連載 What is the Next New Design? 7

デザイナー松井桂三さんとの90分 模索と出会い 横尾忠則さん 創造の道は「独創」にあり

掲載日:2005年7月1日

ザ・フェニックスホールのアートディレクター松井桂三さん(ハンドレッド デザイン インク代表)の半生をたどる連続インタビュー。欧州からアジアを回る旅を終え、大阪に戻った松井青年。持ち前の才能を武器に、フリーのデザイナーとしての活動を再開する。それは同時に、デザイナーとしてどう生きるかを問う、「模索の時代」の始まりだった。そんな折、松井さんはあるグラフィックデザイナーに身近に接することになった。     
(聴き手 ザ・フェニックスホール「サロン」編集部)
 
 
引き戸を開けると偶然、たたきに義母が居ました。半年連絡していませんでしたから、スゴク気まずい。「ただいま」の言葉は交わしましたが、話の接ぎ穂が出ない。そのうち奥から娘が出て来て「だれ」なんて顔で、僕をじーっと見つめている。そしてカミさんが顔を出した。
 
僕を見るなり、「なんで帰って来たん?」と、こうです。内心「元気やったから連絡しなかった。アフガンやパキスタンなんて簡単には電話も見つからないし、分かってくれよ」と思っても要は言い訳ですよね、一言も返せない。険悪な雰囲気を義母が取り成してくれ、框(かまち)から上がりました。その日は何を話したか、忘れました。猛烈な疲れで、すぐ寝ましたから。
 
大晦日、紅白歌合戦を見ながら「来年は仕事だ」と決意を固めました。「フリー」というと、聞こえは悪くないかもしれませんが、要は一匹狼。しかも全く無名です。デザインの仕事を得るため、取り敢えず印刷会社や広告代理店から当たろうと考えました。友達に紹介してもらい、会社を回りましたよ。履歴書なんて持ちません。名刺と、口八丁が頼りでした。でも、当時、本場ヨーロッパを見てきたデザイナーは珍しかったこともあって、仕事はすぐつかみました。
 

初めての顧客は、外資系の製薬会社。業務用医薬品パッケージをデザインしました。間もなく京都・室町通の織物商も加わった。仕事は販促用のポスターやカレンダーです。当時、織物屋さんは景気が良く、僕は着物を持ってパリに飛び、知り合いのモデルに着付けてリュクサンブール公園やサンジェルマン・デ・プレのカフェで写真を撮りました。日本の伝統が生んだ着物と、フランスの街並み。当時としては異色の取り合わせでした。これも旅の効用。そのうち「ウチの顧問になって」なんて社も出てきました。弱冠25歳。物腰は柔らかかったですが、内心は自信満々でした。失敗もしましたよ。

パリに向かう時は、着物を鞄に詰め込むものだから、あちこち皺が寄る。撮影の前、モデルの家でアイロンを掛けたら「ヂュッ」。生地が解け、ぽっかり穴が開いてしまった。モデルが着るとお腹の下あたりで隠しようもない。その着物、僕は絹(シルク)製と思い込んでいたんですが、合成繊維だったんです。生地を指でつまんで擦り合わせれば、滑り具合で確認もできたんですが、顧客は京の老舗。合繊とは夢にも思わなかった。予備はないし、このままだとカレンダーに穴を空けてしまう。汗びっしょりで裏地の図柄で継ぎ接ぎ、しのぎました。

京都の、ある印刷会社にも出入りするようになりました。企画部門に友人が居たんです。話を聞くと、最先端の印刷機が入っている上、スタッフの腕もなかなからしい。事務所にも何となく活気が感じられた。「何せウチは、あの横尾さんのシルクスクリーンを印刷してんにゃさかい」と鼻を鳴らすのを聞き、目が覚めるようでした。

横尾忠則さん。兵庫・西脇市の出身。高校を出て広告・イラストの世界でグラフィック・デザインに手を染め、自己流で勉強を積んだ異才です。彼のポスターには昭和初期の錦絵や、やくざ映画の写真などが、西洋名画などとともにコラージュで取り込まれ、鮮やかなインクで、シュールな世界を創り出していた。エロチシズム、死、霊界への関心。人間の根っこに潜む欲望や意識を、ユーモアと皮肉を交え描いていたんです。

当時、日本のデザイン界は殆ど「モダン・デザイン」一色でした。専門的な話になりますが、モダン・デザインというのは19世紀はじめの英国を起源とする、近代西欧の生んだデザインの流れです。世紀末に現れたアール・ヌーヴォー、二つの世界大戦の間にドイツで生まれたバウハウス、同じ頃パリに出現し、アメリカでも発展を遂げたアール・デコといった、世界を風靡(ふうび)した概念が、日本でも主流でした。機能的・効率的で、垢抜けしたデザインは、西洋流の近代化を深める社会に合うものでした。

でも横尾さんは違った。モダン・デザインの作品が、何となく取り澄ました「芸術」の薫りを放っていたのに対し、横尾さんの作品はビジュアルとして、ともかく楽しかった。大衆の心をつかむ「ポップアート」を、彼はたった一人で開拓していました。僕はあの頃、アジアの土着の暮らしに触れたことで、「西洋」を相対化し始めていた。その僕に、日本を軸に据えた彼の作品は新鮮でした。と同時に、「自分は、この人と違ったことをしなくてはならない」という重圧を感じてもいました。その先輩と、同じ事務所で仕事をしている。嬉しかった。

彼のポスター作品の原稿を見たことがあります。縦20センチ、横15センチほどのトレーシングペーパーに、細い鉛筆でびっしり製作指示が書いてある。「ここの色はグラデーション」「ここにはこの写真をこうトリミング」「ここはこの色」…。その紙切れに、不思議の世界の秘密が宿っているように感じたものです。画風同様、横尾さん本人も、ともてユニークでした。例えば、木枯らし吹く冬の日。事務所で僕らがストーブにあたっている。普通は「暖かいね」っていうでしょう? 横尾さんはというと、「あ~、背中が寒いねぇ~」なんです。一緒によくご飯も食べに行きましたが、ステーキに付けるのは醤油。洋風のソースは一切ダメ。人とは異なるセンス。変てこりんで面白い、物の見方や考え方。そして西洋と日本、近代と伝統の間で創作を探る視線。それらが、ふだんの生活にも投影されていた。僕は今、例えば、能面を題材に新たなデザインを試みる。伝統を問い直し、自分なりに焼き直す。そんな営みを続ける一つのルーツは、この頃の横尾さんとの出会いにあることは間違いありません。印刷会社から分けてもらった、横尾さんのポスターの校正刷りは、今も宝物です。
(続く)
■参考文献
『横尾忠則 森羅万象』 南雄介ほか編(美術出版社 2002年)
『モダン・デザイン全史』海野弘著(美術出版社 2002年) 
 

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写真説明/
帰国し、仕事を再開した頃の松井さん(右)。左は、当時の東京イタリア文化会館長。