オーボエ奏者 宮本文昭さんインタビュー

掲載日:2003年9月26日

9月26日夜、ザ・フェニックスホールに登場するオーボエ奏者・宮本文昭さんは、世界的指揮者・小沢征爾さん率いる管弦楽団「サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)」(※1)の首席奏者を務める一方、ポップスやジャズ、歌謡曲、民族音楽など多様なジャンルの音楽家と意欲的な舞台を重ねてきた。NHK総合テレビの朝の連続テレビドラマ「あすか」のテーマ曲でお茶の間にも馴染みが深い、正に日本の第一人者だ。18歳で渡独。音楽大学を卒業して間もなく同国のオーケストラに入団、特に1982年からは20年近く欧州を代表する名門オーケストラの一つ、ケルン放送交響楽団(※2)のソロ奏者として活動した。しかし1999年、自らその環境に区切りを付け退団。日本に活動の拠点を移し、2000年からは東京音楽大学教授として教育活動にも携わっている。"決断"の背景は何か。超多忙なスケジュールの中、新宿のスタジオで話を聴いた。

――名門"に在籍していたのに退団し、日本に活動拠点を移す直接のきっかけになったのはなんだったのですか。
   
20歳代半ばでドイツのオーケストラ奏者になり、いくつかの楽団で活動を続けてきたが、ソリストとして自由な活動を展開していく中で、オケという同じ環境に20年以上も身を置き続けることにはどうも釈然としない思いが募ってきた。音楽家としての成長が止まっちゃうんじゃないかという不安がずーっとあったが、SKOとの出合いは一つの大きな契機になった。

――SKOにはどんな経緯で参加するようになったんですか?
   
ボクも桐朋の出身で、プロになってから学校のオーケストラと共演したこともあったが、当初、SKOには加わっていなかった。でもある日、小沢さんから電話で声を掛けていただいた。1987年、SKOがヨーロッパに初めて演奏旅行した時。ボクは、ツアー開始直前までケルンのオケの仕事がロシアであって、ウィーン公演のゲネプロ(本番直前の総練習)から合流した。新鮮な衝撃でした。SKOは、「打てば響く」っていうか、メンバー全員に反応の鋭さが共通しており、演奏していて面白くて仕方なかった。情熱があって、向上心があって、集中力があって。おカネはもらえるならもらうけれど、大きな関心事じゃない。善意で成り立つ部分が大きく、音楽に向き合う上での理想的な姿だった。もちろん小沢さんの「振らない指導力」も大きな魅力。彼が指揮台の上で、気持ちだけを伝えて手が動かなくなることが何度もあった。オケのメンバーだけで基本的に合奏できるから「オレは振らなくても良いだろ」っていう感じで、仁王立ちっていうか、ぶっ飛んだ目と真っ赤な顔して、指揮台で「アーッ、アーッ」って怒鳴ってるだけ。でも、こっちは彼のエネルギーを肌と骨で感じて音楽をつくっていく。指揮者っていうのは「そこに居ることの重さ」が大切。パリやウィーン、ベルリンなどの公演で、お客さんの熱狂を見て、やっぱりコレだよな、って思った。ケルンでの演奏ではあまり味わったことのない体験だった。 

――ケルンのオケでの活動とどう違ったんです?
   
本当に「音楽がやりたい」というピュアな思いで動くオケと、「仕事」として音楽に取り組むオケとの違いかな…。ケルンのオケでボクは、全体をリードする役割を果たしてきた。例えば、フレーズの変わり目でテンポをキチンと伝えられない指揮者を補ってオケ全体にテンポが伝わるような吹き方をしたり、音楽が流れない時はメロディアスに演奏したり。冷静と情熱を使い分け、どんな指揮者が振っても一定水準の音楽を生み出せる空気をつくる。信頼してくれる同僚も多かったし、ボクが雇われている価値だと自負もしていた。ドイツでボクは外国人。理論を重んじるドイツ人気質の同僚に説教しづらい。「音出してナンボ」の世界、いつも「無言実行」でベストを目指してきた。でも、その気持ちを分かち合えない団員も居る。演奏後、お客さんが喝采している最中に「オマエはまた、あの指揮者の価値を上げちゃったな」と皮肉られたこともある。 良い演奏をしても、批評の褒め言葉は全部、指揮者がさらい、自分たちガクタイには何も残らない。逆に演奏が悪いと「オケが到らない」と言われる。ある種屈折した思いを持ってしまうのも無理もない。でもボクは、お客さんに満足してもらうのが仕事だから、指揮者が良くないからつまらない演奏になるのもやむを得ないとは思えなかった。ただ、指揮者を"サポート"して彼が要求する以上の演奏をしても、本人はちっとも分かってくれないことが結構多く、やるせなくなることもあった。「ルーティン」に満足できなくなっていった。これも"SKO効果"かもしれない。 

――"名門"オケにしては意外な気もしますが。。。
   
オケが指揮者に対して尊大になってしまうこともあり、例えば最晩年のベーム(※3)が客演で来た時でさえ、「アンタがそんな難しいこというから、新人が怖くなって吹けなくなるじゃないか!」なんて食って掛かった人がいる。当時のベームと言ったら、天下のウィーンフィルもベルリンフィルも、平身低頭した時代。付き添いで来てた関係者が激怒して、公演自体が混乱しかねない雰囲気だった。常任指揮者を任期半ばで追い出すなど、悪評高かった。このオケは第2次世界大戦後、行政が莫大なオカネを使い、あちこちの名手を引っ張ってつくった。公共放送局直属で、団員は余程のことがないと首にならない。お役所的な倦怠や高慢が全く無かったとはいえない。仕事配分をめぐり「オマエは先週、練習時間が一コマ少なかった」なんて言う人もいて、演奏会の後、家で「オレ、このままで良いのかな」という気持ちになることが増えた。音楽に対して真っ直ぐに向き合うSKOの活動に毎年かかわるうち、「オケの活動はこれだけに絞り、自分の自由な活動を広げたい」と思うようになった。 

――和太鼓の林英哲さんやシンセサイザーの難波弘之さん、ジャズピアノの前田憲男さんらと共演したサントリホールのオープニング公演など、随分前から、自由な活動を広げてきたじゃないですか。
   
オフシーズン、日本に戻って来た時は、いろんな活動ができるんだが、西洋音楽の本場ドイツだとそうもいかない。ボクにとっては基本的にどんな音楽にも垣根はない。西洋音楽もたくさんある中の一つという位置付け。ヨーロッパでは"基本"のクラシック音楽の分野で認知を獲得できたが、オーボエで活動するというと舞台はお城か教会などのホールが大半で、内容はクラシック音楽が中心になってしまう。音楽は元々、音によって何かを伝える営み。それぞれの音楽が持つ作法や伝統は踏まえなくてはいけないとは思うが、伝統ってのは「弛まない改革」。その意味でさまざまな音楽に携わることは、伝統を強く、太くする営みのはずだけど、新しい活動はしづらかった。音楽文化の状況も、東京など大都市圏に公演が集中している日本と異なり、ドイツは地方分権国家。一つひとつの公演が全国的には知られづらくて、地域的な話題で終わってしまう。18歳で渡欧したボクには、日本は"新天地"に思えた。そんな時、東京音大から教職のお誘いをいただいた。 

――教えることも帰国の動機だったんですか。
 
最初から教えることに熱心だったわけじゃない。実は以前、南ドイツのある音楽大学から教員になる誘いを受けたことがあったが、演奏家としての活動を思うと、あの街に移って、オレどうするの? という懸念が抜けなかった。日常的には近くの小さな教会やクアハウスのホールで限られたソナタや室内楽の演奏を繰り返し、意欲が薄れ、次第に公務員の「先生」になるんじゃないか…。それはイヤだった。ピアニストや声楽家だったら、多分別だったがオーボエは西洋音楽の楽器としては元々、そんな膨大なレパートリーはない。ソリストとして既に当時、ホリガー(※4)が活躍していた。そのホリガーでさえ、大学で教えながら活動していて、自分はどうすべきか、生活を保つことも含め、暫く考えた。6、7年前、日本のあるコンクールで審査員を務めた時、自分より年下の演奏家の弟子が次々に出て来るのを見て、考え直した。演奏家としての彼らのDNAを受け継いだ、一つの奏者が生まれ、育っているわけで、自分も大人として、自分が培ってきた知識や経験を、根絶やしにしたくない気持ちがあった。ドイツでは何人かヨーロッパ人を教えていたが、コンクールで日本人学生の演奏を聴いた時、彼らに共通して足りないものを感じた。

――それは具体的には?

ヨーロッパの生徒は音楽を使って、ヘタでも独自の世界を作ろうとする。自己主張する。でも日本の学生は、単に「オーボエを吹こう」としてしまう。大きな音楽を創れず、小さくまとめようとしてしまう。日本では音楽に限らず、さまざまな場面で自己表現を抑えつけられる。そこで育ってきた生徒相手に、日本で生まれ、ヨーロッパで模索し続けてきたボクだからこそ、効果的に教えられることがあると確信した。

――宮本さんご自身は、若いころから自分を表現することは得意だったんですか?
 
ドイツに行ったころはきっと、自分を表現するのが下手だったと思う。自由奔放に自己表現をできるようなれたのは、師匠のヴィンシャーマン(※5)のお陰。昨秋、福岡で彼と20年ぶりくらいに共演した。九州交響楽団の演奏会で彼が指揮し、ボクがソリストで協奏曲を演奏した。終演後、彼に言われたのは、ボクがドイツの音大入学の時と卒業の時に言われたのと同じ言葉だった。「オマエは何も変わってない」。

――どういう意味だったんですか?

彼が言うには、「オレはオマエが自分の音楽をやるのに邪魔になってるものを取り除いただけだ。今日はオマエのやりたいことが手に取るように分かって、嬉しかったよ。でもオマエに新しく付け加わったものはあまりなくて、オマエ自身がより直截に出てくるようになっただけなんだ」。ボクが留学したころも、ヨーロッパの学生は最初から自己主張が激しいのが多かったわけだから、逆に自己主張出来るよう促すような教え方をする先生は、珍しかったと思う。ボクも、若い人たちに思い切った自己表現をするにはどうすれば良いのか、具体的に示したい。彼らが見えない壁から出るためには、一度は穴を穿ってドアを作って開けてやらなきゃならない。何をすれば良いか、ボク、それはハッキリ分かってる。

――今、お弟子さんはどのくらい?

東京音大では、週に2~3日は教えるようにしている。生徒は12人。時折大学院でも教え、またプライベートでも弟子がいます。演奏家っていうのは一度、小さくてもまとめてそれなりの完成品になっちゃうと、後で本人がすごく暴れたいと思った時も、表現のための訓練を受けていないと暴れるに暴れられない。やはり早いうちに教育することが大切。生徒が自分を自由に表現する手助けは出来ていると思う。すぐに、自分を表出するのが難しい生徒には、作品を演奏する細かなコツを示していくと、意図的な凸凹をつけられるようになる。その中で、自分はコレを言いたかったんだってことを見つけてほしい。先生としての夢? 弟子と一緒に並んで演奏し、いつか音楽で会話を楽しむようになれたら楽しいんじゃないかな。 
【取材協力:ジャパン・アーツ、東京音楽大学】 

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みやもと・ふみあき
東京生まれ。桐朋学園高校音楽科を卒業後、渡独。北西ドイツ音楽大学(デトモルト)でヘルムート・ヴィンシャーマンに師事、首席で卒業。エッセン・フィルハーモニカー、フランクフルト放送響の首席奏者を経て82年9月からケルン放送響首席。2000年4月に帰国、東京音楽大学教授に就任。現在は、サイトウ・キネン・オーケストラや水戸室内管弦楽団の各首席奏者を務める傍ら、ソロや室内楽奏者として、またガムランや米国のポップス、ジャズのミュージシャン、演歌歌手など西洋クラシック音楽の枠を超えた幅広い演奏家たちと共演を重ね、オーボエの持つ可能性を新たに広げ続けている。JTホールプランナー。東京在住。

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(※1)
日本を代表する音楽学校の一つ・桐朋学園で、創設者の一人斎藤秀雄(1902‐1974。指揮者・教育者・チェリスト)から指導を受け、現在世界各地で活躍する音楽家を中心に毎年夏、結成されるオーケストラ。1984年から活動を始め、87年以降しばしばヨーロッパに演奏旅行。92年以降、長野・松本市で開かれている音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」を拠点に活動している。 
(※2)
ドイツは地方分権国家で、首都ベルリン以外にも多数の独立した公共放送があり、その多くが専属楽団を持つ。ケルン放送交響楽団は1947年創設で、ミュンヘンに本拠を置くバイエルン放送交響楽団、ハンブルクの北ドイツ放送交響楽団と共に欧州を代表するラジオオーケストラの雄として知られる。正式名称は「西ドイツ放送交響楽団ケルン Westdeutscher Rundfunk Sinfonieorchester Koln」。 
(※3)
カール・ベーム(1894‐1981)。オーストリア出身で20世紀を代表する大指揮者の一人。ウィーンフィルの指揮で親しまれ、日本では今もファンが少なくない。
(※4)
ハインツ・ホリガー(1939‐)。スイス生まれ。オーボエの可能性を飛躍的に広げた名手で、作曲家としても知られる。独フライブルク音楽大学教授。
(※5)
ヘルムート・ヴィンシャーマン(1920‐)。ドイツの名オーボエ奏者・指揮者。ドイツ・バロック音楽の権威で、ドイツ・バッハ・ゾリステン主宰。