フルート奏者 藤井 香織さんインタビュー
掲載日:2004年11月12日
11月のティータイムコンサート「フルートの調べ」に出演する藤井香織さんは1998年、若手音楽家の登竜門「日本音楽コンクール」で史上最年少の19歳で第1位に入賞した経歴を持つ。バッハの大作「無伴奏チェロ組曲」をフルートで演奏し、CDデビュー。以後、協奏曲のソロやリサイタルはもちろん、ベルリンフィル首席オーボエ奏者アルブレヒト・マイヤーとのデュオ、ブルース・スターク(ピアノ)らとのジャンルを超えたコラボレーション、そして最近は「ニュー・シネマ・パラダイス」「海の上のピアニスト」などで知られる映画音楽の巨匠エンニオ・モリコーネ(※1)の作品集CDを発表するなど、多彩な活動を展開中の、まさに旬の演奏家だ。
昨秋、発表したCD『ロマンツェ・ディ・モリコーネ』。ローマでの収録の際、モリコーネ本人が立ち会った。藤井さん、かなり緊張したという。
彼のメロディーは実にシンプル。あまりに簡素で、譜面通り吹くか、どんな表情を付けるか迷った。最後は「このまま素朴に表現するのが、自分の良さを一番出せる」と決め、スタジオに入りました。彼の第一印象は寡黙で気難しそうな強面のお爺さん。演奏を聴いて「それで結構。無理に表情を付けず、自然に吹いてくれれば良い」と言われ、ホッとしました。生(き)で勝負する。演奏家には、なかなか難しいことですが、最後に「君は本当のプロだ」と褒めて下さり、嬉しかった。映画音楽は、映像や俳優の台詞と一体になって映画を盛り立てる。独立した楽曲とは違い、「僕が、僕が」という自己主張より抑制の利いた表現が大事。モリコーネが簡素な表現を好むのには映画音楽の、こんな特性が影響してるのかもしれない。私もシンプルな表現が好き。それはデビューCDでバッハの≪無伴奏チェロ組曲≫に取り組んだ際、身に付けた信条。彼と通じるものを感じた瞬間、楽になれました。
バッハの≪無伴奏チェロ組曲≫といえば、チェロの神様カザルスが日々弾き込んだことで知られる大作。デビューアルバムで、しかもフルートで取り上げるのは、かなりの"冒険"だったのではないだろうか。
CDのお話を頂いたのは、日本音楽コンクールで第1位に入った後。一般的にデビュー盤には、著名作品集が少なくない。私はもっとハードなものに挑戦したかった。師のパウル・マイゼン(※2)先生は、バッハの演奏・解釈に打ち込んできた音楽家。私が東京芸大に入った年から、教え始められた。バッハは独奏フルートのためにも無伴奏組曲を残していますが、元はチェロのため書かれたという説もあったりで、同じ無伴奏のチェロ組曲には興味がありました。「バッハは人生経験を重ねなければ演奏できない」と言う人が多い。でも20歳の女の子にだって人生経験はある。40歳の中堅にはないアプローチが出来るんじゃないか、とちょっと反発する気もあった。先生は「どんな解釈も受け容れる広さこそ、バッハの素晴らしさなんだ」と言われていた。プロデューサーも理解してくれました。
どんな準備を重ねたのだろうか。
準備期間は4カ月。最初は呼吸を作り直すことから始めました。弦楽器のボウイング(弓遣い)と同じような音づくりを基本にしたんです。フルーティストは音にヴィブラートをかける。"衣"を取り去った時、"裸"の音がストレートに、美しく鳴るように整えなおさなくてはならなかった。この時、マイゼン先生がくれたヒントは、風のイメージ。地面に転がった竹が風に吹かれ、音を出す。湖の上、ゆらゆら揺れていたヨットが、スーッと波を切る。そんな自然な音を出せ、と。もちろん、作品研究も随分しました。組曲はアルマンドやサラバンド、メヌエットといったバロック時代の宮廷舞踏曲で出来ている。基となったダンスを先生と踊ってみました。またバッハの曲をジャズにアレンジしたピアニスト、ジャック・ルーシェの演奏も聴いた。ダンスに欠かせない「スイング」の楽しさを体得するためでした。
フルートは管楽器。息を継がないと物理的に音が出なくなる。この作品には弦楽器向けのためか、休符が極端に少なく、息継ぎが難しい曲もある。一体、どう対処したのだろうか。
この作品は、さまざまな種類の楽譜が出ている。版によってスラーやスタッカートなどのアーティキュレーション(一つひとつの音符をどう演奏するかについての指示)が微妙に異なり、それが息を継ぐ際に大切なフレーズ(楽句)づくりに直接、影響する。さまざまなファクシミリ(手書きの楽譜の写し)を確かめたところ、バッハの妻アンナ・マグダレーナの譜が、最も自然に息が取れ、フレーズも作り易い。当初はチェロの演奏を意識するあまり、素早くブレスを取りテンポを保って演奏しようとした時期もあった。でも真似をしても仕方ない。チェロ奏者から「われわれは呼吸を忘れてしまいがち。フルートで演奏することは、音楽に"息吹"を取り戻す上で、意味が大きい」と言われ、吹っ切れた。残り2カ月は、それまでの訓練と研究を土台に、出来る限り自由に、管楽器奏者の立場で組み立てていった。先生の教えは「知性を感性に変える」。頭で考えた音楽を、心で奏でてこそ音楽は生きる。その教えを実践する、貴重な経験でした。
正に二人三脚。藤井さん自身、「あのCDは共同作業の成果」と言うほどだ。
すぐには解けない課題を前に、多い時は週に2、3回、先生と頭を突き合わせ、創り上げる過程が楽しかった。丸4カ月、バッハに浸りきり。録音を終えた時は、味わったことのない充実感がありました。バッハはあまり好きではなかった。バロックの大御所で、解釈・演奏に決まり事ばかり多いような気がしていたからですが、このプロジェクトを通じ、彼の音楽の深さを知りました。マイゼン先生には本当に感謝しています。
こうした優れた師との出会いが、藤井さんの成長を促してきた。彼女の歩みをたどってみると―。
フルートを始めたのは、小学6年の秋。家は4人家族で父がクラリネット奏者、母がピアニスト。姉も3歳からピアノを習っていた。私も一時、父の誘いでクラリネットをかじったんですが、移調楽器のため楽譜に記された音と、楽器から出る音(実音)の高さが異なる。幼い頃から周囲に音が溢れていたためか、私は絶対音感があり、この差に馴染めず止めてしまった。ある時、家族が小さな音楽会を開いたんです。本番が近付くと家でリハーサルが続き、話が食卓に持ち越されてくる。私一人カヤの外。取り残されたみたいでイヤでした。姉が中学の時にブラスバンドで吹いていたフルートが使われないまま家にあったので、始めることにした。10日ほどは音が鳴りませんでした。
基礎を習ったのは?
三上明子(※3)先生です。毎週、練馬までレッスンに通いました。最初、フルートはオモチャ。褒められるのが嬉しくて、よく練習しましたよ。中学2年の終わりごろ、先生の勧めで芸高(東京芸術大学付属高校)受験を決めました。10人受け、合格は2人。入学後は朝6時前には電車に乗り、学校でまず1時間吹いて授業に。帰宅した後も3、4時間はさらったかなぁ。毎週のレッスン、試験、そしてコンクール。目の前の目標に向かい準備を重ねる毎日でしたが、もう少し長い目で、演奏家として生きる意味を考えるようになったのは15歳の夏休み、スイスのウェギスでジェームズ・ゴールウェイ(※4)のマスタークラスを受講したのが、きっかけだったと思います。
輝く音色と、完璧なテクニック。独特のショーマンシップで知られる名手。どんなレッスンだったのだろう。
「カオリ、凄く上手いけど日本人みたいな演奏は、やめてくれヨ」。茶目っ気たっぷりで、キツイことを言う。私がふだん練習していたのは、6畳間。ヨーロッパの家に比べ狭いだろうし、天井も低い。無意識に、小さな空間の中で良く響く音や演奏を目指していた。現実のコンサートは、舞台は広いし、譜面台の向こうにお客様がいる。「音楽家は相手あっての職業。自己中心的な演奏を披露するのでなく、人に見せなければ、また聴かせなければいけない。もっと外に向かって吹きなさい」。広い空間感覚を持つと同時に心を開き、人に訴え掛けろ、という指摘でした。演奏家は指遣いやブレスに気を取られると、音楽が縮む。チケットを買い、わざわざ電車でホールに来るお客様は、部屋でCDを聴くのとは違った「体験」を何か求めてる。そんな思いに応えるのが演奏家。実際、ゴールウェイほど聴衆を惹き付けるフルーティストはいない。プロを目指す上で最も大切な姿勢を、若い時期に学べたと思っています。
フルート界の巨匠と言われるオーレル・ニコレ(※5)にも指導を受けた。
夏、イタリアのキジアーナ音楽院で開かれているマスタークラスでした。こちらは芸高3年の時から通うようになりました。巨匠っていうと、どうも気難しい人物を想像してしまう。不安を抱えオーディションに臨みました。合格すれば受講生としてレッスンを受けられる。落ちたらレッスンを見るだけの聴講生。天下の分かれ目です。会場にはダヴィデ・フォルミザーノ(スカラ・フィル首席)、タティアナ・ルーラント(ドイツ・シュトゥットガルト放送響同)ら、ヨーロッパの猛者がいっぱいで、ニコレとおしゃべりしてる。私は新参者。気おされましたが、何とか合格できた。レッスンを受けると、彼の印象は大分違った。70歳を超え、堅苦しいレッスンに飽きてるようで、見たこともない現代曲の譜面や、一風変わった音階を突然演奏させては生徒の度胸試し。最初の年、私は習いたい曲を絞って準備していったんですが、「コレはつまらん。オマエ、あの曲出来るか?」。残念ながらお手上げでした。彼から音楽を吸収するには、完璧ではなくても、そこそこ演奏出来る曲を山のように持って行くのがポイント。2年目からはお陰でレパートリーが随分広がりました。飾らない人で、お酒が大好き。昼食時、ワインを2本空けてしまう。笛吹きには珍しいヘビースモーカー。1レッスン終わるとタバコ休憩。はじめは私、敬遠してたんですが、喫煙者の生徒だけがニコレと話が出来てしまう訳です。エーイ。私も喫煙者になりました。「タバコ吸うようになって、オマエも上手くなったナ」ですって(笑)。
演奏活動の傍ら、藤井さんは2001年秋から安田文化財団、ついでロームミュージックファンデーションの助成を得、シュトゥットガルト音楽大学のソリスト課程で学び、2004年5月卒業。師はジャン=クロード・ジェラール。フランス出身でパリ音楽院に学び、パリ国際フルートコンクールで優勝。パリ・オペラ座管、ハンブルク歌劇場、バイロイト祝祭管の各首席を務めた名手。オペラで身に付けた独特の「華」があるフルーティストだ。
ジェラール先生に習うことは、マイゼン先生からも勧められた。渋く、質実な音楽性を持つドイツ的な音楽性の演奏家たちとは、また違った持ち味がある。これまで簡素な表現を基盤にしてきた私にとっても、新たな音楽との出会い自分の演奏スタイルとして、新たに華やかさを修得し、ソリスト課程を終えた今は、どこか海外のオーケストラで活動してみたい気もする。フルート音楽だけでなく、ベートーヴェンやブラームスの残した管弦楽の素晴らしさを、体験してみたい。ジャズとのクロスオーバーなど、ジャンルを超えた演奏で、自分の世界を広げていきたいですね。
【取材協力:ジャパン・アーツ】
<※1> 1928年ローマ生まれ。サンタ・チェチーリア音楽院で作曲を学ぶ。「夕陽のガンマン」「荒野の用心棒」はじめ、イタリアの西部劇映画(マカロニ・ウェスタン)の音楽で頭角を現しアニメ、SF、ロマンスなど多様な映画に作曲。代表作に「死刑台のメロディ」「エーゲ海に捧ぐ」「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」ほか。純音楽作品も数多い。
<※2> 36年ハンブルク生まれ。デトモルト音大でクルト・レーデル、チューリヒでアンドレ・ジョネに師事。ミュンヘン音楽コンクール優勝。ハンブルクフィル、バイエルン州立歌劇場管弦楽団首席を務めデトモルトとミュンヘンの音大教授、96年から東京芸大客員教授。
<※3> 53年東京生まれ。林りり子、吉田雅夫、マルセル・モイーズ、オーレル・ニコレらに師事。80年ブダペスト国際コンクール優勝。フランツ・リスト室内管弦楽団、ルツェルン祝祭弦楽合奏団に招かれるなど海外でも評価を得ている。東京芸大、上野学園大学で教鞭を執る。
<※4> 39年ベルファスト生まれ。英王立音楽院からパリ音楽院に進み、ガストン・クリュネルに師事。ロンドン響、ロイヤルフィル首席を経て"帝王"カラヤン時代のベルリン・フィル首席を務めた。75年以降、圧倒的な技術を持つソリストとして国際的に活動中。
<※5> 26年ヌシャテル生まれ。チューリヒ音楽院でアンドレ・ジョネに、パリ音楽院でモイーズらに師事。トーンハレ管などを経て50年、フルトヴェングラー率いるベルリンフィルの首席に。59年辞任。幅広いレパートリーと深い音楽性を持つソリストとして知られる。