筝曲家沢井一恵さん インタビュー
掲載日:2004年1月26日
――ボーダーレスな時代を象徴する活動ぶりですね。学生時代から、多様な音楽に目を向けていたのですか。
とんでもない。私が通ったころの東京芸大では、八橋検校(※3)以来の古典と宮城先生以外の邦楽作品は原則、演奏御法度。ピアノやヴァイオリンなど西洋音楽専攻の学生とはあまり交流もなかった。ジャズの流行していた時代で、いろんな音楽を耳にしてはいたけれど、西洋とそれ以外の世界の音楽、また邦楽との関係を真剣に考えていたわけじゃありませんでした。ただ、私は子どものころから、お筝で世界の様々な楽器と同じ土壌の上で邦楽に取り組みたい、と漠然と思っていました。普通のお筝は13本しか絃がない。例えばピアノと比べれば、音域は圧倒的に狭いし、音量も出ない。そんな不便な楽器と分かっていながら、そんな空想をしちゃうなんて、元々ちょっとアナーキーなところがあったのかしらね。
――津軽三味線の吉田兄弟や、篳篥の東儀秀樹といった人たちの登場などで、今は邦楽も脚光を浴びつつありますが、以前はどんな位置付けでしたか?
西洋音楽の教官、演奏家たちに、邦楽を低く見るきらいが無かったとはいえない。外に放送や録音の仕事に行っても、「エッ、お筝もチューニングがあるんですか?」なんて言われたりで、邦楽は一つの音楽ジャンルとして認められていなかった。でもね、ヨーロッパで生まれた西洋音楽がバッハの後、モーツァルトやベートーヴェン、ブラームス…と、展開してシェーンベルク(※4)くらいまで時代が下ってくると、もう西洋だけでは新しい音楽を生むことが難しくなりました。そんな状況を受け、アメリカでは禅の思想に影響を受けたケージ(※5)が偶然性を取り入れた作品を書き、ライヒ(※6)はアフリカの民族音楽に影響を受けたミニマルミュージックを生み出すようになったんです。西洋に異文化を取り入れることで、新たな創造を探る営みが始まったわけで、作曲家の一柳さん(※7)たちがケージをはじめとするアメリカ楽壇の動きを日本に紹介された。日本は明治維新以来、西洋文化を取り入れてきました。近代化の中で着物や畳など日本の伝統を少しずつ捨て、公的な音楽教育も長く西洋中心でしたよね。でも西洋で新たな動きが起こった時も、日本では自分たちの足元にある異文化、つまり邦楽をすぐに見直したわけではありませんでした。東京芸大は歴史的に、ドイツ・オーストリアの音楽を教育の中心に据えていたことも、あるいは関係していたかもしれません。
――でも、徐々に変化はしてきましたよね。
今になって考えると、武満さん(※8)の名曲「ノヴェンバー・ステップス」(※9)のニューヨーク初演の成功が大きな契機になったと思います。邦楽器である琵琶と尺八を西洋のオーケストラと対峙(たいじ)させた画期的な作品で、この曲の海外での評判が日本の中での邦楽再評価を促したと思います。西洋音楽は、例えばベートーヴェンの「運命」が良い例ですが、時間の流れの中で発展・構築していきます。邦楽は違う。時を斬る、あるいは空間を切り取り、その切り取った時空に美を込める・感じ取るという日本の精神性が根本にある。簡単に言えば、「間」ということになるのかなぁ。沈黙や静寂に、途方も無い緊張感を漲らせて美しさを表現することがあって、これは西洋の音楽とは著しく異なる点です。「ノヴェンバー・ステップス」には、邦楽の美の核心ともいえる精神性が、見事に描き込まれていました。武満さんの思い描いた世界を、琵琶の鶴田さん、尺八の横山さんが再現したことも嬉しかった。彼らは邦楽界で水準の高い仕事をしていた仲間でしたから、「お筝にも可能性があるんじゃないかな」と大きな励みが出来ました。
――それで、今のような活動に踏み出したわけですか。
いえ、そうでもないんです。実は私、結婚して暫くは外でお筝を弾かなかったんです。新婚のころ、夫は仕事もお弟子も少なく、生活が大変。時間だけはいっぱいあったので、彼と一緒にいろんな曲を練習できたのは良かったですが、当時は「一生、この人を裏で支えていこう」と考えていました。そのうち、彼が好きなジャズやバロック音楽をお筝で弾いたレコードを出したり、「違いの分かる男」の一人として作家の遠藤周作さんや、指揮者の岩城宏之さんらと共にインスタントコーヒーのCMに起用されたりする中で、邦楽界だけにとどまらない評価を徐々に広げました。筝曲家として名実ともに独立するまでに10年以上かかったんじゃないかしら。その間、私は自分のやりたいことを彼に託していました。オーケストラなどとお筝の協奏曲ばかり3曲も弾く「沢井忠夫 Koto Concerto」(1980年、東京・日本青年館)などを次々に提案し、しまいには「これ以上、走らさんでくれ」と言われたほどでした。夫は筝演奏家と並行して、作曲家としてフランスやロシアの近代音楽に影響を受けた邦楽作品を数々、創り出していきました。作品発表公演などには、私も伴奏者として出演するようになり、76年からは夫婦でデュオリサイタルを開いてもいたんですが、夫の音楽を再現するのはヤッパリ彼が一番なわけです。そのうち、私も一人の演奏家としての証(あかし)が欲しくなり、このころ、初めての単独リサイタルを開きました。要するに、夫をずっと陰で支え続けられるほど、自分は謙虚な人間ではないことに気がついたわけです、アハハハハ…。でも、一番、応援してくれたのは夫でしたよ。
――それからはどんな活動を?
同じころ、ピアニストでもある一柳さんと、打楽器の吉原すみれさんとで組んで「トライアングル・ミュージック・ツアー」を始めました。お筝の加わった、当時としては異色のトリオ。ホント言うと私、最初は半信半疑だったんです。一柳さんは、日本的な「侘び寂び」の薫りを、音楽に添えたいだけなんじゃないか…なんてね。でも、一緒に全国を回り、普段は邦楽に馴染みのないお客様から喝采を受ける中で、「お筝には思ってた以上に人を動かす力があるんだ」という手応えを得ました。もう一つ、自信になったのは、小澤征爾さんが音楽監督だったボストン交響楽団主催のタングルウッド音楽祭(米マサチューセッツ州)に夫ともども招聘され、演奏したこと。入野義朗さんがお筝やヴァイオリン、ピアノなどのため、シェーンベルクばりの12音技法で書いた合奏曲でした。終演後、小澤さんがアメリカの作曲家を連れて楽屋に来られ、「今コイツらにエライ怒られたんだ、日本にはこんなに素晴らしい楽器や音楽があるのに、セイジはなんで西洋音楽をやってるんだって言われてサ」とおっしゃったんです。そのころ、公的な国際交流で海外に派遣された時、演奏するのは古典が中心。紋切り型の日本情緒の繰り返しになりがちで不満でしたが、タングルウッドでは「今、生まれ出てくる音楽に、お筝で携わることが出来るんだ」とハッキリ分かりました。「ノヴェンバー・ステップス」でもたらされた励みが、「この楽器で世界でやっていける」という確信に変わった瞬間でしたね。
――音楽の現場で得た実感が、沢井さんの試みを裏付けていってくれたんですね。
別の意味で、視野を本当に広げてくれたのは作曲家の高橋悠治さん(※10)です。例えば、お筝の楽器としてのルーツについて。筝曲の始祖は、一般的には八橋検校とされていますが、もちろんそれ以前からお筝はありました。日本に渡来したのは奈良時代。それ以前も、中国の唐や後漢王朝にまで遡ることができる。私は、最初にお筝を弾いたのは北京原人に違いないと一人で勝手に想像してるんです。枯れ木に蔓(つる)が絡まっていて、それを弾いた瞬間、お筝は生まれた。現在のお筝は、これ以上、張力をかけると龍甲(お筝の表面の板)や龍腹・龍骨(背面の板)が壊れかねないほど強い力で絃を張っている。このお陰で、強い音も出せるけれど、それはある意味では金属的な音色でもあるんです。昔は、果たしてどうだったのか。絃は今よりは撓(たわ)んでいて、「ブヨンブヨン」というような音がしたんじゃないでしょうか。爪も使わなかったでしょうしね。アフリカのブルンジにそんな音の筝があるんです。いつかそれを訪ねて弾くのが、私の一つの夢です。こうなると、歴史的、地域的に近世以降の日本だけでお筝のルーツを捉え、伝統を考えるのには疑問が出てくるでしょう? 長い時間の中で、そして広大なアジアの中で、お筝を捉え直すことがいかに大切か、悠治さんの音楽に出会って、考えずにはいられなくなりました。また、「なぜ音楽が生まれたか」を、じっくり考えるきっかけをくれたのも悠治さん。音楽は、例えば、人間が自分の内側の叫びを表現する方法の一つですし、また祈りを表すために楽器があったりする。現在の西洋の芸術音楽のように「ホールで鑑賞する対象」としてだけで音楽を捉えるのではなくて、もっと生活に強く結び付けて考えることも重要ですよね。新しい音楽を考えることは、始原に帰ることと表裏一体。まさに温故知新です。根源を突き詰める作曲家と出会えたことは、本当に幸せでした。
――「伝統」を問い直す視点ですね。
時間の中で洗練されてきた古典は、もちろん大切なもの。私も大好きです。でも、古典を取り巻く「誇り高い伝統」という空気の中に安住していたら、邦楽には行き場は無くなるのではないでしょうか。ルーツを学ぶ一方、新しい試みの中で音楽を追求する姿勢を持たなければ、情報社会の中で、「伝統」は力を失ってしまう。以前、ニューヨークでジョン・ケージの作品展に行った際、演奏されていたプリペアードピアノの音色や躍動感がとても印象に残りました。彼から「3つのダンス」という作品の譜面をいただいて、私も"プリペアード筝"を作って演奏してみました。割り箸を絃に挟み込み、独特の音色を出す、恐らくお筝としては初の試み。ニューヨークの現代音楽祭「Bang on a Can(バン・オン・ア・カン)」で発表し、ケージからは「新しい生命を吹き込んでくれた」という意味の詩を贈られました。
――「古典一筋」で邦楽に携わっている方から見れば、あるいは "アナーキー"に見えるかもしれません。
今、ウチには50何代目かの内弟子さんが居ます。多くの生徒さんを育ててきて私、思うんですけど、大体40歳過ぎて、殆どの人は"大人"になれる。でもね、私はダメなの。いつも自分にとって、未経験なことばかりを探して歩いているようなところがある。あちこち飛び回って、いろんなジャンルの演奏家と共演したり、新しい曲を書いてもらったりして、新しい刺激を受けると、「ああ、生きてて良かった!」と実感できるんです。10年ほど前、「アナタ、まるで12歳デスネ」とあるアメリカ人音楽家に言われたんですが、ずっと変わらないでしょうねぇ。。。
――忠夫さんから「邦楽界のじゃりん子チエ」と呼ばれただけのことはありそうです。出会いは、尽きませんね。
ロシアの作曲家グバイドゥーリナ(※11)は1989年の初来日の折、お筝を聴くためにこのスタジオに来ました。夫の作った「焔(ほむら)」などを演奏したところ、食い入るようにお筝を聴いてくれました。グバァちゃん(難しい名前なので、こう呼ばさせてもらっています)が東京滞在の一週間の間に、ちょうど筝とオーケストラのコンチェルト、即興演奏などを含む舞台が3つ続いたので、それも聴いてもらいました。帰国後、お筝のための七重奏曲を書き下して送ってくれました。その後、パリでCD録音の合間に「いま、協奏曲の委嘱を受けてるんだけど、お筝のために書くから弾いてくれるか」という。「喜んで!」と言いましたが、彼女は今をときめく大作曲家。私のマネジャーさえ「何かのマチガイでしょう」なんて言ってました。後でNHK交響楽団の委嘱作品だと分かったんです。オーケストラとのリハーサルに臨んだ時は、指揮のシャルル・デュトワが私に「ちょっとそこ、テンポが遅いのでは」と言うと、グバイドゥーリナは「サワイの感覚が正しいんだから、それに合わせて!」と叫んで、その場で楽譜を書き直すんです。なぜ彼女が私を起用してくれたのか、なぜそこまで私の感覚を信じてくれるのか自分では分からないんです。私は生まれてこの方、自分に自信を持てたためしがないですし。そういえば以前、彼女が私に「あなたには、私と同じタタールの血が流れているんだわ」なんて言ったことがありました。きっと、感覚的にピタッと合うものを感じてくれたんでしょうね。
――ご自分の思いとは別に、周囲が沢井さんを見出してくれている面が大きいのでしょうか。
私自身は、「欲求を持たなければ、何事も始まらない」が持論です。いつも生徒たちに言うんです、どんな音を響かせたいか、どんな演奏会を持ちたいか、どんな演奏家になりたいか、どんなフィールドで活動したいか、どんな生き方をしたいか-。自分を高めるために、頭の中で一生懸命に思い描くことが大事だ、そして求めれば必ずかなう、と。そのためには、やっぱりさまざまな模索をしていくしかないんじゃないでしょうか。お筝で何が出来るか、私自身、分からないからこそ、弾き続けているんです。
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さわい・かずえ/1941年京都生まれ。宮城道雄らに師事、63年東京芸術大学音楽学部卒業。79年沢井忠夫と沢井筝曲院創設。全国縦断「筝遊行」ツアーや作曲家一柳慧、打楽器吉原すみれと組んだ「トライアングル・ミュージック・ツアー」、ポップス歌手の太田裕美やシンガーソングライターの高橋鮎生、英国のヴォーカリスト、ピーター・ハミルらとのアルバム制作、世界の音楽祭参加など多彩な活動を展開。NHK交響楽団、新日本フィルハーモニー交響楽団、エストニア国立交響楽団などオーケストラとの共演も多い。特に、N響とはロシア人作曲家ソフィア・グバイドゥーリナによる「イン・ザ・シャドー・オブ・ザ・トゥリー」を世界初演、アメリカやロシアでも演奏した。内外の若手との実験的な舞台にも取り組み、録音も多数。東京在住。
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(※1)
宮城道雄 (1894‐1956)筝曲家。邦楽に西洋音楽を取り入れた作曲家としても知られる。兵庫県生まれ。朝鮮半島で活動した後、東京に移り、演奏や創作の傍ら、十七絃筝や八十絃筝といった楽器開発にも取り組んだ。代表作の一つ「春の海」は海外で演奏される邦楽の草分けとなった。
(※2)
沢井忠夫 (1937‐1997)愛知県生まれ。幼いころから宮城道雄の高弟・田村味智子に師事、東京芸大邦楽科では宮城喜代子らに学ぶ。卒業翌年の1959年に初回リサイタルを開き、NHKの「今年のホープ」に選ばれる。60年代なかばには若い邦楽家による「民族音楽の会」に参加。また、当時の前衛作曲家の新作を盛り込んだ71年の独奏会で、芸術祭優秀賞を受賞。モダンダンスや西洋音楽の打楽器奏者との共演を含む「筝のための劇場空間」(1975年)、名古屋フィルとの協奏曲共演などで話題となる。70年代後半からは海外での演奏活動が広がり、83年にはスイスの名門「ロマンド管弦楽団」と共演。1979年沢井筝曲院を創設し、後進の指導にも力を注いだ。新日本音楽と呼ばれる新たな邦楽の可能性をさらに押し広げ、古典と現代の接点を探る多彩な演奏活動を展開した、20世紀の音楽界を代表する筝曲家・作曲家。
(※3)
八橋検校 (1614‐1685)江戸初期の筝曲家・作詞家。福島の出身といわれ、最初、大阪・摂津で三味線演奏により名を高めた後、江戸で筑紫流筝を学ぶ。長崎の諫早で筑紫筝の奥義を極めた後、京都で筝曲の改革に取り組み、新たな調弦・音階の開発や段物と呼ばれる器楽曲を生んだ。近世筝曲の始祖といわれている。
(※4)
アルノルト・シェーンベルク (1874‐1951)オーストリアの作曲家。当初はR・シュトラウスら後期ロマン派の影響下で創作を進めたが、徐々に調性を持たない無調音楽を書くようになり、さらには1オクターブを形づくる12の音を平等に扱う「12音技法」で作曲を重ねた。彼は同時代のベルクやウェーベルンらと共に「新ウィーン楽派」と呼ばれ、マーラーをはじめ、メシアンやブーレーズといった後世の作曲家に影響を与えた。
(※5)
ジョン・ケージ (1912‐1992)ロサンゼルス生まれ。ナチの迫害を避け亡命したシェーンベルクにカリフォルニアで、また仏教学者・思想家の鈴木大拙にニューヨークでそれぞれ師事。磁気テープに直接作品を録音する技法を開発したほか、弦に消しゴムやボルトを挟み込み特殊な音響効果を持たせたプリペアードピアノを考案。ヘンリー・カウエルの考案した図形楽譜をさらに展開したほか、不確定的要素を導入するなど前衛的な試みを次々に続けた。代表作に「易の音楽」「4分33秒」「龍安寺」など。
(※6)
スティーヴ・ライヒ (1936‐)ジュリアード音楽院などでミヨーやベリオに師事。ガーナでアフリカの太鼓を学び、アフリカ音楽やインドネシアのガムランなどに影響を受けた作品を書いた。様々な短い音型を無数に反復し、それらを徐々にずらすことで生じる音響的な変化などを特色とするミニマルミュージックで一時代を築いた。近年は、自分がユダヤ人であるアイデンティティに起点を置き、ユダヤ人の歴史などに取材し、人の話し言葉や都会のけん騒などをデジタル収録、これに生演奏やビデオ映像などを組み合わせて上演するある種のドキュメンタリー作品を、生み出している。
(※7)
一柳慧 (1933‐)兵庫生まれ。東京で育つ。平尾貴四男、池内友次郎に作曲を、原智恵子にピアノを師事。米ジュリアード音楽院で学んだ後、ケージに師事し強い影響を受け、ニューヨークで共に活動した。1961年に帰国後、ケージの音楽を日本で紹介した。その後、ミニマルミュージックへの接近を経て、新たな創作を続けている。武満、高橋とともに日本の現代音楽を代表する作曲家の一人。
(※8)
武満徹 (1930‐1996)東京生まれ。殆ど独学で作曲を学ぶ。音楽家・画家・詩人らによる同人グループ「実験公房」での活動を経て、「弦楽のためのレクイエム」(1957)で注目を浴びる。ケージの影響を受けた作品を発表する一方、徐々に邦楽器を使った創作にも手を染め、更にその後はドビュッシーやメシアンの影響下、官能的な音色や響きを模索するようになった。黒沢明監督の「乱」はじめ映画音楽も多数、手掛けた。
(※9)
「ノヴェンバー・ステップス」 武満の代表作。1967年、創立125周年を迎えるニューヨーク・フィルハーモニックから委嘱を受けて書かれた。西洋音楽のオーケストラと、琵琶・尺八の独奏者のために書かれた一種の二重協奏曲。初演は同年11月、小澤征爾の指揮と鶴田錦史の琵琶、横山勝也の尺八により行われ、大きな成功を収めた。
(※10)
高橋悠治 (1938‐)作曲家・ピアニスト。東京生まれ。作曲を東京で柴田南雄、小倉朗に、ベルリンでクセナキスに師事。現代音楽の難曲を弾きこなすピアニストとして活躍する一方、電子音楽やコンピューターを用いた作品を創作。1980年代にはアジアの抵抗歌を歌うアマチュア音楽グループ「水牛楽団」を結成、またアジアの民衆文化を取り上げる「水牛通信」発行するなど社会派の活動を展開。三絃奏者・高田和子、インドネシアの舞踊家サルドノ・クスモや、詩人、画家とも共同で創作・発表を行うなど多彩な活動で知られる。
(※11)
ソフィア・グバイドゥーリナ (1931‐)タタール共和国生まれ。モスクワ音楽院でシェバリンらに作曲を師事、ショスタコーヴィチの助手も務めた。映画音楽を含む作曲活動に従事したが、旧ソ連時代は前衛的な作風に対して当局からの圧力が強まり、地下で即興演奏を中心とした反体制的な音楽活動を続けた。ペレストロイカ後、旧西側諸国で人気が高まり、独ハンブルクに移住。現在も創作の傍ら、世界各地で自作の紹介などを進めている。