レクチャーコンサート第5回シルヴァン・ギニャールさん

掲載日:2004年1月1日

 昨春に始まったレクチャーコンサートシリーズ「ピアノはいつピアノになったか?」は今年2月、第5回公演を迎える。今回はポーランド生まれで主にパリで活躍した"ピアノの詩人"フレデリク・ショパン(1810‐1849)の音楽にスポットを当てる。テーマは「鍵盤の上のベルカント」。作品に聞かれる長大なアーチ型のフレーズ、そこに組み込まれた華麗できらびやかな装飾表現と、ロッシーニらが書いたイタリアオペラのアリアで効果的に用いられた歌唱法「ベルカント」との関係を解き明かす。講師は、スイスでピアノ演奏と音楽理論を学んだのち来日し、大阪大学博士課程で日本伝統音楽を研究、自ら琵琶も演奏する異色の音楽学者シルヴァン・ギニャール同志社女子大学教授。大津市内の高台にある、琵琶湖を眺望する瀟洒なご自宅にお邪魔し、講演の一端を伺った。

――ピアノ曲とオペラアリア。不思議な取り合わせにも思われます。ショパンはどういう経緯でイタリアオペラに興味を持つようになったのでしょうか。

 ショパンが青年時代、ワルシャワ音楽院で師事したユーセフ・エルスナー(音楽院長)はゲルマン系で、ショパンには徹底してバッハやモーツァルトといった、バロックや古典派の音楽を教育しました。しかし、イタリアオペラを愛していたこの師の影響もあってか、ショパンはオペラに熱中していきます。声楽に興味を持ったのは或いは、音楽院の仲間で、その後ワルシャワ歌劇場の歌手となった女性に寄せた好意も影響していたかもしれません。彼は特にモーツァルトとロッシーニに、強く惹かれていました。1827年、17歳の年に書いた≪「ラ・チ・ダレム・ラ・マーノ(その手をこちらに)」の主題による変奏曲 変ロ長調 作品2≫は、モーツァルトの歌劇≪ドン・ジョヴァンニ≫第1幕の二重唱を題材とした、ピアノと管弦楽のための作品で、シューマンが称賛したことで知られています。≪ドン・ジョヴァンニ≫もまた、イタリアオペラの流れを汲む作品。ショパンが作曲家としての最初期に残したこの変奏曲において既に、自分が教育を受けた古典音楽と、イタリアオペラの魅力を一体化しようと試みているのは、実に興味深い。彼は翌1828年、18歳で初めてベルリンに旅行した折、スポンティーニの≪フェルナンド・コルテス≫、チマローザの≪秘密結婚≫を、またさらに翌年29年にウィーンに赴いた際はロッシーニの≪シンデレラ≫といったイタリアオペラを聴き、大きな感銘を受けています。

――当時のワルシャワの音楽状況はどんなものでしたか。

 当時のヨーロッパはウィーン、パリ、ロンドンといった大都市が音楽文化をリードしていました。それ以外の都市は概ね、こうした都市で人気を呼んでいる音楽を、最先端の流行として追っていました。ポーランドやチェコなど東欧諸国の上流階級は特にウィーンの楽壇に関心を寄せていました。そのウィーンの聴衆が熱狂していたのはヴァイオリンのパガニーニ、ピアノのタールベルクらをはじめとするヴィルティオーソ(巨匠)の名演奏と、ロッシーニやベッリーニ、ドニゼッティらの手によるイタリアオペラ。ワルシャワの歌劇場では、クルピニスキ(1785‐1857)ら、祖国ポーランドの作曲家のオペラも時折演奏されてはいましたが、やはりイタリアものが人気。貴族のサロンなどで催されるコンサートにおいても、人気オペラのアリアが取り上げられることが少なくなかったし、良家の子女は、こうしたアリアを歌えることがお洒落な嗜みとされていました。 

――その後、ショパンが移り住んだパリは、正にイタリアオペラ全盛期でしたね。
   
ショパンは、ピアニストとして抜群の腕前を持っていました。旧知のポーランド貴族の紹介で一躍、上流階級の花形となり、貴族の子弟にピアノを教えることで地位を築きました。貴族のサロンに集まる人々が愛好していたのもイタリアオペラ。劇場でショパンも、「テノールの王者」と呼ばれたルビーニ、ベッリーニの代表作≪ノルマ≫が当たり役だったソプラノのラ・マリブランやラ・パスタ、ジェニー・リンドら、正に往年の大歌手の華麗な歌声に熱狂し、世紀のメゾソプラノとして知られたポリーヌ・ヴィアルド=ガルシアをはじめとする歌手や、憧れのロッシーニ、ケルビーニ、パエールといったオペラ作曲家と親交を深め、オペラアリアに一層、傾倒したのです。

――ショパンは歌唱のどこに魅せられたのでしょう?
   
たっぷりした低音の分散和音上で歌われる、息の長いアーチ状の旋律と、そこに施された豊麗な装飾の美しさでしょう。古典派の名残を留めていたロッシーニの作品に対し、特にベッリーニの旋律はロマン派的な自由さと壮大なスケール感を備え、ショパンの心を捉えました。こうした音楽が名歌手の手に掛かると、圧倒的な表現力を持つ「ドラマ」にまで高められる。自身、演奏家だったショパンは、音楽の現場で生まれ出る力に圧倒され、そうした効果をピアノで実現し発展させようとし、独自の世界を築くことに成功したのです。声楽の表現を自作に取り込み、鍵盤で歌おうと試みたのです。彼は弟子にしばしば歌の勉強を勧めてもいました。「人間の心から最も直接的に湧き出てくる音楽は、声楽である」―。こうした彼の信念は、かつて学んだJ・S・バッハやC・P・E・バッハらが手掛けた、バロック音楽を貫く美学でもありました。 

――こうしたオペラアリアからの影響は、彼の作品で実際、どのように現れているでしょうか。
   
ベッリーニらのオペラアリアを思わせる息の長い、長い旋律です。声楽と同様、旋律の高音部分では音楽的な緊張が極度に高まり、きらびやかな装飾音を纏いながら低音部に音が下るに連れ、緊張も徐々に緩和してゆく。この表現は正に、アリアを歌う声楽家の身体の生理的な変化そのものに重なります。こうした旋律の演奏においては、一つひとつの音の正否よりもフレーズをいかに滑らかに(レガートで)歌い上げるかが最も重要なポイントでした。ベルカント唱法にはいくつかの特徴的な概念がありますが、ショパンの作品のいつくかの旋律には、それが見事に当て嵌まるのです。今回の演奏には、ショパンと同時代にパリで作られた、プレイエル社製のフォルテピアノが使われます。彼はプレイエル独特の素朴な音色と軽やかなタッチを愛しており、指使いをはじめ、演奏法を工夫することで、音を滑らかに繋(つな)ぐ奏法を編み出した。でも、現代のピアノを弾き慣れた演奏家が、プレイエルのピアノでこれを実現するのはなかなか大変です。 

――当時のプレイエルは、どんな楽器でしたか。

 ショパンがパリに生活の拠点を置いていた1830、40年代は、フランソワ・クープランをはじめとするバロック時代のクラヴサン(チェンバロ)音楽が少なからず演奏されており、ショパンも愛好していました。実はプレイエルのピアノには、このクラヴサンの薫りが残っていると私は考えています。現代のピアノに比べると、この楽器は響きが比較的短く、音が早く消えていく。一方、プレイエルとほぼ同時代に楽器製造を手掛けたパリのエラール社製のピアノは、響きが長く続くように改良されました。貴族のサロンを主な活動場所とし、多くても数十人の聴き手を相手に演奏したショパンがプレイエルを好んだのに対し、エラールの音色を評価したのは、数百人の大衆が集まる大会場で自らの技巧と音楽性をアピールしようとしたリストでした。このことは、演奏の「場」やそこで取り上げられる音楽の性質の違いと、楽器の特性づくりとが影響を与え合った証左といえるように思います。クープランらフランス・バロックの作曲家たちは、すぐ消えるクラヴサンの音を、聴き手に感じ続けさせる狙いもあって、旋律に繊細優美な装飾音を施しました。ショパンは、イタリアオペラの歌手が聴衆を魅了した「コロラトゥーラ」と呼ばれる絢爛豪華な歌唱法と同様、この装飾の技法にも強い興味を持っていました。彼が、プレイエルの鍵盤の軽やかなタッチを好んだのは、こうした細やかな楽句を弾きやすかったからに違いありませんが一方で彼は、「私は気分が良くて、自分の求めるものを得るための充分な身心の力がある時にはプレイエルも弾く」「気分が優れない時にはエラールのピアノを使い、出来合いの音で間に合わせる」とも語っています。エラールのピアノの魅力については第6回のレクチャーコンサートで岡田暁生先生が改めて語ってくださるでしょうけれど、名手ショパンにとってさえプレイエルを弾きこなすのは、決して楽なことではなかったのです。

――先生自身は、プレイエルの響きをどう思われますか。
 
このピアノの音色には、ロウソクの炎が持つ温もりや、陽光に照らし出されたステンドグラスの輝きを感じます。昨年(2003年)の夏、ヤマモトコレクション(堺市)でこのピアノの音色を聴いた時、感動で思わず涙をこぼしてしまいました。長くショパンを研究してきた私にとって衝撃的な一瞬でした。プレイエルのピアノは、CDなど録音では何度も聴いてきましたが、生で聴くのは初めての経験だったんです。低音は、イギリス式の丸く、広がりのある響きが特徴。製作者でショパンの終生の友人だったカミーユ・プレイエルがロンドンで習得したもの。まるでチェロやコントラバスの音色が聞こえて来るようで、その上で自然に高音部を鳴らすことが出来る。同じころ、ウィーンで作られていたピアノの低音部は少し、キツイ感じもするのですが、プレイエルのそれは、ベルベットのような柔らかさがあります。小じんまりしたサロンで演奏活動をしたショパンには、この響きが好ましく感じられたのでしょう。

――今回の演奏家についてご紹介ください。

 これまで申し上げてきたような、ショパンのピアノ音楽の特質を、私の講演と合致した形でお聴かせするためには、従来の一般的なショパン演奏にとらわれず、ベルカント唱法の真髄を鍵盤で追究できる若い演奏家を育てようと考えました。ピアノの幡谷幸子さんは、同志社女子大学在学時、飛び抜けた才能を感じさせた方で、昨夏からプレイエル・ピアノの練習に打ち込んできました。まだ本当に若いですが、この公演一筋に研鑚を積んできました。楽器の特性を深く理解しショパンの期した音楽の姿を必ず、表現してくれると信じています。ソプラノの梅村さんには、ベッリーニのオペラアリアなどを歌っていただきます。ドイツで本格的にコロラトゥーラを研究した後、さまざまな舞台で経験を積んできた実力派だけあって、私の講演の狙いを即座に理解してくれました。快活なお人柄ですし、今回のレクチャーコンサートにオペラの持つ華やかさを加えてくれると期待しています。
 

 

◇Silvain Guignard◇

 1951年スイス生まれ。8歳でピアノを始め、チューリヒ音楽院でハンス・アンドレエに師事。ピアノ教師資格取得。ピアノ教師や音楽評論家、音楽ジャーナリスト、大学助手などとして活動する傍ら、チューリヒ大学で音楽学を専攻。副専攻として日本学、民族音楽学を学ぶ。83年にショパンのワルツの研究で博士号取得。文部省留学生として来日し、大阪大学大学院博士課程に在籍する傍ら、人間国宝山崎旭萃師に琵琶の演奏を師事。93年高槻市制50周年記念高槻芸術選賞文化奨励賞受賞。96年日本琵琶楽協会第33回琵琶コンクール特別賞受賞、同年筑前琵琶橘会師範の資格取得。著書に’Frederic Chopins Walzer’, Baden-Baden, 1983. 論文に「音に託す伝承」(谷村他編『音は生きている』勁草書房、1991年)等がある。