連載 What is the Next New Design? 1

デザイナー松井桂三さんとの90分 生い立ち ヒロシマで「アート」開眼

掲載日:2005年2月1日

▲まつい けいぞう 

 

は昭和21年(1946年)京都に生まれ、3歳からオフクロの実家がある広島で育ちました。この時期の広島は原爆抜きに語れません。昭和20年8月6日朝、ピカドンが炸裂した時、オフクロは疎開中で広島郊外の山腹で暮らしていました。爆風で屋外に吹き飛ばされたんですが、庭のゴヨウマツが風を抑えてくれ、助かった。 母の実家は、今の平和祈念公園に近い広島市鷹匠町(現中区本川町)にあり、広い庭に築山まであるような邸だったそうです。祖母は花嫁学校を経営しお茶、お花や着物の裁縫を指導しました。オフクロの嫁入りの際、300着も着物を持たせたそうです。着物に羽織るコートをデザインするようなハイカラなところもあり、「キチンとした身なりをしろ」と躾られました。祖父も金物商を営み、戦中は特需で利益を上げ、羽振りが良かった。自宅でも背広を身に付け、自作の川柳に筆でサラリ絵を添える風流人でした。原爆で邸はもちろん、お金を預けた銀行そのものが無くなってしまった。でも郵便局の蓄えは残ったし、オフクロも富士見町(現中区宝町)で洋菓子やタバコを扱う雑貨屋を営んでおり、暮らしぶりは悪くありませんでした。僕、一人っ子でね、可愛がられました。 

 

時、広島には顔にケロイドのある女性や、火傷で指がくっ付いた人などが多かった。学校近くの川沿いにバラックが並び、友達宅の屏風に「黒い雨」の跡が残っていたり、ビル壁に人の形そっくりの影が焼きついていたり。のちデザイナーになり僕が「反核」をテーマにしたポスターを発表し続ける根には、この時期の印象があると思います。 ただ広島は、「悲惨」一色でもなかった。通りには新築の槌音が響き、復興の機運が溢れていた。街の中央東にある比治山には、進駐軍の肝いりでABCC(原爆傷害調査委員会)という名の、カマボコ型のモダンな施設が出来ていた。外装に木目の化粧板をあしらった車(ステーションワゴン)などが盛んに出入りし、アメリカ文化が一気に流れ込んできました。 

僕もアメリカのスポーツ、野球が好きな小学生でした。周囲と少し違っていたのは、週に一度、小学校の先生の家に通い、水彩画を習っていたこと。手先が器用で、家族が勧めたのでしょう。せっかちで先に塗った絵の具が乾かないうちに次の色を混ぜ、絵を濁してしまったのを覚えています。でも工夫を重ね、市や県のコンクールによく入選しました。中学ではバスケットボールに熱中し、成績も結構良くて絵からは離れてしまった。高校は広島県立広島国泰寺高校です。この学校は創設が明治10年(1876年)にまで遡り、昔は広島一中と呼ばれた県内随一のエリート校。僕も中学ではなかなかの出来でしたが、ここに集まるのは、文字通りの秀才ばかりで、皆、勉強一筋です。当初は僕も頑張ったのですが、どうもがいても上に行けない。「学力」という物差しでは、自分が成り立たなくなってしまった。自分が何が出来るのか、分からず、繁華街に入り浸るようになりました。 

八丁堀という繁華街では、ビリヤードしたり、ボウリングしたり。喫茶店でタバコも吸った。「ミユキ族」ってご存知ですか。あのころ銀座に現れた若者のことで、綿パンにマドラスチェックのボタンダウンシャツ、セメント袋を持つのが流行りでそれを追った。ファッションプロデューサーの石津謙介が大阪で始めた「VAN」をはじめ「JUN」「エドワーズ」といったメーカーのファッションが人気。人とは違うものを求め、自分なりのアレンジを考えたものです。 このころ僕の心を捉えたのが、アメリカの大衆文化です。広島は米軍基地のある岩国から近いでしょ。若い兵隊が八丁堀に遊びに来る。GIカットが格好良い。憧れもあり、ジャズスポットに通い、サッチモ(ルイ・アームストロング)のポスターに見入り、『テイク・ファイヴ』『ハーレム・ノクターン』に聴き惚れる。そんな毎日でした。 

青春のエネルギーを注ぐものが、学校に全くなかったわけでもない。美術部でイーゼルに向かっていたんです。顧問は三登直先生。洋画団体の「一水会」会員で、鳥取の名峰・大山を油彩で描き続けた人でした。木炭や鉛筆のデッサン指導をもらい、果物や花瓶の静物画を描くアカデミックな教育。先生は「おまえ、ムサビ(武蔵野美術大学)」に行け」って言う。自分の母校だったんです。そのうち「アートなら可能性あるかも」と思うようになりました。ただ僕の魂は、美術よりむしろ、八丁堀に花咲くアメリカ文化にあった。何てったって、そっちの方が楽しい。ファッション関係に行こうと本気で思い、東京の服飾学校の資料を取り寄せたこともありますが、在校生の8割までが女の子と知って方向転換。ともかく受験勉強をし、広島大学の教育学部を受けてみました。 結果は、不合格。デッサンなど実技はトップだった自信がありますが、学科に最低点に満たないものがあったらしい。「ヤレヤレ、浪人か…」。溜め息交じりで受験雑誌をめくっていたら、大阪の浪速芸術大学(現・大阪芸術大学)の記事が目に飛び込んできた。何と3月、入試がある。まだ間に合う。「コレだ!」と飛び起きて、オフクロに頼み込みました 

(続く)