟子が歌った歌を基に作曲した。二人を結ぶ一本の糸。それはヌーシュ叔父さんらが奏でた音楽ではないか。「クラシック音楽の作曲家」として知られるショスタコーヴィチがこうした大衆音楽を取り入れていることは芸術音楽の成り立ちを考える上で重要です。それと実はボク、こうした村々で親しまれたクレズマー音楽がジャズや映画音楽など、現代ポピュラー音楽のベースになった-と考えているのです。
 
――東欧の村の音楽が今、どうしてグローバル・スタンダードともいえるポピュラー音楽になれたんでしょうか。。。
 
東欧のユダヤ人は、中世からキリスト教社会で迫害され続けていました。特にロシアでは「ポグロム」と呼ばれる大量虐殺が度々行われ、ユダヤ人は逃避行を繰り返さざるを得な かった。現代史では、ナチスドイツがチェコやポーランドを含む広範囲のユダヤ人を強制収容所に送って絶滅を図ったことが知られていますよね。ユダヤ人は自由を求め、大西洋を超えて米大陸東海岸に、またシベリアを横切って満州(現・中国東北部)へ逃れた。アメリカ全土や、東アジアに散らばり、楽師は各地で音楽活動を展開した。そのことと、ポピュラー音楽がどう繋がるか-。そのあたりのことを公演でお話できたらと思っています。 
 
――プログラムには、エネスクがヴァイオリンのために書いた≪幼年時代の思い出≫や、アンコール曲として有名なディニクの<ホラ・スタッカート>も入っています。
 
これらは「ジプシー」と呼ばれてきた欧州の放浪の民「ロマ」の音楽が芸術音楽に入り込んだ例として取り上げます。エネスクはヴァイオリニストとしても有名で、ロマのヴァイオリン弾きに教えを受けたことがある。またディニクは自身がロマです。ロマは元々インド北西に住み、14、5世紀に移動して来たといわれています。この頃、欧州のキリスト教社会の農民は、民謡は歌えてもヴァイオリンを弾いてダンスを踊るのは、教会に禁じられていました。でも結婚式の宴会、お葬式などの折に、器楽音楽の需要はあるわけです。それを担ったのがロマ。彼らは土地を所有したり、それを借りて耕作したりすることは許されておらず、いきおい鋳(い)掛け屋や馬商人、占い師、そして楽師など手仕事で生計を立てていた。20世紀の早い時期、多くのロマが西欧に流れたのですが、これはロシア革命の影響。帝政が崩れ、皇族や貴族に召し抱えられていた楽師が生活の場を求め、なだれ込んだ。かつて宮殿で皇帝を魅了したヴァイオリン弾きが、パリの場末の怪しいクラブで、魔法のような音色とエキゾチックな眼差しで、少々やけっぱち気味の貴婦人を誘惑する-なんて話がジョセフ・ケッセル(1898‐1979)の小説『朝のない夜』に出てきます。この話、ボク大好きなんです(笑)。
 
――「放浪の楽師」としてロマは、クレズマーと似たような境遇だったのでしょうか。
 
キリスト教社会で差別を受けつつ生きた点は極めて似ています。それぞれの楽師は共に、放浪先で異文化の人々向けに演奏した。また両者の「共演」も実際にあったに違いない。黒海の北、今のウクライナとルーマニアに挟まれたモルドバ共和国の辺りには、極めて多くのロマやユダヤが住んでいた。ボクはここで両者の音楽が交じり合ったこともあったろう-と推測します。実際「モルドバのロマ音楽にはユダヤの音楽的特性が見られる」と指摘する論文もある。ロマは、ユダヤの人々のように欧州の外にまで離散することは、あまり多くはありませんでしたが、クラシック音楽にせよ、大衆音楽にせよ、いろんな土地でさまざまな民族やその音楽が入り混じり、新たな音楽が育まれていったことに、強い興味を感じます。
 
――「混沌」の魅力でしょうか。
 
そうですね。かつては一つの民族が一つの国を形づくり、その国の音楽はその民族の心を反映する-と考えられがちでした。でも、例えばルーマニアなどを例に取れば、昔から無数の少数民族が踵(きびす)を接して暮らし、むしろ混血が当たり前。今回のように「混血音楽」について考えることで、例えば「国家」や「民族」に関するイデオロギーの呪縛を解けたら素晴らしい。またクラシック音楽も、一皮めくれば、いかがわしくも面白い世界が潜んでいる。大衆音楽の猥雑(わいざつ)さをいったん知り、洗練された芸術音楽を聴き直すと、両者の距離が案外近いことが分かってくる。そんな音楽の楽しみ方を知って頂きたい。
 
――最後に演奏のトリオ・ミンストレルについて。
 
クラシックのアンサンブルには珍しく、街の「楽師」の気質も併せ持つ実力派。長年のファンです。ピアノの北住淳さんはボク同様、クレズマー音楽が大好きですし、ショスタコーヴィチの作品演奏には打ってつけの編成。フェニックスで公演を重ねておられるし、今回も大いに期待しています。
 

◇ いとう・のぶひろ◇
1960年京都生まれ。大阪大学文学部卒業、同大学院博士課程単位取得退学。リスト音楽院、ハンガリー科学アカデミー音楽学研究所などに留学。93年より大阪教育大学助教授。2004年4月より大阪大学文学部助教授。主な著書に『バルトーク』(中公新書、1997年、吉田秀和賞受賞)、『ハイドンのエステルハージ・ソナタを読む』(春秋社、2003年)。共訳書にB.バルトーク著『ハンガリー民謡』(間宮芳生と共訳、全音楽譜、1995年)、J.カールパーティ著『バルトークの室内楽曲』(江原望と共訳、法政大学出版局、1998年)。論文に「シャガールのヌーシュ叔父さんはどんなヴァイオリンを弾いたか」(『ExMusica』第4号、2001年)、「民族の音楽/音楽の民族:コダーイ、クンデラ、そしてモルドヴァのファンファーラ」(大津留厚編『近代ヨーロッパの探究:民族』、ミネルヴァ書房、2003年)。 主テーマは中・東欧の音楽全般に関する歴史的研究。20世紀ハンガリーの作曲家バルトークの作品研究のほか、ハンガリーやルーマニアの民俗音楽、大衆音楽、さらにハプスブルク帝国史の中でのオペレッタや、ハイドンの作品についても調査研究をしている。

◇トリオ・ミンストレル◇
1993年、三重県四日市市の「りべーろとまり村コンサート」で結成されたピアノトリオ。英ロンドンで研鑽を積んだ木野雅之(ヴァイオリン)、仏パリで研鑽を積んだ小川剛一郎(チェロ)、ハンガリーのブタペシュトで研鑽を積んだ北住淳(ピアノ)の3名から成る。97年に「吟遊詩人」(menestrel)、「南仏プロヴァンス地方に吹く季節風」(mistral)という2つの意味を込めて『ミンストレル』(Minstrels)と命名された。毎年秋に全国ツアーを行い、確かな技術、味わいのある表現力、洗練された深い音楽性で多くのファンの心をつかみ各地で絶賛を博している。クラシックのみならず様々なジャンルのレパートリーを持ち、ピアソラの作品を収めたCDもリリースされている。今年結成12年目を迎え、ますます熟成した演奏活動を展開している。
 
トリオ・ミンストレル

■木野雅之(ヴァイオリン)
桐朋学園を経て、ロンドン・ギルドホール音楽院で名匠ニーマン教授に師事、卒業後もナタン・ミルシュテイン、ルッジェーロ・リッチ、イヴリー・ギトリスの各巨匠に指導を受け、研鑽を積む。1984年カール・フレッシュ国際コンクール(ロンドン)をはじめ、数々の国際コンクールを制覇。英国の音楽界の注目を集めた。以後本格的に演奏活動を開始。特に協奏曲のレパートリーは幅広く、40曲にも及ぶ。現在、ロンドンを本拠地に、世界各国で演奏活動を展開しながら、93年春から日本フィルハーモニー交響楽団のソロコンサートマスターをもつとめる。オクタヴィアなどからCDが多数発売されている。
■小川剛一郎(チェロ)
旧関西交響楽団(現大阪フィルハーモニー交響楽団)首席チェロ奏者であった祖父・伊達三郎に9歳からチェロの手ほどきを受け、10歳から井上頼豊氏に師事。桐朋学園高等音楽科、桐朋学園大学音楽学部をそれぞれ首席で卒業。チェロを井上頼豊、ダニエル・シャフランの両教授に師事。同大学研究科を終了後、パリ・エコール・ノルマル音楽院に留学し、チェロをレーヌ・フラショー教授に、室内楽をジュヌヴィエーヴ・ジョワ教授(アンリ・デュティーユ夫人)に師事し、84年同音楽院を最高演奏家資格を得て卒業。87年第56回日本音楽コンクールチェロ部門第3位入賞。現在、ソロ、室内楽奏者として活躍する傍ら、後進の指導にも力を注いでいる。
■北住 淳(ピアノ)
東京芸術大学音楽学部ピアノ科でピアノを伊達純教授に、ソルフェージュをアンリエット・ピュイグ=ロジェ教授に師事する。1983~85年、95~96年の二度にわたりハンガリー国立リスト音楽院に留学し、ペーター・ショイモシュ教授に師事する。85年、第1回マルサラ国際ピアノコンクール、第36回ヴィオッティ国際コンクールピアノ部門にてディプロマ受賞。帰国後、愛知県立芸術大学大学院音楽研究科で宇都宮淑子教授に師事。92年津市文化奨励賞受賞。2003年三重県文化奨励賞受賞。現在、愛知県立芸術大学助教授を務める傍らソロ、室内楽、声楽、合唱のピアニストとしても活躍している。