ピアノ修復師山本宣夫さんインタビュー(下)
掲載日:2004年10月1日
レクチャーコンサートシリーズ「ピアノはいつピアノになったか?」に度々、楽器を提供してくれた「フォルテピアノ ヤマモトコレクション」代表・山本宣夫さん。その歩みを辿る連載最終回は、ピアノ発明者として知られるバルトロメオ・クリストーフォリ(イタリア 1655-1731)が作った、18世紀の楽器を山本さんが復元する過程を描く。ウィーンの名門ピアノメーカーで研修、オーストリア国立芸術史博物館で古楽器修復の修業を積んだ山本さんにとって「世界初のピアノ」復元は不思議な出会いや偶然が齎(もたら)した、一世一代の大仕事だった。
クリストーフォリは、フィレンツェの大富豪メディチ家に仕えた楽器製作家。当時の主な鍵盤楽器は、弦をはじいて音を出すチェンバロと、金属のヘラ(タンジェント)で弦を叩いて鳴らすクラヴィコードの2つ。チェンバロは強弱の変化を、クラヴィコードは十分な音量を出すことが出来なかった。彼は、弦をハンマーで叩くという新方式で難点を解消したのである。楽器の名は、「グラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」(ピアノとフォルテが出せるチェンバロ)。これこそが現代のピアノのルーツだ。
確認されている彼のピアノは、世界に3台。ニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵されている1720年製と、ローマ楽器博物館の1722年製、そしてドイツのライプツィヒ大学博物館にある1726年製。ピアノ技術者にとっては、生涯に一度は見たい"宝物"。しかし観光客として外見を眺めるのはともかく、内部まで確かめるのは、簡単にはできない。ところが、このうち2台を調査する機会がやって来た。契機は1995年11月、ウィーン芸術史博物館で開かれた会議。かつて作曲家シューマン夫妻が所有し、のちブラームスの許に移ったピアノの修復について、オーストリア、ドイツ、オランダの主な楽器博物館の修復家十数人を集め、論議した。その中に、ライプツィヒ大学古楽器博物館館長のエスチナ・フォンタナ氏がいたんです。憧れの楽器に繋がる、千載一遇のチャンス。会議の合間、意を決しクリストーフォリの調査を申し出たところ、快諾してくれた。OKが出たのは、ウィーンの博物館で仕事を重ねていたことが大きかったと思う。翌年1月、お邪魔する約束を取り付け、心が躍るようでした。そして翌月、今度はメトロポリタン美術館の楽器部主任修復家ステュアート・ポーレンス氏が芸術史博物館を表敬訪問して来た。クリストーフォリ研究家として世界的に知られる人物。僕もこのウィーン滞在中、ケルントナー通りの老舗楽譜商「ドブリンガー」で、彼の分厚いクリストーフォリ研究書を買ったばかり。その本人が目の前にいる。「渡に船」。調査をお願いし、こちらも了解を得た。僕は当初、クリストーフォリを復元するつもりなどなかった。寸法を測るなどして2台を比べ、打弦機構(アクション)の模型を作りたいと考えていただけでした。
明けて96年。正月早々、山本さんはウィーンとライプツィヒ、ニューヨークを往還、併せて700枚もの写真を撮影するなど、両方の楽器を調べた。
ニューヨークの楽器は「世界最古のピアノ」として知られていた。でも、オリジナルの部分はほとんど残っていない。ポーレンスが著書に記していた通り、ハンマーはクリストーフォリ独特の、羊皮紙を筒状に巻いたものではなく、木芯に革を巻きつけたタイプでした。恐らくある時期、楽器を所有した人物が大きな音を求め、改造したと思われます。鍵盤の数は製作当時と同じでしたが、音域は鍵盤5つ分、高い方に変えられていた。その後、音を響かせるための響板も交換され、駒の位置や弦、ハンマーも別時代のもの。一方、ライプツィヒの方は9割方がオリジナル。2台を比べ、もしクリストーフォリが生きていたら現状をどう見るかか、などと思ううち、本来の姿で、演奏もできる楽器を、自ら復元したいという気持ちが、どんどんどんどん膨らんできた。それは間もなく単なる「願望」を超え、僕の「使命」という気持ちにまでなっていった。
とはいえ、修理、製作、修復を手掛けてきた山本さんにとって、古楽器の復元は初の試み。どちらを手本とするかは大きな問題だっただろう。選んだのは…。
ライプツィヒです。芸術史博物館で修復に携わる中で学んだのは、具体的な技術もさることながら、歴史的な楽器を扱う心得でした。歴代、楽器を所有した人々が、自分の望む姿に改造したのは自然な行為。しかし、本当の復元を目指す場合は、"原点"に遡ることこそが不可欠。例えそれが、現代人の耳には音量や響きの面で物足りなくとも、当時の楽器の性格を取り戻すことが大切なんです。翌97年、改めてライプツィヒに足を運び、今度は復元を前提に、さらに念を入れ調査しました。博物館には、ピアノのエックス線撮影資料が多数あったことも分かり、復元に活用させてもらえることになった。ここには、クリストーフォリ独自の巧みなアイデアが捉えられていた。例えば、弦の音を響かせる「響板」に見られた二重壁構造。ピアノの弦は普通、強い力で引っ張られる。この張力の負担を響板に伝えず、緩やかな状態で共鳴させるための、天才的な工夫がなされていた。実はボクより前に、ライプツィヒの資料を基にドイツ人修復家が復元に取り組んでいた。 その作業拠点フィレンツェまで行きました。実に立派な仕事で、大きな刺激を受け、堺に戻りました。
こうして資料は揃ったが、問題は材料調達。製作当時の木材を入手するのは難しいが、何とか同種の木を使うのが山本さんの願いだった。
クリストーフォリがピアノを発明した1700年代、イタリアではチェンバロやフォルテピアノの響板にサイプレス(イトスギ)が使われることが少なくなかった。「ノアの箱舟」に用いられたともいわれている"聖なる木"なんです。今はヒノキやトウヒが殆ど。知り合いの木材業者に頼んでも、良いイトスギが入手できず、切羽詰まって芸術史博物館の上司アルフォンス・フーバーに電話した。嬉しいことに、ウィーン郊外の実家の屋根裏にあると言うんです。20年前ほど前、彼がチェンバロ用に求めたものでした。飛行機で取りに行き、長さ2㍍強の丸太を厚さ10㌢ほどの板3枚にスライスした。帰途、機内には持ち込めない。荷物室は湿度・温度が激しく変わる。影響を避けるためサランラップで巻くなどして、慎重に持ち帰った。
本体向けのポプラも必要だった。木そのものは、日本の木材店に有るには有る。しかし乾燥の状況などが、楽器向けには適さないものばかり。
途方に暮れました。そのころ、僕はここ(堺市大美野)に「スペース クリストーフォリ 堺」を開いたばかり。設計した建築家に相談してみた。彼は京都大学出身。学内に木質化学研究所があるという。そこの野村隆哉先生(2003年退官)を紹介してもらって訪ねると数年前、燻煙熱処理乾燥の技術研究でイタリアから取り寄せたポプラがあった。既に実験が終わり、用済み状態で資材置場に野積みされているのを見て、信じられない気持ちでした。鍵盤にぴったりのクリ材まで見つかり、何と無償で譲って下さることになった。喜び勇んで早速翌日、トラックですべて引き取りました。
復元に着手したのは1998年8月。
底板はじめ、楽器の外側づくりは順調でした。最も苦労したのは鍵盤の、打弦機構の調整。音づくりと直結する "仏に魂を入れる"工程です。図面通りに再現しても、弾き心地がうまく出ない。微妙なタッチの差が確実に音に反映されなくては、"元祖ピアノ"の看板が泣きます。現代ピアノの修理に長く携わってきた経験から、演奏家の求める感覚は分かる。あれこれ試してみたのですが、妙案なく作業はストップした。でもある夜、ベーゼンドルファーの修業時代のように、また夢を見たんです。ピアノは、ハンマーで弦を打ち音を出す。一度、弦を叩いたハンマーを弦から避(よ)けるための装置が内部にあるんですが、この取り付け角度を少し変えたら、ニュアンスが出る。翌朝、実際試してみたら、うまく行きました。僕は若い時代から仕事の課題を考えながら床に就くんですが、この一件はやっぱり不思議な気がしました。こうした音づくりに結局、4カ月を費やしました。他の仕事は後回し。寝る間も惜しみ、体重が3㌔減ったほどです。99年4月、やっと完成しました。
翌5月。山本さんは復元なったクリストーフォリを携え、最初の修業を積んだ楽器の街・浜松に向かう。「ピアノのその仲間たちの世界大会(The International Piano Technicians Meeting)」が開かれるのに合わせ、展示出品を求められていたのである。
ピアニストの小倉貴久子さんがデモンストレーション演奏をしてくれた。チェンバロに似た繊細な音色が、関係者には大変な驚きだったようです。コンサート後、会議に参加中のイタリア人に話し掛けられた。同国の調律師協会の役員で、「翌2000年、欧州の技術者が集まる会議がある。楽器を持って来てほしい」と、思わぬ招待です。復元した私は日本人ですが、クリストーフォリの楽器はイタリア生まれ。 "里帰り"に、縁を感じました。
◇1990年ユーロピアノコングレス2000の一環として行われた、
クリストーフォリピアノのコンサート。ピアニストの小倉喜久子さんと山本宣夫さん=イタリア北部のカヴァレーゼ公会堂◇
そして一年後。山本さんは北イタリア・トレンティノ州のリゾート地に赴いた。国際会議「ユーロピアノコングレス」には22カ国から300人ものピアノ技術者が集まった。
東洋から来た復元楽器を、人々は快く賞賛してくれた。展示場で世界の仲間からの質問に答えているうち、歩んできた道を思い、不覚にも男泣きに泣いてしまいました。コンサートでも聴衆の好奇心が手に取るように伝わって来、それまでの苦労が報われた気がした。クリストーフォリも、草葉の陰で喜んでくれたと思います。イタリアの後は、ウィーンに遠征。芸術史博物館でも2カ月間展示し、かつて僕が古楽器の音色に衝撃を受けた新王宮大理石の間で、コンサートを開きました。夢を追った青春時代、この街で夢中で身に付けた技を土台に心血を注ぎ、出会いと、多くの人々の支えで遂げた復元。その成果を他ならぬウィーンでお披露目できたのは、実に実に、感無量でした。この時、アルフォンスが掛けてくれた言葉は一生、忘れません。「ノブオ、これからはオレのことをもうマイスター(親方)と呼んでくれるなよ。オレとオマエは、きょうから対等の『仲間』だからな」。
あれから5年。クリストーフォリ復元を推し進めた「力」を、山本さんは忘れることができないという。
材料の確保一つとっても、「奇跡」としか言いようがない。夢の中で難題を解いたことも、話が出来過ぎています。神がかったことを言うようで恐縮ですが、目に見えない大きな存在を、こんなに強く感じたことはありません。ベーゼンドルファーでの研修も、博物館での修復修業も、ライプツィヒやニューヨークの関係者との接触も、すべて自分の意思で主体的に夢を追っていたつもりです。でも今振り返ると、すべてが"仕組まれていた"。真の復元を求める、不思議な力が働いていたと思えてならない。クリストーフォリの偉大さについては、日本はもちろんイタリアでも評価が遅れている。"生まれ変わり"を自任する僕としては、復元した楽器を活用し、彼のピアノの素晴らしさを訴えていきたい。そして古くて、しかも新しい音楽の姿を、演奏家や聴衆の方々が気付いてくれる手助けをしたいのです。これからの時代も、ピアノは姿を変え続けます。コンピューターの影響も、大きくなるでしょう。でも、いにしえの楽器にこそ、未来の音づくりのヒントがあると僕は信じています。これからの半生に一体何が仕組まれているのか、楽しみです。
(構成:サロン編集部 谷本 裕)