レクチャーコンサート第3回講師 渡辺裕さんインタビュー

掲載日:2003年10月1日

 西洋芸術音楽の作曲家で最も名前を知られているのがベートーヴェン(1770‐1827)であることは、ほぼ間違いがない。「苦悩を通じ歓喜へ」「熱情」「英雄」‐ベートーヴェンの顔は、男性的で力強い印象が濃いように思われる。しかし、そんな"楽聖"のイメージは実は、一面的なものにすぎないという。レクチャーコンサートシリーズ「ピアノはいつピアノになったか?」第3回公演のテーマは「ベートーヴェンのもう一つの顔」。講師は、東京大学大学院人文社会系研究科教授の渡辺裕さん。彼の音楽の別の顔とは、また強大な作曲家像はどんな社会背景の中、生まれたのか‐。ベートーヴェンに関する研究はもちろん、大正や昭和初期の大阪における西洋音楽受容の状況や、宝塚歌劇の歩みなど、内外のさまざまなテーマを通じ、社会と音楽のかかわりを研究している渡辺さんに、講演について語ってもらった。


―― 一般的に抱かれているベートーヴェンや彼の音楽のイメージはどのようなものでしょう。
   
小学校の音楽室などに貼られていた肖像画が一つの象徴かもしれないが人間として逞しく、音楽面でも例えばピアノの作品だとフォルテシモ(最強音)で主和音を連打するような、非常に力強い、「重厚長大」のイメージが強いのではないか。ベートーヴェンの音楽が苦手という人は、こうしたイメージを嫌っていることが多い。でも、実はそれは、彼の亡くなった後に発達した「大きくて、力のある楽器」としてのピアノでの作品演奏によって作り上げられていった面が強い。彼が存命中には、どんなピアノがあったか、またそれらがどう弾かれていたかを知ることで、これまでとは違ったベートーヴェンの側面が現れてくる。

――まさに「ベートーヴェンのもう一つの顔」ですね。
   
ベートーヴェンに限ったことではないが、学問的にある作曲家やその音楽を研究する際、彼が生み出した「作品」と、その作曲家が用いたり、あるいは創作の際に想定していた「楽器」と、全く別々に捉える傾向が長く続いてきた。現在は、ある作品が作られた時代の楽器を使い、当時の技法にのっとって演奏する「古楽」が盛ん。古楽による演奏にはさまざまなものがあり、当事者の思いとは裏腹に、音楽本来の姿を表しているとは言いづらいケースも少なくはない。しかし、こうした動きの影響もあって近年、研究の傾向は変わってきている。とりわけベートーヴェンの場合は、ピアノ曲の創作とピアノのありようが密接に関わりあっている。彼の生きた時代、ピアノはそのメカニズム自体が大きく変化した。また産業革命・市民革命に伴って起きた社会変動の影響で、ウィーンやロンドン、パリで作られた楽器が相互に流通し始め、実に多様なメーカーの、機構も性能も異なる楽器が混在していた。ピアノづくりの地域的な力関係が揺れ動く中で、ベートーヴェンは新しい楽器を手に入れては、創意に富んだ作品づくりに活用していった。今風にいえば、彼は"ハイテク好み"だったわけで今回は、こうしたテクノロジーとのかかわりから作品を見直したい。 

――当時と現代とで異なるピアノのメカニズムとして、例えばどのようなものがあるでしょう。
   
一つにはペダルの機能が挙げられる。現在では鍵盤の真下に取り付けられ、つま先で操作するピアノのペダルは、バロック時代のチェンバロやオルガンの鍵盤の横に取り付けられ、手で操作するハンドストップから発達していった。これらは元々、音色を変える装置で、ベートーヴェンの時代にはファゴットやリュート(中世からバロック時代にかけ盛んに使われた撥弦楽器。ギターや琵琶の仲間)の音色を模倣するペダルがあった。またヤニチャーレンと呼ばれ、トルコ風のシンバルや太鼓の音が出せるペダルも知られている。ベートーヴェンは、とりわけ初期の作品では、さまざまな音色を念頭に、自作にペダル使用を織り込んだと思われる。例えば≪ピアノソナタ第14番嬰ハ短調「月光」≫の第一楽章には、「楽章を通してダンパーペダルを踏むように」という指示がある。現代のピアノは音が長く響くため、ダンパーペダルは今では専ら音を長く延ばすために使われている。このため指示通りに演奏すると、不協和音だらけの不可解な音楽になりかねない。しかし、当時の楽器で、特にウナコルダという弱音ペダルを併用して演奏すると、極めて幻想的な雰囲気の音色を醸すことができた。不協和ではあるが、楽器自体の響きが短かった分、さほど濁らないまま音は減衰し、特殊な効果を上げることが出来たのだ。ベートーヴェンがペダルに託したのは、現代のピアノからは想像しづらい微妙な音色だった。彼の弟子チェルニーはのち、著書の中でこの効果を「遠雷」と表現しており、ベートーヴェンがニュアンスに富んだ微かな音を求めていたことが伺われる。今回、共演する渡邉順生さんが指摘するようにベートーヴェンは「フォルテシモの作曲家」ではなくて、「ピアニシモの作曲家」だったと思う。 

――他にもメカニズム上のポイントはありますか。
   
ピアノが出せる音の高低幅、すなわち音域の問題がある。≪ピアノソナタ第29番変ロ長調「ハンマークラヴィーア」≫は、ベートーヴェンが使っていたと思われるシュトライヒャー社(ウィーン)のピアノでもブロードウッド社(ロンドン)のでも、どちらか一方の楽器だけでは全楽章を通しては弾けない。それぞれ単体では出せない高さの音が、楽譜に記されているためだ。この二つの楽器は、いずれも5オクターブの音域を持つが、音の高さは相互にずれている。ベートーヴェンは作曲の最中に、シュトライヒャーを入手し、それまで使っていたブロードウッドを使わず、作曲を続けた。こんなチグハグが生まれたのは、彼が"新製品"に夢中になったからだ。しかし以前は研究者の間で、ベートーヴェンが「今弾けなくても将来は弾かれる音楽を目指していた」といった、普遍的で理想主義的な価値観の持ち主として捉えられていた時代があり、この作品も、そんな神格化されたベートーヴェン像を体現する証(あかし)の一つとして位置付けられたこともあった。しかし実態は、単に現実的な理由によることが現在では明らかになっている。音域をめぐる話題は他にもあり、講演で詳しく述べるが、今のピアノより狭い音域でベートーヴェンが作曲をしたことについて、我々はつい当時使われていたのは現在のピアノに進化する以前の、「不完全で劣った楽器」であり、その「限界」「ハンディ」の中で、彼は四苦八苦し筆を進めたと考えてしまいがち。しかし、それは進歩史観的な物の見方というべきだ。ピアノのメカニズムへの対処一つとってもベートーヴェンは、古い発想の延長線上で絶えず新しい可能性を模索していたことに我々は、より注目すべきではないだろうか。 

――当時、それこそが彼の「土俵」だったと…。
   
携帯電話が無かった時代、人々は携帯で連絡を取ろうとは思いもせず生活してきた。この音域も似たようなことがいえる。作曲家は与えられた音域の中で、最大限の努力をした。当時の楽器では出せない音が現代の楽器でなら出せるというだけの理由で、ピアノ曲でもオーケストラ作品でもベートーヴェンの譜面に演奏家の手が加えられ、"本来の在るべき姿"として演奏されてもきた。しかし、この種の"改変"により原曲が湛えていた独特の緊張感が失われてしまうケースもあるのではないか。当時のピアノは現代の楽器とは異なり、音域によって音に偏りがあり、一つひとつの音に個性があった。彼はそれを微妙に使い分けて、オーケストラの演奏を思わせるような曲も書いていた。先に述べた"強大な"イメージ、またこうした論理的なイメージについても考えてみることは大切なことだ。 

――お話を伺っていますと精彩に富んだベートーヴェン像が浮かびますが、従来の強大なイメージはどのように生まれたのでしょう。

 西洋音楽の世界で"後進国"だったドイツは19世紀を通じ、先進国にのし上がっていった。それまでの"先進国"イタリアでは長く、歌の音楽、つまり声楽こそが音楽とされてきた。これに対しドイツでは、器楽音楽こそが本来の音楽という、別の価値観を打ち出すことで、自らのステイタスを確立していった。こうした思想を具体的にだれが組織し進めたか、一言で言い表すのは極めて難しいが、新たな国民国家としてのドイツを確立する意思が、社会的な思潮となっていたのは事実だ。器楽音楽の例ではないが、1829年、長く忘れ去られていたバッハの≪マタイ受難曲≫をメンデルスゾーンがライプツィヒで再演した際、ドイツを代表する知識人であった哲学者ヘーゲルや歴史家ドロイゼンたちが顔を並べたのは象徴的。彼らは形成されつつあった"ドイツ文化"を称揚する同志として「共同幻想」を抱いていた。ベートーヴェンの音楽は、自分たちの文化的アイデンティティを束ねる「帯」として捉えられたと思われる。ベートーヴェンの書いた器楽音楽は言葉を持たない分、こうした時代の願望などを反映する形で、人々に受け入れられていった。当時のドイツは他にも"技術の国"としてのイメージをも広めるなど、強大な国家像を打ち出していく。大きな音が出、また豊かな響きを持つ楽器としてピアノの改良が進む中、ベートーヴェンの神格化と歩調を合わせる形で、強大なイメージがつくり上げられていったのではないだろうか。その意味で、これまで伝えられてきたベートーヴェン像は、ドイツ・ロマン派とほぼ並行する形で展開されたゲルマン民族のナショナリズム運動の産物として位置付けることができるかもしれない。

◇わたなべ・ひろし◇
東京大学大学院人文社会系研究科教授(美学芸術学)。1953年、千葉県生まれ。83年、東京大学大学院人文科学研究科博士課程(美学芸術学)単位取得退学。東京大学助手、玉川大学専任講師、大阪大学助教授、東京大学大学院人文社会系研究科助教授を経て現職。著書に『聴衆の誕生』(1989年、春秋社、サントリー学芸賞)、『文化史の中のマーラー』(90年、筑摩書房)、『音楽機械劇場』(97年、新書館)、『宝塚歌劇の変容と日本近代』(99年、新書館)、『西洋音楽演奏史論序説‐ベートーヴェン ピアノ・ソナタの演奏史研究』(2001年、春秋社)、『日本文化 モダン・ラプソディ』(2002年、春秋社、芸術選奨受賞)。編著に『ブルックナー/マーラー事典』(1993年、東京書籍)など。