レクチャーコンサート第2回 伊東信宏さんインタビュー
掲載日:2003年5月1日
レクチャーコンサート第2回 伊東信宏さんインタビュー
3月スタートしたレクチャーコンサートシリーズ「ピアノはいつピアノになったか?」。6月7日の第2回公演「ハイドンの奇想」の講師は、シリーズの企画・構成役でもある伊東信宏・大阪教育大学助教授。大学での教育・研究のほか、今回のようなコンサート企画や新聞紙上での評論などで、幅広く活躍中です。2月末には、今回のテーマでもあるF・J・ハイドン(1732‐1809)のクラヴィーア・ソナタの魅力を独自のアプローチで解き明かそうと試みた『ハイドンのエステルハージ・ソナタを読む』(春秋社)を刊行したばかり。「退屈」なイメージもあるハイドンの音楽ですが、伊東さんは「彼の音楽は非常に多彩で、奇天烈で、粋で、驚きに満ちている」と言います。大学の研究室でハイドンの音楽に対する思いや、公演に向けた抱負を語ってもらいました。
――ハイドンのピアノ音楽は、ピアノを弾く方々にはどう位置付けられていると考えたら良いでしょうか。
ピアノを始めてある程度上手くなったら、モーツァルトやベートーヴェンの曲を手掛ける前に1、2曲弾いてみる。曲としては形式的には整っているけれど、ベートーヴェンの作品よりは物足りない。そんな印象ではないか。作曲家として成熟してからハイドンが書いたソナタで残っているのは36曲。でも通常のコンサートで取り上げられるのは最後の4曲くらい。多くの演奏家には、つかみどころがないのかもしれない。文芸評論家の故・小林秀雄は『モオツァルト』(1946)で、ハイドンに触れ「何かが欠けている人の音楽」と記している(注1参照)。この一節が、日本のハイドン受容に与えた影響は小さくない。この種の捉え方は、ある時期 "知識人"共通のポーズだった。今でも「ハイドンの音楽は退屈」と書く人がいるが、この言葉ほど彼にふさわしくないものはない。
――伊東さんご自身が、ハイドンの音楽に関心を持つようになったきっかけは?
学生時代、オーケストラでヴァイオリンを弾き、ハイドンの交響曲は元々モーツァルトのより好きだった。クラヴィーア・ソナタに関心を持ったのは、ハンガリー留学から帰った1993、4年ごろ。ブダペストで師事したラースロー・ショムファイの本を大学の講義で読み始めた。なかなか手ごわい本で、1曲1曲楽譜を見ながら聴いていった。印象に残ったのは、今回取り上げる第41番(注2)のソナタ。ベートーヴェンのように限られた動機が展開するのでなく、新しい楽想が次々に現れる。ソナタの名を持ちながら、まるでファンタジア(幻想曲)。この曲は一体、どこに行くんだろう…とドキドキした記憶がある。あの頃、僕にはベートーヴェンの作品を基本に置いた「ソナタ観」があった。ハイドンのソナタとの出会いを通じ、無意識に身に付けていた「常識」とは別の世界が開けて見えてきた。今回の公演が、お客様にとって、そうした「常識」を見直すきっかけとなるなら嬉しい。
――彼はどんな作曲家だったんでしょう?
長くハンガリーのエステルハージ家の宮廷楽長だった。この宮廷は当時、彼の領主エステルハージ家が仕えていたウィーンのハプスブルク家の貴族社会の中でも、トップクラス。今回のレクチャーでは、彼の生活した場や宮殿の周囲に住んでいたロマ(ジプシー)の状況をはじめ、暮らしぶりを出来る限り具体的に話したい。現代の作曲家は自由に作品を書き、出版し、印税などで生計が立てられるかどうかだが、当時の作曲家の生き様は違う。楽士は領主のお抱え。作曲したのは次の祝日向けのミサ曲や祝宴の余興用オペラなど、宮廷が必要とした実用品で、宮廷を彩る花火や噴水、閲兵式と同種の存在だった。だから、自らの芸術観を表現するという面は今ほど強くない。年間かなりの数、作曲をこなさなくてはならなかった。でも彼の作品は出来に殆どムラがない。工夫を凝らし、仕掛けに満ちていて、驚きがある。彼一流のダンディズム、職人気質のなせる業だろう。
――音楽からかいま見える「人間ハイドン」像は?
彼のソナタには、ベートーヴェンの作品のように一つでなく、多数の「核」があり、それらが同時並行的に処理されながら、曲が進んでいく。創作家としては絶妙の平衡感覚や運動神経を備えた人というイメージがある。一つのことだけに集中する人は、とてつもない物を生み出すかもしれない。でも周囲には迷惑なこともある。その点ハイドンは多くの物事を同時に扱い、そのすべてに満遍なく気を配れる、"切れる"人だったと思う。一貫性・統一性よりも多彩さを愛した人に違いない。
――今回の公演で扱う「エステルハージ・ソナタ」について少し話してください。
6曲から成るこのソナタ集は、ハイドンが一つの音楽的な語り口をつくり上げた後、そこから脱皮しようともがいていた時期の作品。譜面からは、さまざまな制約の中、作曲に従事していた様子がうかがえる。最初の第36番は明らかに新しい試みへの意欲に溢れている。音楽的な材料はすべて新品。でも後に作られた曲になると、既存作からの転用が増える。第41番の第2楽章は交響曲の使い回し。第40番には第3楽章が無く、最終楽章は1分にも満たない小曲。このソナタ集は1774年、当時としては極めて珍しいことに作曲家の校訂を経て出版されている。ウィーンから女帝マリア・テレジアがエステルハージ家の離宮を訪問し、その記念として間に合わせなくてはならなかったという説も。宮廷楽団の指導も彼の仕事だったから、雑多な"ルーティンワーク"をこなしながら、音楽を書かなくてはならなかっただろう。迫る締切を前に、懸命に書いた形跡を感じる。
――そうした研究を深めていく方法は?
本人の日記や同時代人の証言など残っておらず、自筆楽譜も殆どない。従来の音楽研究の基本とされてきた文化史・社会史的な研究や緻密な資料研究だけでは、彼の音楽には迫りきれない面がある。一方で、これまで作品を音楽的に分析するには、作品の中に現れる動機の音程関係や展開の仕方に着目することが多かった。この手法はベートーヴェンのソナタを分析するのには適しているかもしれないが、ハイドンのソナタを対象とした時には、その音楽の魅力は捉え切れない。「動機の有機的展開」という型に嵌ったような切り口よりも、彼の音楽はむしろ作品のテクスチュア(肌触り)や、作品演奏に伴う人の体の身振りや手振りといった要素に注目した方が、見えてくるものがより大きいと思った。
――確かに、近著の『ハイドンのエステルハージ・ソナタを読む』では、伝統的な楽曲分析に留まらず、高級チョコレート・ケーキの美味しさの秘密や、戦争についての考察で知られる、昔のドイツの将軍クラウゼヴィッツの議論なども引用しながらハイドンとその作品にアプローチされていますね。
例えば文学の世界なら、特に新しい資料が出たわけでなくても、切り口によって、作品を新たに捉え直すことは、ままある。読み手も、学術的に厳格な判断とは別に、切り口の新鮮さに納得して受け入れる。でも、音楽の分野ではそれが少ない。バッハやベートーヴェン、ヴァーグナーの研究というと、正統な研究手法が完成しているかのようで、他のやり方は許さないような風潮がないでもない。ただ、こうした大作曲家に比べるとハイドンなら「少々変わったことを書いても、許してもらえるかな」と考えた。音楽研究の本としては"隙だらけ" かもしれない。でも、だからといって厳しく責めないでほしい(笑)。そう思いながら書いた。
――最後に共演のピアニスト小倉貴久子さんについてご紹介ください。
ベートーヴェンの「月光」や、クリストーフォリのフォルテピアノでバロック期の作品を弾いたCDを聴いて、とても端正な演奏が印象に残っている。ふだんは現代のピアノを弾き、時折古楽器を手掛けているのではなくて、古楽器を軸にアカデミックな訓練を重ねてきた方。今回、出した本は原稿段階で小倉さんに読んでもらい、「いつも演奏の際に感じていたことが理解できるようになった。自分の中のハイドン像が変わったように思う」と評価してもらえた。そんなフレキシブルなところもある演奏家なので、どちらかと言うとエキセントリックな僕の話と、ちょうどバランスが取れるんじゃないかと思っている。
(注1)
「モオツァルトを聞いた後で、ハイドンを聞くと、個性の相違というものを感ずるより、何かしら大切なものが欠けた人間を感ずる。外的な装飾を平気で楽しんでいる空虚な人の好さといったものを感ずる。この感じは恐らく正当ではあるまい。だが、モオツァルトがそういう感じを僕に目覚ますという事は、間違いない事で、彼の音楽にはハイドンの繊細ささえ外的に聞える程の驚くべき繊細さが確かにある」(小林秀雄『モオツァルト』新潮文庫 1961 47ページ)
(注2)
ランドンによる作品番号。以下同じ
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いとう・のぶひろ
1960年京都市生まれ。大阪大学文学部、同大学院博士課程を経て、ハンガリー国立リスト音楽院、同科学アカデミー音楽学研究所などに留学。90年アリオン賞(音楽評論部門)奨励賞受賞。93年より大阪教育大学助教授。中東欧の音楽史、民俗音楽を研究している。著書に『バルトーク』(中公新書、97年、吉田秀和賞受賞)、訳書に『バルトークの室内楽曲』(共訳、法政大学出版局、98年)、論文に「シャガールのヌーシュ叔父さんはどんなヴァイオリンを弾いたか:クレズマーをめぐる文化研究的試論」(『ExMusica』第4号、2001年)など。今回のレクチャーと関連する近刊書として『ハイドンのエステルハージ・ソナタを読む』(春秋社)がある。
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