打楽器奏者 中村功さんインタビュー

母の背中でリズム"体得"

掲載日:2004年4月3日

今年3月、ザ・フェニックスホールでパーカッションコンサートを開く中村功さんは大阪の生まれ。現在はドイツのカールスルーエ国立音楽大学教授を務める傍ら、打楽器の独奏者として日欧の楽団との共演やリサイタルで活躍中だ。故ジョン・ケージやカールハインツ・シュトックハウゼンら現代を代表する作曲家たちからの信頼も厚い、正に世界的な奏者だが、演奏家としてのスタートは阿倍野にある王子神社の祭り太鼓だったという。ピアノやヴァイオリンに比べるとまだ珍しい「打楽器のソリスト」を若いころから志し、いろいろな困難にぶつかりながらも夢を追い続けたパワーは、一体どこから生まれたのか。公演準備のためこのほど故郷を訪れた中村さんに、これまでの歩みを4時間たっぷり伺った。


● 隣町へ直談判に ●

 生まれは大阪・阿倍野です。生家の一帯は夏、王子神社のお祭りで賑(にぎ)わう所。神輿(みこし)が出ると、枕太鼓とダンジリ囃子(ばやし)を僕と同じような年恰好の子が叩いている。子供心に格好良いと思ったんですね、自分も試したくて堪(たま)らなくなった。ただ、僕の通っていたのは晴明丘小学校。校区の子供は伝統的に神輿を担ぐ役割になっていたもので、太鼓など叩かせてもらえない。でも、夏休みになると手がムズムズする。ある日、隣組のまとめ役みたいな人の家に一人で出掛け、直談判したんです。お米屋さんだったかなぁ、店の土間で「どうしても枕太鼓を叩きたいんです」とお願いしたらOKしてくれた。その代わり「お神輿はかついだらあかんでー」と言われましたけどネ(笑)。それから毎年7月の下旬は、昼間は枕太鼓を、夜にはこれまた別の校区で談判して許可をいただいたダンジリ囃子を、それぞれ叩きながら、地域を回ることになりました。
1歳の頃、よく母の背中でダンジリを聴き、そのあと家に帰り、おばあちゃんに買ってもらったデンデン太鼓で真似をすると、そのリズムが本物とピッタリ合っていたそうです。大きくなって祭りの前、地元のおっちゃんが叩き方を教えてくれたんですけど、最初から分かっていたかのように「あー、これやこれや」という感じでするする叩けました。もしかしたら生まれつき、祭り太鼓を叩く運命になっていたのかもしれません (笑)。
父は、京都美術専門学校(現・京都市立芸術大学)出身で、その兄弟もほとんどが絵描きでした。母はお茶、お花の先生をしていましたし、芸術文化に理解のある環境だったと思います。5歳の頃、なぜか自分からオルガンを習いたいと言い出し、小学校に入ってからは鍵盤が足りないのでピアノを習いました。その後、相愛学園の「子供のための音楽教室」にも通い、聴音やソルフェージュ(基礎教育)のレッスンも受けていました。一方で夏は水泳、冬はスキーのスポーツ少年。ボウリングも好きでしたし、ボーイスカウトにも参加し忙しかった。ピアノの練習は、野外で遊ぶのが好きな男の子だったからでしょうか、段々と嫌いになっていきました。クラシック音楽を聴いたことのなかった僕を、音楽の勉強になるだろうと、友人のお父さんがNHK交響楽団の公演に誘ってくれ、フェスティバルホールに行ったんですが、すぐに気持ちよく眠ってしまったそうです(笑)。

● 打楽器はどう? ●

 でも、高校進学の段階になると不思議にも真剣に音楽をやりたいという気持ちが頭をもたげてきた。一族には音楽で生きている者はいなかったですが、親父に相談したら「まあ、やってみるか」ということになり、ともかく細々と続けていたピアノの腕前を判定してもらうことになりました。そこで京都市立堀川高校音楽科の先生の自宅へ。「ピアノでは入学はムリだけど、あなたリズム感が良さそうだから打楽器なんてどうかしら」とビックリする発言をもらい、打楽器をやってみることになりました。
といっても最初はバチの持ち方さえ知りませんでした。この先生のご紹介で打楽器のレッスンを受けたのですが、1か月弱習っても入試の課題曲はマトモに叩けず、指定テンポの半分の速さでどうにかこなす、というありさまでした。
でも1月末の実技試験は、滑り込みで合格できまし
た。入学はできたものの、それからが大変。その年から夏にオーケストラの演奏会を学校行事として開くことになり、打楽器専攻の生徒が他に誰もいなかったので、僕が今まで触ったこともないティンパニでベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番や、「英雄」交響曲を演奏することになりました。この時、初めて自分でクラシックのレコードを何枚も買い集め、研究しました。がんばって練習したせいか、何とかこの“大役”をはたすことができました。
最初1年間は、バスや特急を乗り継ぎ片道2時間、往復4時間かけ大阪から通いましたが、練習も十分に出来ないので、2年目からは御所の近くに下宿しました。学校まで自転車で15分で通えるようになりましたが、経済的に親の世話だけになるわけにもいかず、夕刊配達のアルバイトをやりました。下宿は同志社や立命館に通う大学生と一緒で、自室に居ると議論が聞こえてくる。政治的な話題に関心が出てきたのもこの頃でした。当時流行っていたフォークソングなんかも、作曲したりしてみました。

● 入試で笑われる ●

 堀川だけでは、自分の実力がよく分かりません。2年の夏、東京芸大の付属高校で打楽器を専攻している女の子を知人に紹介してもらい、列車に乗って彼女の家まで行きました。で、演奏を聴かせてもらったんですけど、これが自分とは格段の差。もぅどうしようもないくらいウマイんです。落胆して京都に戻りました。でも、いつまでもメゲてるわけにもいかない。練習しかないと思い、それからはホントに猛練習しました。ご飯もそこそこに、起きている時間の大半は練習していた。
にもかかわらず、東京芸大の入試は、一筋縄ではいかなかった。1次試験が小太鼓の基礎打ちとマーチの課題曲。2次がマリンバの音階など。実はマリンバは高校2年くらいから始めたので、演奏の基本である音階や分散和音も、まだ他の受験者のようには速くは叩けない。自分なりに弾くしかないと思い、一音、一音気持ちを込め上行形はゆっくりと大きなクレッシェンド、下行形は大きなディミヌエンド、と一つの曲を弾くように演奏した。そしたら、居合わせた試験官の一人の先生がいきなり、大声を張り上げて笑ったんです。    

● 自戒し練習の虫 ●

 あんまり大声で笑われたもんですから、すっかり動揺してしまい、マリンバでト長調の音階を叩くはずが、演奏の途中でト短調に変わってしまったほどでした。宿に帰ってすぐ父に電話し、「頑張ったけどアカンかった。悪いけど一年、浪人させて」と言いました。他大学は受けてませんでしたからね。でも、合格してたんです。「音楽的」と評価されていたらしい。最後の学科試験も無事、合格できました。もちろん嬉しかったですが、周囲には浪人して入った同期や先輩も多く、「自分は運が良かっただけ」と自戒しました。そういうわけで、上石神井の寮に入り、本当に気合を入れて練習しましたよ。

● サンバで大受け ●

 民族音楽学者の故・小泉文夫先生のゼミで、世界各地の音楽をテープで聞き、譜面として書き取る演習があったんです。それで偶然、ブラジルの音楽の1つ、サンバに出会いました。聴いた途端、ガーンと衝撃を受けた。「自分のやるのはコレや。コレしかない」と思いましたね。書き取ったサンバの楽譜を後輩に配り、ある日、大学で演奏したんです。サンバは野外でなきゃつまらない。でも音楽学部は、室内でないと演奏を許可してなかった。同じ芸大でも美術学部の構内なら良いだろう―と謀(はか)り、演奏を始めた。すると人が次々に集まって来て地べたに座り始めたんです。あっという間に200人ほどに膨れ上がりました。僕らは短いフレーズを1つしか用意してない。繰り返しやるだけなんですが、“聴衆”はすごい熱気でした。一段落して帰ろうとしたら、前で聴いてた美術学部の学生が来て、サンバのバンドを組んでる―というんです。1970年代の終わり、 まだサンバなんて珍しい時代でしたが、彼は「オマエはサンバを分かっちゃいない」なんてつついてくる。練習に行くと実際ブラジルの楽器もあったし、ブラジルの言葉で歌も歌ってた。テレビ局の照明係さんや呉服屋の若旦那もメンバーにいる、不思議な寄り合い所帯でしたが、サンバをやりたい人ばかりが集まっているから、もう楽しくて仕方ない。小手先ではなくて、体全体から音楽が出てくるのが好きで、そのうち僕も芸大で打楽器科の後輩や美術学部の学生を誘い、バンドを作りました。先生からは白い目で見られましたが、学園祭では大変な人気で、遠征もしました。浅草で今も開かれているサンバカーニバルのルーツは、僕たちにあると言っても過言じゃありません。大学の打楽器科ではいろいろ悩むことも多かったんですが、サンバは楽しかったなぁ。

道開いた夢・意志・出会い

● 父の死機に自立 ●

 4年生になってしばらくしたころ、父が急死したんです。事故でした。仕送りが途絶えかねない。退学も考えたんですが、母は「卒業だけはして。私も頑張るから」と言ってくれた。働き口を求め、先生に仕事の斡旋(あっせん)を頼みに行きましたが、とり合ってくれない。「僕は、自分の道を行くことにします」と言い残して、働き口を探しました。学校に籍は置いたままです。アラン・ドロンの吹き替え声優として有名な野沢那智さんが音楽監督を務めたミュージカルで雪村いづみさんの伴奏をしたり、当時アイドル歌手の岩崎宏美さんと全国ツアーに行ったり。サンバのグループでも活動は続けており、ブラジルレストランでは、今人気の小野リサさんと一緒に出演もしていました。何とか大学を卒業して、しばらくしたころ日生劇場で劇団四季の「ウエスト・サイド・ストーリー」に起用されました。作曲者バーンスタインは打楽器奏者にクラシックの奏法に加え、マンボやチャチャチャなど、様々なラテンリズムも演奏するよう求めている。それまではクラシックとポピュラー、2人の奏者を雇い、曲によって奏者が代わることも多かったですが、僕は両方が出来たので重宝がられました。ともかく卒業した81年春から、ホント死に物狂いで働き始めました。

● 憧れのドイツへ ●

 3年ほどがむしゃらに仕事をしていると、テレビのCMや映画音楽の仕事が次々に入るようになってきた。中には数時間で何万円も稼げるケースもある。仲間から「イサオ、お前、これからスゴイ金持ちになれるぞ」なんて言われました。でも僕にはずっと留学する夢があったんです。京都の堀川高校の先生にしても、芸大の先生にしても、ドイツやアメリカで学び、得たものを教えてくれていた。でも、それは彼らが留学した時代の音楽や技法。僕も、一年間でも良いから今の音楽を自分で体験したかったんです。どうしても、ベートーヴェンの生きた国で暮らしてみたかった。華やかな舞台の仕事はなかなか楽しかったし、お金にもなりましたが、毎日が忙しく過ぎて行き、将来への展望は描けなかった。留学を心に決めて、それからはスタジオなどの仕事はやめ、今度は資金づくりのためにひたすら働きました。朝7時から夜7時までデパートの荷物配達をし、その後すぐ8時から夜中2時まで演奏の仕事をやったこともあります。1年間で80万円貯め、84年秋、ドイツに旅立ちました。友達の伝手(つて)を頼ってフライブルク音楽大学のベルンハルト・ヴルフ教授を紹介してもらった。レッスンを受けたら、それまで経験したのと中身が全然違うんです。簡単なリズムパターンを叩いて「イサオ、大切な音はどれだ?」なんて尋ねてくる。音楽のつくり自体を考えさせる指導に感じて「ヨシ!ここだ」と思い、大学院に入りました。85年春のことです。この課程は2年。僕は結局その後さらに2年、ソリスト養成のための課程にも在籍したので、4年間の学生生活を送ることになりました。

● 巨匠たちと交流 ●

 86年、現代音楽の紹介拠点として世界的に知られるドイツの「ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習会」に参加、クラーニッヒ・シュタイナー賞をいただいた。このころから、優れた作曲家たちと一緒に仕事をするようになりました。また、フランクフルトを拠点にした現代音楽専門の演奏グループ「アンサンブル・モデルン」のメンバーとしても演奏する機会が増えていきました。あのころフライブルクではイタリアのルイジ・ノーノ(1924‐90)が滞在し、曲を作っていた。先生を介して、彼の作品発表会の仕事を頼まれたことがあった。またドイツを代表するカールハインツ・シュトックハウゼン(1928‐)から手紙が来、新作「ミヒャエルの旅 世界の果てまで」(ソリスト編)の演奏を依頼されました。どちらも大変な大家。光栄でした。その後、市民革命で東独政権が倒れそうになったころ、東ベルリンの芸術アカデミーでケージと共に出演した演奏会のことが忘れられません。公演会場はかつて、国家的に認められた芸術家のみが入れた「殿堂」でしたが、あの時はジーンズ姿の若者が大勢押し寄せて床に座り込み、音楽的な“アナキスト”として知られたケージの作品を聴いたんです。一つの時代の終焉(しゅうえん)、大きな変化を印象付けた公演でした。彼が書いた「貝殻が五つ」は、ほら貝の中に水を入れ、その中で泡が立てる音に耳を澄ます―という作品。どんな音が出てくるかを聴く、彼ならではの「偶然性の音楽」作品です。「私はイサオの音が好きだ。イサオも自分の音が好きだろ」ってよく言ってくれましたが、ケージの曲を演奏する時は、自分の好きな音を真摯(しんし)に探すことが大事だと思います。この3人の巨匠に限らず、大勢の作曲家の基本には政治的な思想がある、と思います。現代作曲家と一緒に音楽に携(たずさ)わるのは、同時代を生きる者の喜びです。一人の人間がどんな環境の中で生き方を決めていくか、直に知ることが出来る。彼らと言葉を交(か)わす中で、僕自身、人間的に成長していくことができるんです。

● ハングリー精神 ●

 今は打楽器のソリストとして活動していますが、ここに来るまでは、簡単な道ではありませんでした。留学時代、最初、日本で用意したお金だけじゃ足りなくなってきた。途中、数カ月間帰国した折、東京でミュージカルの仕事をしないかと誘いを受けたこともありましたが、ヴルフ先生には「帰るな。せっかく身に付けた音楽が元に戻る」と言われ、やめたんです。89年春にソリスト養成課程を卒業した後、そのままフライブルク音大の非常勤講師になりました。それまでは、アンサンブル・モデルンで仕事をしていれば、経済的にもある程度安定していたんですが、1カ月間のうち、10日間もこの仕事に取られてしまう。僕は、やっぱりアンサンブルのメンバーとしてではなく、「ソリストとして生きたい」と思い直した。たとえ苦労しようとも、アンサンブル・モデルンは辞(や)めることにしました。講師としては1週間に1日だけ教えました。これで生活は何とか保てます。ソリストとして生きていく上では、ともかく自分の時間が必要だったんです。卒業したてのころは、練習場所に困りました。家の裏に小さな電気工場があり、持ち主を説き伏せて何とか借りましたが、練習しようにも最初、自前の楽器はマリンバ一台だけ。それも知り合いが日本から船便で送ってくれたものでした。公演でギャラが入るたび、徐々に、買い揃(そろ)えました。欲しいと願っていると、買えるものですね。
今、勤めているカールスルーエ音楽大学の教授になったのは、92年。公募には世界各国から37人の応募があり、うち7人が選考を受けました。僕以外は皆ドイツ人。公開演奏と公開レッスンで、適性を判断されました。同僚の教官はオーボエのトーマス・インデアミューレやトランペットのラインホルト・フリードリヒ、クラリネットのヴォルフガング・マイヤー、メゾソプラノの白井光子さんら皆、一線で活躍中の演奏家ばかり。打楽器に関しても、充実した演奏と教育が両立できる人材を求めていたと思います。このポジションを得て、安心して楽器も買え、演奏活動もできるようになりました。

(聞き手/ザ・フェニックスホール 2002年) 2007年10月更新

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中村功 (パーカッション)

なかむら・いさお ドイツを中心に活躍するヨーロッパで最も信頼と評価の高い打楽器奏者。1958年大阪生まれ。81年、東京芸術大学卒業。89年、フライブルク国立音楽大学卒業。86年、ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習会でクラーニッヒ・シュタイナー音楽賞受賞。92年度青山音楽賞特別賞受賞。これまでに、“Michael’s Reise um die Erde ソリスト編”(シュトックハウゼン)、“Risonanze Erranti”(ノーノ)、 “L’art Bruit”(カーゲル)、 “線Ⅵ”(細川俊夫)など多くの作品を初演。シュトックハウゼン、ケージ、カーゲル、ホリガー、イヴォンヌ・ロリオ、ザールラント放送響、オルフェウス室内管、ケルン放送響、東京フィル、バイエルン放送響、シュトゥトガルト国立オペラ管、ボルドー国立オペラ管などと音楽祭、演奏会、テレビ、ラジオ、CD録音などで共演。また、音楽祭「ベルリン音楽週間」から招待され、ベルリン・フィルハーモニー室内楽ホールでリサイタルを開催。そのほか、ザルツブルク音楽祭、ウィーン・モデルン、ルツェルン音楽祭、パリの秋、ムジカ・ストラスブール、ハーダーズフィールド・フェスティバルなど、数多くの音楽祭で演奏を重ねている。95年、ピアニストのハン・カヤと“Duo Konflikt”を、また2006年には “Isao Nakamura Ensemble”を結成。後進の指導にもあたっており、94年からダルムシュタット国際現代音楽夏期講習会常任講師、92年からドイツのカールスルーエ国立音楽大学教授。