鈴木昭男さん インタビュー

新作世界初演《ケ・ザ・フォ》 バリで覚醒 古代の心

掲載日:2007年3月16日

石ころを、井戸や小池に何度も放り込む。玉砂利を下駄で踏む。風の中で、耳を手の平で閉じたり開いたり。子どもの頃、だれもが体感したこんな音の遊び・楽しみを追い求め続けてきたのが、国際的サウンドアーティストの鈴木昭男さん=京丹後市網野在住=である。3月25日(日)午後、ザ・フェニックスホールが開く「ガムラン・コモンズ-音楽の新たな領野」公演に新作を寄せ、自ら演奏に加わる。街や自然の音に耳を傾けてきた“音の達人”がインドネシアの民族芸能・音楽のガムランと協働する異色の舞台。サウンドアーティストとしての歩みや、今回、世界初演となる≪ケ・ザ・フォ(戯山巫)2007≫の由来などを語ってもらった。

(聴き手 ザ・フェニックスホール 谷本 裕)

 

 ――鈴木さんの作品は、「日常」に存在する音や響きにあらためて人々を誘(いざな)う創意に満ちている。例えば、「せせらぎ」(1994年)。京都・白川を舞台としたこの作品はふだん、街の喧騒に掻き消されがちな小川の響きを人々の記憶に蘇らせるため、せせらぎの中に金属製のオブジェを設ける。流れとオブジェが生む、微(かす)かな音。それによって人々に、せせらぎを気付かせ、さらに音に耳をそばだてるように導く。一方、1996年夏、ベルリンの複合的な芸術祭「ソナムビエンテ・フェスティバル」を皮切りに始め、ストラスブールやパリ、和歌山などで続けている「点音(おとだて)」は、街や野山の中で耳を澄ますのに適した「場」(エコーポイント)を探り、地面に塗料で耳形の印を付けていくプロジェクト。これは屋外でお茶を楽しむ「野点(のだて)」に着想を得た。鈴木さん自身は音を出さないが、目印をきっかけにふだん、人々が気に留めずにいる音を再発見し、味わう意味を問い掛ける作品。こうしたユニークな創作のルーツは、少年時代に遡る。

「言葉を介さず、野山や町の音・響きを聴いていきたい」と語る鈴木昭男さん
=2月、JR京都駅

 

僕は少し変わったところのある少年でした。愛知の小牧で小学校から高校まで過ごしましたが、放課後になると、名古屋市街を見渡す近くの山に入り、石の上に座って2時間も3時間も、夕暮れまでぼーっと音を聴いていたものです。風の音、梢のさざめき、鳥や獣の声。ただただ無心に聴く。森にすっかり溶け込んでいたのか、広げた手に、スズメが飛び込んできたこともありました。親父は大の音楽好きで、家にはお琴・三味線やヴァイオリンなど、いろんな楽器があった。レコードも多く、一般的な「音楽」にも馴染んではいたんですが、「世界を聴く」っていうんですかねぇ、野山や町の音に耳を傾けるのが好きでした。学校を卒業し、設計事務所で働いていたころ、雑誌でアメリカの前衛作曲家ジョン・ケージ(※)の記事が掲載されていた。弟子の作曲家の一柳慧さんが紹介していたんです。音を聴くことの大切さ・素晴らしさを説く彼のことが詳しく書かれていて、「同じことを考えている人が居るんだ」と嬉しくなりました。

 

――1963年、音楽活動を本格的に始める。手始めは、名古屋駅の階段でバケツいっぱいのガラクタをぶちまけ、その響きを確かめるパフォーマンス。その後、東京へ。そして1970年、現代アートの関係者から一躍、注目を集めたのが、自ら考案したエコー楽器「アナラポス」だった。


小型のブリキの缶2つをスプリング(バネ)で繋いだ、糸電話のような道具です。バネの伸縮に応じて共鳴し、不思議な音が出る。はじめは現代美術の発信地として知られた南画廊(東京・日本橋)にインスタレーションとして展示していたんですが、主人の志水楠男氏(画商)から演奏をするよう、勧められたんです。興味を持ってくれる新聞記者がいて原稿にしてくれたりで、仕事がどんどん増えました。武満(徹。作曲家 1930‐1996)さんが、泉岳寺の自宅まで遊びに来てくれたのもこの頃です。「これ、面白いネ」って言ってくれました。彼が、音楽を担当した映画『愛の亡霊』(大島渚監督 1978年)には、僕もアナラポスの演奏で参加しています。ケージから、触発を受けた点も似ていますが、街や自然に耳を澄まし、音を聴き出すことが、創造的な行為であるという思い。武満さんと僕とを結び付けていたのは、これだと思います。彼の紹介で、フランスのフェスティバル・ドートンヌに出演する機会に恵まれたんです。日本の間(ま)の概念をテーマにした企画で、これが僕のヨーロッパデビューになりました。

 

――80年代にかけ、鈴木さんは自作楽器などを使ったパフォーマーとしての活動を国内外で広げる。身近な素材を使い、自ら定めた規則に従い、即興的に演奏する舞台が注目を集めるようになった。


例えば≪ボジョレー・ヌーボー≫という作品。ボトルワインを24本用意し、栓を抜いて舞台の上に並べる。即興的に撥で叩くんですが、演奏中、少しずつ中身を呑む。瓶が発する音の高さがどんどん変わっていくんです。パリの音楽祭は、一日二回公演。最初の舞台が終わり、楽屋で休んでいると、すぐ次の出番です。呼び出しを受け、舞台で叩いているうち、ダウンしちゃいましてね、それが却って喜ばれたこともありました。イタリアやアメリカ東海岸などでも出演が増え、充実を感じてはいたんですが、「自分は都会の喧騒に慣れてしまって、昔のように自然の音にじっくり耳を澄まさなくなっているんじゃないか」と自問するようになりました。当時、仲間の勧めで、ドビュッシーの≪海≫という交響詩を聴いていたんですが、作曲家が自然をつぶさに観察していることにショックを受けた。

 

――転機が訪れる。終日、一所に留まって自然の音に耳を澄まし続けるという異色のプロジェクト「日向ぼっこの空間」の実現である。この計画は当初、オーストラリアの平原で実現を探ったが、資金難からん断念。アイデア復活のヒントをもたらしたのは、知人が差し出した一枚の切手だった。1986年、郵政省から「日本標準時制定100年」の記念切手。東経135度=子午線が赤く表現され、標準時時計の設けられた明石の上を、縦断している図柄だった。


それを見るうち、日本列島で子午線の最北端はどこか、と気になった。京都府網野町(現・京丹後市網野)なんです。これだ、と思いました。網野を訪れたのは、翌87年春。いわずと知れた、丹後縮緬(ちりめん)の産地です。役場に挨拶に行くと観光課の方が、車で丹後半島を案内してくれました。繊維不況で縮緬産業が苦しい状況にあり、子午線で町おこしを探り始めた時期だったでした。町の方と連絡を取り合ううち、地元の織元が土地を融通してくれることになりました。家まで貸してくれる話も決まり、思い切って東京から仲間ともども移住したんです。

 

――網野に落ち着いた鈴木さんは、自然の音を聴くための「場」を造り始める。日本海と網野町市街を見下ろす高天山の中腹に、高さ3メートル、長さ17メートルの壁を二面設ける作業。素材は日干しレンガ。素材は近くに産出する土。「創作」は実に1年半に及んだ。昼夜の長さがほぼ同一の秋分の日、その、たった一日のプロジェクトのための、贅沢で過酷な、空間造成だった。


赤土を取る作業中、土の塊が突然崩れてきて、生き埋めになり、救急車で運ばれたこともありました。肋骨を折ったんですが、多くの人々に支えられ、ようやく完成しました。そして、プロジェクト「日向ぼっこの空間」に取り組んだのが1988年9月23日の「秋分の日」。午前4時ごろ自宅を出、獣の足跡をたどって山を登りました。北側の壁に座り、南を向いて、音を聴き始める。すぐに自分が集中できないことに気付きました。蚊が気になったり、目の前のレンガ壁のシミが人の顔に見えたり、雑念が湧き起こってくるんです。これじゃ支援してくれた人に申し訳ない。少し息(いき)んで自分なりに喝を入れ、心を落ち着けた。ところが今度は、音が聞こえると、それを頭の中で言葉に表してしまう。あれは車だ、風だ、カラスの声だ、という具合にね。でも、そのことで響きや音そのものと向かい合えなくなってしまうんですね。少年時代のようには、虚心坦懐には音が聴けない。最大の雑念は、自分の中にあったんです。音を、言葉に置き換えることをやめ、自然と一体になろうとしました。座禅のようで、楽ではありませんでしたが、このプロジェクトで僕は「聴く」行為を取り戻せた気がします。結局、夜の8時まで音に耳を傾け、家に戻って、仲間にお祝いやねぎらいの言葉をもらいました。

 

今回、ザ・フェニックスホールで共演するガムラングループ「マルガ・サリ」代表の中川真さん(大阪市立大学教授)とは、このころには既に知り合いでした。実験的な音楽の紹介を通じて、市民に新しいサウンドアートやサウンドスケープ(音の風景)を示す「京都国際現代音楽フォーラム」なども通じて、意見を交わすようになっていたんです。僕ははじめ、インドネシア以外でガムランを演奏することには批判的でした。ニューヨークなどで生演奏に触れる機会はあっても、単なる見世物にしているんじゃないかと考えることが多かった。でも、中川さんは、ジャワの音楽家とも絶えず交流を重ね、ガムランを新たな音楽創造の主体として位置付けている。これは素晴らしいと思いました。彼から、マルガ・サリのための新作を頼まれたのは、実は今から10年ほど前ですが、サボってきてしまいました。昨年、ザ・フェニックスホールでの公演が決まり、さすがに腰を上げなくてはと思うようになった訳で(笑)。

 

――今回、お披露目される≪ケ・ザ・フォ≫は、演奏時間25分ほどの作品。はじめに土笛によってテーマ(旋律)が示される。これをガムラングループの奏者がそれぞれ、テーマの一部を選んで演奏する。


 僕は10年ほど前、中川さんの導きでインドネシアのバリ島を訪れたことがあるんです。ちょうど正月にあたり、山上のヒンズー教の寺で古くからの祭礼が行われていた。トランス(憑依)状態になって、神託を告げる信徒の姿を見た時、自分の中の「古代の心」が呼び覚まされる錯覚にとらわれたんです。日本に戻り、忘れてしまいましたが、丹後の峰山町で発掘された土笛の響きに触れた時、その記憶が鮮やかに蘇ってきたんです。遺跡に佇んでいると、その「場」の持つエネルギーが感じられ、自然に旋律が湧き出てきた。≪ケ・ザ・フォ≫には、それを使っています。この曲は僕も演奏に加わります。演奏家は自分の演奏と、グループ全体の響きの双方に耳を澄まし、やり取りを繰り返します。即興が多く、時には混沌とする場面もありますが、現代人が喪失してしまった感覚を探ってみたい。ガムランの演奏は、音のコントロールが大変で、練習に励んできました。本番には何とか「遊びの境地」に入りたいものです。


(※)ジョン・ケージ (1912‐1992)ロサンゼルス生まれ。ナチの迫害を避け亡命したシェーンベルクにカリフォルニアで、また仏教学者・思想家の鈴木大拙にニューヨークでそれぞれ師事。磁気テープに直接作品を録音する技法を開発したほか、弦に消しゴムやボルトを挟み込み特殊な音響効果を持たせたプリペアードピアノ、図形楽譜を考案。不確定的要素を導入するなど前衛的な試みを次々に続けた。代表作に「易の音楽」「4分33秒」「龍安寺」など。

 

 


 

 

 すずき・あきお 1941年、旧平壌生まれ。ドイツ・カッセルの「ドクメンタ」(1987)やドナウ・エッシンゲン現代音楽祭(1998)、ニュージーランドのサウンドカルチャー(1999)やアジア・パシフィック・フェスティバル(2007)など、世界的な美術展・音楽祭にたびたび招聘されているほか、ドイツのザールブリュッケン市立美術館、ベルリンのdaad画廊やハンブルガー駅美術館、SFB放送局などで個展やパフォーマンスが行われてきた。2003年には、ロンドンの大英博物館で作品が展示され、公演も行った。