フルート奏者 熊本尚美さんインタビュー

掲載日:2004年4月28日

▲くまもとなおみ

「本当に心の通じ合う演奏」を求め、西洋クラシックから南米ブラジルの伝統音楽「ショーロ」(※)の世界に飛び込んだ一人の女性がいる。熊本尚美さん。4月28日(水)夜の「ショーロの風~熊本尚美&マウリシオ・カヒーリョとブラジルの仲間たち」公演に登場する、神戸在住のフルーティスト。サンバやボサノヴァといった他のブラジル音楽に比べると、日本でのショーロの知名度は高いとは言えないが、本場リオデジャネイロの音楽家のハートを捉えた高い音楽性ととびっきりの行動力で、聴衆と次代の演奏家を育てるパイオニアだ。彼女がこの音楽に出会うまでの道程は、決して平坦なものではなかった。オーケストラで活動する中で抱いた違和感に真正面から向き合い、音楽家として自らの能力と個性を見つめ、自ら学び、多くの人々との出会いの中から活路を見出した。そして、未知の世界を恐れない「勇気」を振り絞り、自分の生きがいとなる音楽を探し当てたのだった。 (ザ・フェニックスホール サロン編集部)

――クラシック畑のフルーティストが、ブラジル音楽を手掛けるのは珍しいですね。ショーロの、どこに惹かれたんですか。 
 
演奏家同士が心底、気持ちを通い合わせられる点です。共演するマウリシオ・カヒーリョ(7弦ギター)たちとは、初対面で音合わせをした時、私がポルトガル語を全く話せなかったのにも関わらず、音楽だけで本当に心が通じた。2000年の、夏のある日。あの日を境に、ショーロは私の中で大きく膨らみ始めたんです。 
 
――ショーロに出会うまでの歩みを聞かせてください。 
 
大学を出て音楽教室の講師になり、神戸のフルートアンサンブルで活動したり、ミュージカルの録音の仕事などに携わりました。88年、神戸で新設された「ニューフィルハーモニー管弦楽団」に入り、楽団の経営をめぐるいろんな事情から辞めた後も、自宅でフルートを教えながら、関西のさまざまなオーケストラでエキストラ(客演)の仕事をするようになりました。幼い頃からピアノを習い、大学受験の際も元々はピアノ志望だったこともあって、私はどちらかというとハーモニーを作るのが好き。ひとりで旋律を奏でるフルートソロの世界は、あまり好きになれず、どうしても自分で演奏したい曲も見つかりませんでした。その点オーケストラだと、様々な楽器と一緒にハーモニーをつくれる。「ニューフィル」の結成期には関西の、若くて腕の立つ演奏家が集まってき、コワイ先輩たちに囲まれながら、実践経験を積みました。
 
――新進の演奏家として、無我夢中だったんでしょうね。
 
若かったですし、毎回いろんな曲に挑戦できる面白さもありました。でも10年ほどすると、主なレパートリーは大体一巡する。自分を取り巻く音楽そのもの、あるいはそれを奏でる演奏家の音楽性に注意を払うゆとりも出てきた。それと共に、次第に物足りなくなってきたんです。周囲には技術的に優れた演奏家が少なくなかったんですが、舞台で演奏していても、心が通い合う経験は残念ながらあまりなかった。子供の音楽教室など、ルーティンワークのように毎度、同じような演奏を繰り返すことが多くて、例えば<カルメン前奏曲>や<ハンガリー舞曲第5番>の一節を、私が前回のニュアンスとは変えて吹いてみても、周囲の反応はいつもと同じ。「笛吹けど踊らず」。これ切ないもんです。
 
――それで、クラシック以外の音楽を探るようになったでしょうか。
 
個人的に波乱もあった。実は結婚生活がうまくいかず、94年から独り暮らしを始めたんです。これが一つのきっかけで自分に目が向くようになった。フルートという楽器そのもの、自分の音色、演奏の中心ジャンルがクラシック音楽であること。。。一つひとつ、じっくり考えてみるようになりました。多分、音楽家として自活していくための、「自分」を確認するプロセスでした。本でフルートの歴史を勉強し、自分の理想に合う楽器を求めて買い替え、先輩の意見を聞きながら楽器の仕組みを一部造り替えたりもしました。クラシックを中心にフルートに携わる中で培ってきた私の音色や音楽性を上手く活用でき、しかも演奏していて自分が心の底から満足できる音楽が欲しくなった。「魂」で演奏したかった、というとキザに聞こえるかもしれませんが。。。クラシック以外の、様々な音楽を聴くようになり、ジャズに挑戦してみたり、キューバの音楽に触れてみたり。友達の意見を聞きながら試行錯誤をしているうちに出合ったのが、ショーロだったんです。
 
――いつごろでしたか。
 
今から6年ほど前、97年の冬です。大学の同期から借りたCDがきっかけでした。彼はワールドミュージックのファン。私が「音楽探し」をしているのを知り、世界各地の音楽を紹介してくれた。ショーロの第一印象? 演奏家同士のやり取りがホント楽しくて、場が華やぐように感じました。ショーロは、南米の伝統音楽なのにクラシックで用いる銀のフルートを使う点も、私向きに思えました。即「私もやりたい!」です。でも当時、ショーロのCDは大型店でも数えるほど。こまめに買い集め、繰り返し聴いて譜面に書き取り、時折、真似てみるようになりました。大阪のアマチュアのサンバグループを紹介してもらい、ショーロを試してみたり。でもCDからだけだと、この音楽のリズムはどうなっているのかよく分からない。足踏み状態で過ごすうち、ショーロ界の大物クラリネットが大阪ブルーノートに来ると知り、勇んで出掛けました。2000年7月です。 ――生演奏の印象は如何?  公演はボサノヴァ主体で、彼らは伴奏。マウリシオが歌手と一曲、ショーロを弾いたんですが、正直なところ「難しいなぁ」と思いました。ギターなのに、彼の演奏は単音ばかりでハーモニーがとても少ない。リズムをあまりにも複雑に崩して弾くので、テンポも分からないし。家で聴き慣れたCDとは違う、まるで現代音楽風の演奏でした。とはいえ好きなショーロ。マウリシオはブラジルを代表する名フルーティストの甥で、何となく興味が尽きなかった。翌8月、彼の主宰するグループが来日すると聞き、心が動きました。会場が遠い。宮城県南部の白石市でした。 ――飛んでいった?  私、それまでロクに旅したことがない。オーケストラの演奏旅行に加わったことはありましたが、移動や宿の手配は事務局任せ。今度は自費だし、お盆時期で航空運賃も張る。でも「夏休みにするか」と思い直した。当時、「人生やり直したい」と思ってたんです。1990年代は、大変でした。結婚が破綻。独りで稼がなきゃならないのに、バブル崩壊で仕事が減るし、それに震災が追い討ち。椎間板ヘルニアになるわ、扁桃腺膿瘍になるわで体もガタガタ。自分で救急車を呼び、入院したのを見かね、母が「一度帰っておいで」と言ってくれたんです。実家に戻ったのが99年暮れ。「どん底」の気分でしたが、親元はやっぱり助かる。夏ごろには大分、生気を取り戻していました。幸運なことに白石への旅も、ショーロファンの友達が付き合ってくれることになった。出発前、その彼が「フルート持って来いよ」って言う。 ――何に使う?  公演前夜、ひょっとしたら「ホーダ・ヂ・ショーロ」があるかも、という言うんです。聞きなれない言葉。どうやらコンサートでもライヴでもなく、食事しながら気の合った仲間がワイワイ合奏して楽しむ「場」らしい。白石公演にはマウリシオのほか、今回共演するペドロ・アモリン(バンドリン)やセルシーニョ・シルヴァ(パンデイロ)ら、一流のカリオカ(リオっ子)が集まることになっていて、いきなり私とぶつけようという魂胆でした。彼らの宿になってるレストランで待ってると夕方、一行がやってきた。食事が終わると案の上、楽器を取り出す。皆テーブルを囲んで座り、まるで家庭の音楽会。マウリシオのすぐ近くに陣取り、一心に聴きました。そのうち、例の友達が「はよフルート出し!」とささやくんです。「聴くだけで十分」なんて誤魔化してると、しびれを切らして「彼女はフルーティストで、遠くから楽器を持って来た」とマウリシオに言っちゃったんです。 
 
――生演奏の印象は如何?
 
公演はボサノヴァ主体で、彼らは伴奏。マウリシオが歌手と一曲、ショーロを弾いたんですが、正直なところ「難しいなぁ」と思いました。ギターなのに、彼の演奏は単音ばかりでハーモニーがとても少ない。リズムをあまりにも複雑に崩して弾くので、テンポも分からないし。家で聴き慣れたCDとは違う、まるで現代音楽風の演奏でした。とはいえ好きなショーロ。マウリシオはブラジルを代表する名フルーティストの甥で、何となく興味が尽きなかった。翌8月、彼の主宰するグループが来日すると聞き、心が動きました。会場が遠い。宮城県南部の白石市でした。
 
――飛んでいった?

 私、それまでロクに旅したことがない。オーケストラの演奏旅行に加わったことはありましたが、移動や宿の手配は事務局任せ。今度は自費だし、お盆時期で航空運賃も張る。でも「夏休みにするか」と思い直した。当時、「人生やり直したい」と思ってたんです。1990年代は、大変でした。結婚が破綻。独りで稼がなきゃならないのに、バブル崩壊で仕事が減るし、それに震災が追い討ち。椎間板ヘルニアになるわ、扁桃腺膿瘍になるわで体もガタガタ。自分で救急車を呼び、入院したのを見かね、母が「一度帰っておいで」と言ってくれたんです。実家に戻ったのが99年暮れ。「どん底」の気分でしたが、親元はやっぱり助かる。夏ごろには大分、生気を取り戻していました。幸運なことに白石への旅も、ショーロファンの友達が付き合ってくれることになった。出発前、その彼が「フルート持って来いよ」って言う。

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【”運命の出会い”の場となった宮城県白石市のレストランで】

――何に使う?
 
公演前夜、ひょっとしたら「ホーダ・ヂ・ショーロ」があるかも、という言うんです。聞きなれない言葉。どうやらコンサートでもライヴでもなく、食事しながら気の合った仲間がワイワイ合奏して楽しむ「場」らしい。白石公演にはマウリシオのほか、今回共演するペドロ・アモリン(バンドリン)やセルシーニョ・シルヴァ(パンデイロ)ら、一流のカリオカ(リオっ子)が集まることになっていて、いきなり私とぶつけようという魂胆でした。彼らの宿になってるレストランで待ってると夕方、一行がやってきた。食事が終わると案の上、楽器を取り出す。皆テーブルを囲んで座り、まるで家庭の音楽会。マウリシオのすぐ近くに陣取り、一心に聴きました。そのうち、例の友達が「はよフルート出し!」とささやくんです。「聴くだけで十分」なんて誤魔化してると、しびれを切らして「彼女はフルーティストで、遠くから楽器を持って来た」とマウリシオに言っちゃったんです。
 
――ピンチ! いやチャンス?
 
ここで怯(ひる)んだら女がすたる。開き直って吹き始めました。<ナケーリ・テンポ><ドッシ・ヂ・ココ><フロール・アモーザ><ウン・ア・ゼロ>…。私レパートリーは5、6曲しかなかった。皆スタンダード中のスタンダードです。独学で身に付けたショーロ。夢中でした。でも気心の知れた者同士の、ほのぼのとした雰囲気があって、おかげで私も硬くならずに済みました。始まってすぐ、マウリシオが、「アナタはリオに来な きゃ」と言ってくれた。どこまで本心か量りかねましたが、嬉しくて大声で叫んじゃったほどです。 
 
――"お眼鏡"にかなったんですかね。
 
私の手持ちが尽きると、マウリシオが別の譜面を出してきた。もちろん初めての作品ばかりでしたが、私、結構初見が強い。ブラジル人から「なかなかフレーズをうまく作るネ」と褒めてもらった。譜面の間違いを見つけることもでき、音を直しながら吹いたりもしたので、「ナニモノ?」と少なからず驚いたんじゃないかしら。幼い頃からピアノに親しみ、私は絶対音感があるんです。初めての曲にもそれなりに対応する私を、評価してくれたと思う。一段落したころ、マウリシオが真剣な表情で私の経歴を尋ねてきた。ショーロは、私の"趣味"でしたが、「もし将来、自分のアルバムを作るならショーロで」と夢見ていた。マウリシオにそう打ち明けたら、「じゃあ、作ろうヨ」って答えてくれたんです。彼は当時、ショーロ専門の会社「アカリ・レコード」をリオで立ち上げたばかり。私はそんなことも知らないし、本気にはしていませんでした。でも、彼の方は思うところがあったんですね。。。さて、我に返ると夜中の1時でした。2000年8月19日。この日は、それまでの人生で一番楽しかった。興奮でなかなか寝付けませんでした。
 
――翌日は。
 
コンサートのお手伝い。公演前、マウリシオが私を探しているという。楽屋に行くと、彼が一枚の楽譜を手渡してくれた。「今朝、宿で書いたんだ。プレゼントだよ」っていうんです。読みづらい、手書きの譜面です。タイトルは、「Naomi vai pro Rio(ナオミ、リオへ行く)」。そして「今夜、また皆で音楽やろうな」と誘ってくれました。こんなこと、映画か小説の中でしか起こらないと思ってました。もう、すっかり舞い上がってしまい、胸が詰まって何も言えなかった。
 
――思いがけないプレゼントでしたね。その夜は?
 
昨夜のレストランに出演者が勢ぞろい。打ち上げの熱狂が引いたころ、またホーダ・ヂ・ショーロが始まった。今度は、憧れのショーロ・クラブの笹子(重治)さん=ギター=や、秋岡欧さん=バンドリン=もいる。マウリシオの手書きの譜面を皆、肩を寄せ合うように覗き込んで演奏する。私も何とか、ついていった。ベテラン揃いで、昨夜と違う曲がいっぱい出て来る。音を介した会話が聞こえてくるよう。こんな貴重な機会は二度とない、学べるものは学び取っておこう―と懸命でした。マウリシオたちとはすっかり友達になれた。お開きは明方4時ごろ。一生に一度の、夢のような二日間が終わりました。大阪ではオーケストラの仕事が待っている。もう休みはオシマイ。翌朝の飛行機で神戸に戻りました。
 
――自宅に戻ってからは。
 
自室に落ち着いて初めて、しみじみ感じることがありました。机には、マウリシオの楽譜が一枚。音楽は消えてしまったけれど、それだけが、あの特別な時間の証(あかし)でした。素晴らしい贈り物をもらったのに、自分は何もお返ししていないと気付き、プレゼントを思い立ちました。お酒? お菓子?そんなんじゃ心が伝わらない。よく考えて結局、自分も曲を返すことにしました。作曲なんて、小学校時代の音楽教室以来。自信はイマイチでしたが、専門家でもないし、「下手でもご愛嬌」と自分を説き伏せ、オーケストラの仕事の合間、1時間ほどで書き上げました。これが「私をリオで待っててね」です。この時すでに、ブラジルに行くのも良いかな、と思い始めていた。ポルトガル語の訳は、辞書が無かったので知人の先生に尋ねました。私の中でショーロの位置付けが変わり始めた。海外へは留学はおろか、観光旅行さえしたことがありません。なのに地球の裏側、言葉も知らないリオに行こうというんですから、どうかしてる。でも「人生やり直し」でしたし、いつまでもオーケストラのエキストラばかりじゃ展望も開けないと感じてもいた。違う世界を見るのも良いかナー、という冒険心がどこかにあった。熟考する時間も無かったし、軽はずみだったと言われても仕方ないですが。
 
――そのお返しを、どうやって渡したのですか。
 
その週末、彼らは岐阜の音楽祭に出演することになっていた。直接手渡そうと飛んで行きました。終演後、楽屋に押しかけたら、「これはカリオカのショーロだ」って、もう大はしゃぎ。私は意識してなかったんですが、贈られた曲に曲で返礼するのは、オーソドックスなマナーだったんです。ショーロの形式は勉強してましたから、形には、はまっていた。彼らには、予想外の行動だったんでしょうね。盛り上がって、ヨッシャ今夜もショーロをやろう、ということになりました。場所は、宿近くの長良川の河原です。クラシック畑の私にとり、蚊の舞う川沿いで演奏するなんて、初めての体験。皆ビールを呑みながらでしたし、何だか悪いことをしてるみたいな、後ろめたさもありました。でも、音を合わせ始めたら、そんな気持ちは吹き飛んでしまい、「あ~何て気持ちが通じるんだろう。ずっとこの人たちと演奏していたい」。見つけたぞ、これが私の本当にやりたいことだったんだ。心に空いた穴が、音楽でひたたひたと満たされていったんです。
 
――また夜通し合わせたんですか?
 
メンバーも疲れていたし、この日は2時間くらい。翌朝は皆で岐阜城を散歩しました。昼食を摂ってた時、マウリシオが私に「オマエは、笹子と一緒に演奏する力がある」と言ってくれた。笹子さんはかつて、奥様ともども8カ月間マウリシオ家に住み込み、修業した日本の草分け。マウリシオに「笹子さんあてに紹介状を書いて」と頼んだんです。他のメンバーが見守る中、彼はその場で五線譜に手紙を書いた。「ナオミは上手だ。一緒に仕事をしたら良いと思うよ」。私には判読不能の、ポルトガル語で綴られた"お墨付き"でした。その日の夜、笹子さんがミナミでライブするのを私は知っていた。善は急げ。これを持って、すぐ会いに行くことにしたんです。
 
――え! 随分急です。
 
マウリシオに告げると「ナオミ、今度はリオで会おうな。オリジナルを書き溜めろ。1週間に1曲書けよ。そしたらリオでCDを作れるぞ」。急いでメールアドレスを交換し「サヨナラ」―。時間的には何とか間に合うはずでしたが、慌てていたのでバスに乗り間違え、大阪入りは大幅に遅れてしまった。ライブハウスに駆けつけた時、既にアンコールの最中でした。打ち上げにお邪魔し、切り出しました。笹子さんは私がプロの演奏家なのを確かめたあと、"恩師"の推薦にこたえ「ショーロについて教えてあげる。信頼出来る人には紹介もする」と約束してくれました。ただ当時、笹子さんは純然たるショーロからは距離を置いていた時期で、一緒に演奏するのは待って、という答え。マウリシオからの誘いには「ショーロはリオに行かないと分からないことが多い。彼の家族は最高のホストだ。行くと良い」と太鼓判を押してくれた。それから2週間ほど経ち、神戸に小包が届いた。笹子さんからで、中身はMD14枚。レポート用紙に鉛筆書きで、ショーロの作曲家や演奏家の系譜が記されていた。その量何と20ページ。憧れの人がくれた、私だけのための"入門書"。思いやりに、指が震えました。「絶対ブラジルに行く」。決心したのは、この時です。
 
――白石の出会いから、1カ月余。大変な"変身"ですね。
 
 「運命の潮目」ってあると思います。あまりにもいろんなことが、一気に起こりました。音楽仲間に相談したら、はじめは「そんな外人、アテにならない」と心配の声もありましたが、私の迫力に押されたのか、最後は「そんなに言うなら行くべきよ」という返事になりました。それから半年間、週一回は必ずポルトガル語を習いに通い、CDを聴いては譜面を起こし、自作をつくる毎日。オーケストラの仕事をしながらで苦しかったですが、ここでメゲたら先が無い。30代も半ば、遅ればせながら武者修行でブラジルに行く以上、日本で出来る限りの準備をして行かなきゃ、と踏ん張りました。
 
――そして2001年春、ついにブラジルへ。。。
 
ニュースによると、治安が良くない。初の海外旅行。しかも一人で不安が募る。友との別れも辛い。名古屋空港に行く新幹線で、メソメソ泣いてしまった。搭乗口に行くと、周囲はポルトガル語の海。それを聞くと一気にワクワクしてきて「エーイ、どうにでもなれ」とハラを括りました。リオにはサンパウロ経由で24時間。麻薬の取締が厳しく、税関で絞 られて、もうグッタリ。到着ロビーに出たらアレアレ? だれも迎えに来てない。出発前、連絡したのに。「私をリオで待っててね」のハズじゃなかった?こんなんで大丈夫かな…途方に暮れました。後で聞くとマウリシオは、CDのレコ―ディング中で、日にちを間違えていたらしい。着いて3日もすると、今度はその録音に加われというんです。制作してたのは「プリンシピオズ・ド・ショーロ」。文字通り"ショーロの歴史"をまとめる、15枚組の本格的なプロジェクトでした。出演はアウタミロ・カヒーリョ、アントニオ・カハスケイラといった高名なフルート奏者や、白石で共演したペドロ・アモリンのほか、プロヴェータ(クラリネット)、クリストヴァン・バストス(アコーディオン、ピアノ)ら、リオの猛者揃い。1時間で1曲のペースで、毎日8曲。臨場感溢れる一発取り。まさにライヴです。こんな計画、日本に居た時には聞いておらず、最初はオロオロ。ビールも喉を通らない。でも、名手の音楽づくりを共有できる。これ以上の勉強はない。丸1カ月、連日、収録に張り付きました。私の出番は全240曲のうち15曲。マウリシオは巨匠たちとの組み合わせを多分、計算していたと思う。ブラジル人たちは、いきなりやって来た日本人に戸惑ったかもしれません。でも私は曲ごとに、相手の音楽を聴き、即興で毎回違う音楽をぶつけていきました。突っ込み、からかい、肩透かし。。。音でそんなやり取りが出来る本当に貴重な体験。別れ際にはお互い涙を流すほど、受け入れてくれました。 

 

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【マウリシオ・カヒーリョと】

――約束の、自分のCDは?
 
共演者の都合がなかなかつかず、結局帰国直前の二日間で収録したんです。でも半分だけ。「ナオミ、残りは来年だ」。マウリシオの言葉を聞いて気が遠くなりそうでした。思うに彼は、プロデューサーとして、かなり確信犯的に私をどんどんショーロに引きずり込んでいったキライがある。あちこちに、"仕掛け"があるんです。
 
――帰国し翌年もリオへ。というわけですね。オーケストラは?
 
日本に戻って以前と同じように続けました。おカネも貯めなきゃいけませんし。でも、帰国した時点で、ショーロを自分の中心に置きたいと考えていました。笹子さんとのデュオを始め、二度目のリオではあちこちのホーダ・ヂ・ショーロに顔を出したり、録音したり、ショーロの学校で教えたり。2003年7月には、ブラジルでCDを発売しました。ブラジル人以外でショーロのファーストアルバムをブラジルで発売したのは、私が初めて。録音している時も、ホントに出るのかしらと内心思っていたので、嬉しかったですね。
 
――ショーロの世界で、どんなプレーヤーになりたいですか?
 
例えば、タンゴの世界にはバンドネオンの小松亮太さんがおられる。フルートはありふれた楽器ですから、苦労するかもしれませんが。あんな風な、ショーロの「顔」になれたら素晴らしい。今はオーケストラの仕事はもうしていません。でも演奏活動の内訳は、スタジオでのCM音楽録音や、イベントでの演奏がまだまだ多く、ショーロが占める割合は10%にも満たない。でもそれだからこそ、良い舞台にこだわれる面もあると思います。今回の舞台では、こんな音楽家人生もあっても良いんじゃない、って呼び掛けてみたいです。今の夢はブラジルに住むことかな。出来ることなら3年くらいは住んで、ショーロを生んだブラジルの文化を、体いっぱい吸収してみたいですね。
 
――最後にショーロの魅力を。
 
ショーロのハーモニーは、ポピュラー音楽の中では例外的とさえ言えるほど多彩。転調も多く、またこれほど込み入ったリズムを使うのも珍しい。同じブラジル音楽でも、サンバやボサノヴァに比べ、作品に込められた感情の綾が細かいといえるんじゃないでしょうか。即興も魅力ですが、ジャズと異なる点は、基本的な旋律がキチンと決められていて、あまり崩さない面がある。装飾の付け方で演奏家の嗜みを楽しんでもらうところは、バロック音楽そっくりです。親しみやすい音楽ですが実はクラシック音楽と同様、形を重んじるところもあります。いつも自由な表現を探るのが好きで、音楽で遊びたい私には一番合っていると思います。生で聴いていただけると一番分かってもらえます。フェニックスホールの公演では、マウリシオの新曲初演もあります。舞台もふだんのクラシック公演とは全く違う場所に設定するなど、工夫がいっぱい。ホールでお会い出来るのを楽しみにしています。ぜひおいで下さい。

▼左上から右へ、ギター、パンデイロ、フルート、パンドリン、カバキーニョ 

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【ショーロとは】
Choro 19世紀半ば、ブラジルのリオデジャネイロで生まれたポピュラー音楽。主にポルトガルからの移民が持ち込んだポルカやワルツ、メヌエットといったヨーロッパのクラシック音楽の形式と、アンゴラやコンゴ、モザンビークなどのアフリカ諸国から強制移住させられた黒人奴隷の音楽リズムが融合した。歌が活躍するサンバとは異なり、器楽合奏を主とする。フルート、バンドリン(マンドリンの一種)がソロを担当し、ギター、カヴァキーニョ(ウクレレに似た撥弦楽器)とパンデイロ(タンバリンの一種)が伴奏するのが基本的なスタイル。初期にはピアノも重要な役割を果たしていたと見られる。その後、クラリネットやサキソホン、トランペットやトロンボーンといった管楽器も用いられるようになり、旋律に歌を付けるケースも現れるなど様々な形態が見られるが、総合的な特徴として①即興を伴う技巧的な演奏と②独創的な対位法が挙げられるほか、多くの作品からサウダージ(郷愁)を感じ取ることができる。ショーロの振興に特に貢献したのは、人気作曲家ジョアキン・アントニオ・ダ・シルヴァ・カラード(1848‐80)や同じく黒人の名フルーティストで、サンバの作曲家でもあったピシンギーニャ(1898‐1973)、バンドリン奏者で作曲家ジャコー・ド・バンドリン(1918-1969)らが挙げられる。ショーロの語源は、ポルトガル語の動詞「chorar泣く」のほか、ブラジルのアフリカ人たちが使っていた「パーティーやダンス」を意味する言葉「xoloショーロ」とも言われている。

◇くまもと・なおみ◇
神戸市生まれ。小学生時代からピアノを始め、神戸市立苅藻中(現・ 長田中)吹奏楽部でフルートを始める。兵庫県立夢野台高を経て大阪教育大学特設音楽課程フルート専攻卒業。その後関西で音楽教室の講師を務め、神戸で結成された日本で初めて女性フルートアンサンブル「エリオ」メンバーとして活動。ミュージカル向けやスタジオでの録音を手掛け、1989年神戸で結成されたプロ楽団「ニューフィルハーモニー管弦楽団」のメンバーに。同楽団解散後は大阪シンフォニカー、関西フィル、テレマン管弦楽団などでエキストラ(客演)として活動。97年ブラジル音楽「ショーロ」に興味を持ち始め、2000年同国を代表するギタリストで作・編曲家、研究家マウリシオ・カヒーリョと出会う。01年渡伯、リオデジャネイロに3カ月間滞在。"プリンシピオズ・ド・ショーロ"(19世紀作品集)の録音に携わり、実力派と共演、現地での公演やライヴにも参加し研鑚した。02年3月再びリオで"ジョアキン・カラード全集"の録音に参加、後進の指導にも携わり、M・カヒーリョのプロデュースでファーストアルバム"Naomi vai pro Rio‐ナオミ、リオへ行く"を録音。03年7月ブラジルと日本で発売。10月発売記念ツアーとして東京・名古屋・大阪・岡山で公演。11月リオで録音メンバーによるCD発売記念公演。同地のライヴにも出演。また初めてサンパウロを訪問、同地の演奏家と交流。日本では大阪「CHOVE CHUVA(ショヴィ・シュヴァ)」=西区京町堀1-13-2 藤原ビル2F=でホーダ・ヂ・ショーロを開くほか、「ショーロ・クラブ」のギタリスト笹子重治とのデュオを軸に、全国で演奏を展開、日本でも後進の指導にも当たっている。