レクチャーコンサート第8回講師 三輪眞弘さんインタビュー

レクチャーコンサート第8回講師 三輪眞弘さんインタビュー

掲載日:2005年2月1日

 2003年始まったレクチャーコンサートシリーズ「ピアノはいつピアノになったか?」は、3月19日の第8回「ピアノとテクノロジー」でフィナーレを迎える。講師の三輪眞弘さんは昨年、最も清新で将来性に富む作品を表彰する「芥川作曲賞」(サントリー音楽財団主催)を受賞するなど、脚光を浴びる実力派の作曲家。ピアニストとコンピュータ制御の自動ピアノが"共演"する自作などを紹介、テクノロジーと人間の関係などを話す。三輪さんが教授を務める岐阜県立情報科学芸術大学院大学(IAMAS)の研究室を訪ね、自身の歩みやコンピュータ音楽との出会い、テクノロジー万能時代の音楽の在り方などを聴いた。 (聞き手 サロン編集部 谷本 裕)  

――今回は、自動演奏機能付きピアノが使われ、テクノロジーの進展と共に生まれてきた作品がプログラムに組まれています。コンピュータ音楽を手掛けるようになったのはいつからですか。 
 
ドイツ留学中、ベルリン芸術大学(HDK)からロベルト・シューマン音楽大学(デュッセルドルフ)に転校した1985、6年ごろからです。このころドイツのある国際作曲コンクールで2位に入り、10万円くらい賞金をもらいました。親の仕送りではないし、友人の勧めもあり、以前から興味のあったコンピュータに取り組む手掛かりに、と中古パソコンを買いました。興味はあっても知識は全くなかったわけですが、作曲に向けある種の音列を算出するプログラムを作ることは割合すぐ出来るようになった。その時にはプログラミングが面白くて堪らなくなり、最初の一年半くらいは食べて寝てる以外の時間は殆どすべて、コンピュータに没頭するほど打ち込みました。デュッセルドルフでは、ライヴ・エレクトロニクス(※1)を手掛けていたギュンター・ベッカー先生に就いていたんですが、彼はコンピュータによる作曲は手掛けておらず、手法は独学するしかありませんでした。
 
――テクノロジーを使った音楽には、いつごろから惹かれるようになったんですか。
 
高校時代です。都立の進学校で、満を持してバンドを始めた。名は「ファンタスティック・ミワバンド」。手掛けたのは流行りのプログレッシヴ・ロック(※2)です。僕はキーボードやシンセサイザーを弾き、ライヴハウスや学園祭で活動。近くの一橋大学やセミプロのバンドからも請われ、あちこちのステージに出るようになりました。
 
――「プログレ」で電子音楽に興味を持ったわけですね。そこからどうしてアカデミックな作曲の道につながったのですか?
 
オリジナル作品も作ったんですが、どうも満足できない。僕は「音楽をキチンと勉強してないからだ」と思ってしまったんです。今考えると間違いですが、プログレはクラシック音楽に少なからず影響を受けてますし、僕も幼少期、ピアノを習ってその世界を垣間見ていました。学校近くの国立音大付属高には作曲や音楽理論を学ぶ友達もいました。でも「決定打」はロック雑誌のインタビュー記事。憧れのキース・エマーソン(※3)が、「最も影響を受けた音楽家はベラ・バルトーク」と答えていたんです。ハンガリー出身で20世紀を代表する高名な作曲家。「やっぱりクラシック音楽を勉強しなきゃ」と思い込み、音楽理論を勉強しようと思いました。
 
――進学校では異色の存在だったでしょうね。
 
周囲は大学受験一直線の世界。一方、僕は屈折したロック青年。授業はサボる。成績は最低ラインでしたが、2年の終わりから東京芸大の院生に和声法を習い始め、3年になると芸大作曲科の先生からも対位法、聴音の指導を受け出しました。ところが、そこに集まる芸大志望の同世代の門下生は、謎解きのような転調をする和声の課題を即興でサラリ弾いてのけるような、優秀な若者ばかり。勝負にならない。音大への道は長いことを知りつつ浪人するうち、先輩に「外国に行く手もある」と言われ、いろいろな人のおかげでHDKの先生を紹介してもらいました。
 
――それが、かのイサン・ユン教授(※4)。
 
バッハの対位法を模した曲や、ベートーヴェンを真似たピアノソナタなどを手紙と共に送ったら「力はまだまだだけど、オマエは若い。来るなら来い」との返事。ベルリンなど行ったこともありません。レコードでユン先生の曲を聴き、感激したとソナタなどを手紙と共に送ったら「力はまだまだだけど、オマエは若い。来るなら来い」との返事。ベルリンなど行ったこともない。レコードでユン先生の曲を聴き、感激したというほどではなかったが、純粋に自分を貫く音楽には打たれた思いがした。当時プログレは下火になりつつあった。商業音楽の哀しさをと裏腹に"純な"現代音楽は魅力的でした。他に道はない。先生の気の変わらないうちに、と腹を括った。ドイツ語は殆ど全くダメでしたが、もう無我夢中。入試は半年後。日本の芸大入試ほど難しくなく、先生の後押しもあってか晴れて合格できたんです。
 
――どんなレッスンを受けたのですか。
 
こちらは楽譜の書き方から勉強しなきゃならない段階。曲を書いても先生には「この音楽には実体がない…」なんて言われる。どうすりゃ良いのか見当もつかない。幸い、先生の教室には日本の留学生もいて、先輩から基本を随分教えてもらった。ベルリンでは勉強の思い出しかない。カラヤンがベルリンフィルを指揮した現代音楽シリーズをはじめ多くのコンサートに通いました。ロックも電子音楽もやめてたんですが、ある時、HDKの隣の工科大学に電子音楽スタジオがあることを知った。学外者にも開放され、先輩もそこで作品を作っている。僕も行きたい。先生に相談したら「今は大切な時期だ。時間は大切に使え」。先生は電子音楽が嫌いだった。音楽を神聖なものと捉えていた彼には恐らく、近代テクノロジーは不釣合いに感じられたのでしょう。それで僕も暫く自粛しましたが、先生が退官の時期を迎えた。転校を決め、コンクールに入賞したのは、ちょうどこのころです。
 
――転機でしたね。
 
思えばベルリン時代は鬱々としていた。頭に浮かんだ音符を3つ、五線紙に書いた途端「この組み合わせは既にだれかが手掛けている」と進めなくなる。現代芸術特有の自己批判、自滅です。でもコンピュータを使えば、「しがらみ」から解放されると感じたのです。
 
――作曲にコンピュータをどのように使うのですか。
 
コンピュータ音楽といえば新しい音色を生み出す、音響合成(※5)などへの取り組みが主流ですが、僕は自分の、音楽上のアイデアや概念を純粋に表現するため、それに要する規則や条件をコンピュータプログラムとして開発する。プログラム開発は一つの「閉じた世界」の創造。その意味で伝統的な作曲行為と似ているんですが自分の組んだ「仕掛け」を動かしてみると、思いもよらない音の組み合わせが生まれることが少なくない。「これこそ自分の音楽」。劣等感に悩んできた僕が、初めてある種初めてある種の確信を持てるようになった。
 
――周囲の評価はどうでしたか。
 
88年、デュッセルドルフで卒業作品として書いた≪赤ずきんちゃん伴奏器≫が、非常に高く評価してもらえた。メゾソプラノと自動演奏ピアノのための作品で、歌手の歌を基に、コンピュータが同時並行的に伴奏パートを生成していく。卒業作品といえば管弦楽作品が一般的で、戸惑った先生もいたが、特別に認めてもらえた。その後も再演の話が次々と続き、コンピュータ音楽を学ぶ学生も増えてきて、僕は母校の講師になった。
 
――コンピュータ音楽に携わって20年。三輪さんにとってコンピュータとは?
 
僕が完全に支配できる「道具」とは思えない。逆に、本来使い手である人間が支配される危うさも孕んでいると思います。今の社会は、人間がテクノロジーを使っているなんて状況ではなく、逆にテクノロジーのために人類が生きているような状態になってる。コンピュータ音楽は僕を自由にしてくれたし、可能性を広げてくれたことも間違いないのですが「人間の分」を超えてしまいそうなテクノロジーの在り方には、ある種の「畏れ」を感じてもいる。音楽で最も大切なものとして最後に残るのは、やっぱり「人間の身体」なんじゃないか。コンピュータ音楽で「身体」から限りなく離れた僕が言うのは倒錯してる面もあるんですが。
 
――「人間とテクノロジーの関係」。興味深いテーマです。
 
例えば今回の公演でナンカロウが書いたピアノ曲を取り上げます。人の指では到底押さえ切れない数多くの鍵盤も自動ピアノなら鳴らせる。何通りものリズムを同時に演奏するのも、機械なら可能です。この曲が想定していた自動ピアノは本来、コンピュータ制御のピアノでなく、巻き紙に穴を空け、それに空気を通すことで鍵盤を操作したロールピアノ。デジタル時代から見るとアナログ思考の、可愛い曲です。とはいえ、ピアノも元々は現在のコンピュータに至る、近代西洋の合理的な精神を体現していた。オクターブを12の目盛りに分け、自由自在に組み合わせ可能にした鍵盤は、その象徴。この考え方を推し進めた末、世界を「0」と「1」の組み合わせに分解し、情報化するデジタル技術が生まれたのですから。その意味で、理論上はあり得るが生身の人間では演奏不可能な音楽を実現しようとしたナンカロウの試みは、「楽しむ」「感じる」といった音楽でもある一方で、音楽を「人間の身体」から引き剥がそうとする傾向が見られる。この種の、人の能力を超えた理知的な世界への憧れは音楽史でも昔から脈々と続いてきたものですが、かつて実現困難だった試みの殆どがテクノロジーの発達で、今は易々と可能になってしまった点が重要。それは、圧倒的な力で私たちを捉えるのですが、一方でそれはとても「暴力的」で、時には「異様」でさえある。今回のコンサートは、「テクノロジーが作り出したバラ色の音楽世界」なんて話には絶対ならない。そうではなく、憧れてきたものを手にしたはずの僕たちにとって「音楽」って結局は何だったのか、を問い直すきっかけにしていただけたら嬉しいですね。 

◇みわ・まさひろ◇

1958年東京生まれ。74年都立国立高校入学後、友人と結成したロックバンドを軸に音楽活動を始め78年渡独。国立ベルリン芸術大学で作曲をイサン・ユンに、85年から国立ロベルト・シューマン音楽大学でギュンター・ベッカーに師事。85年ハムバッヒャー国際作曲コンクール(ドイツ)佳作、89年第10回入野賞第1位、91年「今日の音楽・作曲賞」第2位、92年第14回ルイジ・ルッソロ国際音楽コンクール(イタリア)第1位、95年村松賞新人賞、2004年芥川作曲賞など受賞。著書に「コンピュータ・エイジの音楽理論」、オペラ「新しい時代」、インスタレーション作品「またりさま人形」、作品集CD「赤ずきんちゃん伴奏器」、「東の唄」、「昇天する世紀末音楽」シリーズ、「新しい時代信徒歌曲集」「言葉の影、またはアレルヤ」など。

<※1>ライヴ・エレクトロニクス 「生演奏」の電子音楽。電子音楽は当初、スタジオでテープに録音され、そのまま完成するケースが多かった。これに対する概念として「舞台の上で演奏され、生まれてくる」電子音楽をこう呼んだ。楽器の音を電子機器で変調・増幅する、演奏音を録音し生演奏にかぶせる、或いは楽器を用いず発振器など電子機器が生み出す電子音のみを演奏する―などのパターンがあった。

<※2>プログレッシヴ・ロック 1970年代、英国を中心に興ったロック。それまでのロックがギター中心であったのに対し、シンセサイザーをはじめとするキーボードを軸としたサウンドを展開、またクラシックやジャズの要素を取り入れ、複雑なリズム、構造を持ち、高度なテクニックを要する作品も多かった。1曲の演奏時間が30分に及ぶものもあり、大衆音楽として歩んできたロックが芸術分野に進出する契機となった。代表的なアーティストにキング=クリムゾン、エマーソン=レイク&パーマー、イエス、ピンク・フロイド。

<※3>キース・エマーソン(Keith Emerson 1944‐) 英国のキーボード奏者。ロックとクラシック、ジャズの融合を目指したバンド「ナイス」を経て1970年、伝説的なトリオ「エマーソン=レイク&パーマー」(ELP)を結成。シンセサイザーを使った豊かなサウンドと刺激的なパフォーマンスでセンセーションを巻き起こした。ELPは80年、解散したが92年再結成。キース自身も引退を公表後、来日公演を行うなど、活動は断続的に続いている。

<※4>イサン・ユン(尹伊桑 1917‐95) 韓国生まれ。大阪音楽学校(現・大阪音大)でチェロを、東京で池内友次郎に作曲を学ぶ。母国で教壇に立った後、パリやベルリンでさらに作曲を学び、64年からベルリン在住。スパイ容疑で一時、韓国秘密警察がソウルに送還したが、国際社会の圧力で解放され、その後ドイツに帰化した。朝鮮半島の雅楽などアジアの音楽思想を、西洋音楽の前衛的な手法を通じて普遍的な表現に展開しようとした。

<※5>音響合成 1950年代に始まった作曲手法。当初は発振器で音を鳴らし、音を重ねたり、調子を変えたり、合成したりし、極めて微妙な音程を持つ音を作り出したり、それを変化させるなどし、従来なかったあらたな音の世界を生み出そうとした。ケルンの放送局、アメリカのコロンビア大学などに大型のスタジオが設けられた。その後、デジタル技術の発達で、こうした音響合成はコンパクトなシンセサイザーでも可能となった。

 
■ プログラム■
三輪眞弘 《クロマティスト》(2004/2005)
鈴木悦久 《東の唄》~電子音響とディスクラヴィア
(ピアノ+ディスクラヴィア版による世界初演)
バルロー 《variazioni e un pianoforte meccanico》
リゲティ 《終わりの無い柱》
ナンカロウ 《タンゴ?》(1984)
《Study #7, #19》(*)
ライオン 《HANDS OFF HOMEBOY》(*)
(*)・・・自動ピアノ演奏