ピアニスト 朴久玲さんインタビュー
~「豊かさ」悟ったロシア留学~
掲載日:2003年10月21日
11月のティータイムコンサートに出演するのは、ロシアの名門モスクワ音楽院で学んだピアニスト、パク・クリョン(朴久玲)さん。1988年から8年間、旧ソ連邦崩壊・新生ロシア誕生―と変貌を遂げる時代、当時珍しい "西側"からの留学生として過ごした。物質的には恵まれない社会だったが、豊かな芸術や文化を愛する仲間との出会いは、音楽家としての "原点" を見いだす契機となった。留学中に数々の国際コンクールで活躍し帰国。今は演奏と、母校での後進指導に力を注ぐ。「青春がいっぱい詰まってた」という留学の思い出などを聞いた。
――ロシア留学の経緯から話してください。
私は在日のコリアンです。桐朋学園大1年の時、私の国から国家交換留学生として旧ソ連に行く誘いを受けたのがきっかけでした。当時、日本からの留学先の大半はドイツ、フランス、アメリカで、モスクワ行きは珍しかった。ビザの関係などで結局、出発は3年の夏になりました。
――ロシアやロシア音楽に興味はあったんですか?
なかったです。弾いていたのはハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどウィーン古典派で、ロシア音楽の代表的な作曲家、例えばチャイコフスキーの作品は殆ど手掛けていなかった。ロシア語もそれまで学んだことはなく、出発前の1年間だけロシア語学校に通っただけでした。
――師事したのは?
ミハイル・ヴォスクレセンスキー教授。社会主義政権に非協力的だったことから国外での活動は制限されてたんですが、時折桐朋で教えられ、その縁で江戸先生が紹介してくれた。でもモスクワに行くまで会ったことも、演奏を聴いたこともなかったんです。音楽院は9月が新学期で、普通は6月には新入生が決まる。私は8月に押しかけたので、先生も弱られたんですが、ともかく実技試験に通り、入学しました。予備科でロシア語を特訓、音楽理論など学びながらヴォスクレ先生や助手のエレーナ・クズネツォヴァ先生(現学部長)に指導を受け始めた。留学というと海外の講習会などで先生を探し、入試前に見てもらい人脈を築いて…というのが定番。私の場合は自分の意思でというより、人の輪が自然に広がる形でした。
――最初のレッスンはどんな様子?
部屋に入っただけで圧倒されました。4メートルもあるような高天井。グランドピアノが4台並び、またダンスパーティーができそうな広さ。壁にはオボーリン、シロティら錚々たる歴代教官の写真。レッスンはいつも公開で、日本人が珍しかったためか十何人も学生が集まりました。ハイドンのソナタを弾いたんですけど、皆ニコリともしない。ガチガチでした。先生には概ね良い評価をもらえたんですが、言葉もよく分からず「駄目だった」としょげて帰ったほどです。でもその後、先生が生徒の音楽的なアイデアを尊重してくれることが分かり、伸び伸びと弾けるようになりました。
――ロシア人学生のレッスンは?
最初は皆、神様みたいに上手に聞こえました。彼らは18、9歳で私より年下でしたが、演奏に"顔"があった。お金が無くて奨学金だけで暮らしたり、プロとして外国でも演奏しながら勉強する人も多く、精神的に自立していて学生というよりアーティスト。東京では「隣りのだれかさんより上手に弾きたい」なんて無意識に考えてたから衝撃でした。コンプレックスに悩み、ピアノに噛り付いて本当に練習しましたよ。
――彼らとの交流は?
ロシア人は愛想が無い。言葉のコミュニケーションが大切で、話に中身がないと付き合えない。人間関係がスリリングです。音楽院の学生はソ連全土から選び抜かれた優秀な人ばかりでした。音楽はもちろん絵画や文学、歴史など実に話題が豊富。時折、仲間とプーシキン美術館に行きましたが、ガイド顔負けの説明をするし、自分の審美眼を持ってる。外国文化にも造詣が深く、芭蕉の俳句を暗誦する人もいた。音楽院には48年(作曲家の)ショスタコーヴィチに「作風が社会主義にそぐわない」と批判した先生が残っていたし、思想教育的な講義もありましたが、学生は反体制的で禁書扱いのパステルナークやソルジェニーツィンの小説も回し読みしてました。夜はウオツカを飲みながら芸術や政治を論じ、風刺の利いた小話を楽しむ。刺激を受け、私もしょっちゅう美術館に行き、日本で本をまとめ買いしたり、幅広い分野の芸術文化に関心を持つようになりました。
――日常生活はどうでしたか?
旧ソ連時代はモノが無かった。食糧配給も途切れがちで、余ったパンを乾燥保存したり、店で何か売りに出たら、大量に買い込む癖がつきました。最初一年間は、国産オートミールが主食代わり。コクゾウムシみたいな虫が入っていたこともあり、日本でなら悲鳴をあげてたでしょうが、気にならなかった。困ったのは冬。野菜が手に入らない。氷点下20度はざらで、体調が狂い、苦しくて野菜の夢を見たほどでした。ある日、ドルショップでキュウリを見つけ、矢も盾もたまらず買いましたよ。一人で、それも生で食べた。野菜の緑に限らず、「色」が恋しくなることが少なくなかった。ピアノもコンサートの出演者のドレスも黒。街の建物も暗くて地味。ネオンなんて無くて雪ばかり。仲間が、なぜあんなに絵画に夢中になるのか、理由が分かる気もしました。
――ハングリーさが生む心の豊かさ、というわけでしょうか。
ハリウッド映画やスポーツ中継など、西側に溢れる誘惑・快楽は殆ど無い中で文学や絵画、音楽は "心の糧"。500人の寮生で、ウオークマンを持っていたのは私だけでした。手軽に演奏を録音し聞ける「文明の利器」の噂がすぐ広がり、借りたい人が続々やって来る。素朴なロシア人もそんな時だけは、へつらうように微笑むんです。でも同じ人が私の演奏を聞いても全く無視。本当に悔しくて。自分はドルショップで買い物が出来るし、ピザ屋でロシア人が並んで待ってる時も、外国人用玄関から出入りできた。でも、そんな物質的な事で優越感に浸ってる自分が嫌で堪らない。持ち物も服装も、どうでも良い、自分が欲しいのは素晴らしい音楽だけ。音楽家として「私」を認めてほしい、彼らと対等になりたい―と願うようになった。価値観が引っくり返り、帰国して同級生たちとも、だんだん話が合わなくなってしまって(笑)。でも、「人間の生活に不可欠」という音楽本来の姿を、あの暮らしは教えてくれた。モノが無い中だからこそ、感覚も研ぎ澄まされていったし、人の舞台にしても、自分の演奏にしても、「真実の芸術」っていえる瞬間を持つことが出来るようになったんです。その時がもたらす独特の陶酔感を求めて生きていくと思うし、その過程が、かつて仲間から感じた「顔のある演奏」を自分にも、はぐくんでくれるのかもしれません。
――体制が変わる中で、社会や人も変わりましたか?
資本主義になり、モスクワにはスーパーが増えた。モノが溢れ、お金さえあれば娯楽も、快楽も手に入るようになった。西側の価値観が入り込んで、学生の意識、感覚も生活も変わったとは思う。でも芸術を大切にする伝統や一人ひとりの個性は簡 単には変わらない。ロシア人の気質には、日本的な、すべすべした、こぎれいな感覚は無いんです。素材そのままのゴツゴツした感じ。野生的でエネルギッシュ。でも温かいし、誠実。親しくなると、家に来た人々をご馳走しないと気が済まない。お腹を満たしてあげることが、親愛や友情の表現になっているのは韓国と共通して面白い。帰国後もモスクワに出掛けていますがこれは変わらない。
――離れるのは辛かったでしょうね。
モスクワに住むことを真剣に考えた時期もありました。でもコンサートで弾いてもギャラは日本円で2、3万円。一方で物価は高くなり、暮らせないと悟った。母校・桐朋の講師募集に合格したので、日本に戻りました。直後はロシアが恋しく、頻繁にモスクワに『帰り』ましたが、仲間もどんどんロシアを出て欧州やアメリカを軸に活動するようになったので、今はそれほどでもない。ただ日本では留学時代のような刺激は無く、気をつけていないと勉強を怠り、モノに恵まれた環境に流されてしまいそうで、怖い気もします。
――教えることは楽しいですか?これからの計画は?
自分の時間が取られることに最初は抵抗もあった。でもヴォスクレセンスキー先生の日本でのレッスンをお手伝いしたりする中で、生徒へのアプローチを自分と比べてみたりし、面白くなってきました。演奏家としてやりたいこと? 私、計画を立てることが苦手なんです。演奏はソロだけでなくすべてやりたい。今は特に室内楽に興味があります。人生には様々な時期がある。何でもスムーズに上手くいく時もあれば、すべてがどうもすんなり流れてくれない時も。でもどんな時もピアノは自分を映す鏡であり、今現在の等身大の私を語ることができれば嬉しい。ロシアでは「心の目」を開かせてもらった。この目でしか見ることの出来ない世界に、生きていることができたら幸せに思います。