2013年05月16日 公演情報

小沼純一が語る 映画『珈琲時光』の魅力


 侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の『珈琲時光』は、小津安二郎の生誕百年を記念して2003年につくられた映画です。舞台は東京と東京近郊の町。主人公の陽子(一青窈)は都会で独り暮らしをしていますが、実家に戻ってお墓参りをすることもあります。両親も東京にやってきて、陽子の部屋に泊ります。陽子には友だちの肇(浅野忠信)がいて、古本屋をやっています。事件やドラマティックな出来事は何もおこりません。何かあったとしても、セリフとしてあらわれてくるばかり。東京の繁華なところと下町、東京近郊の町、それぞれの場所があり、それぞれの音の風景があります。

 都会のなかでも、繁華なところと下町では音の風景が違います。音の風景。1960年代にカナダの作曲家、マリー・シェーファーが「サウンドスケープ」と呼び、いまでは多くの人たちがつかい、また応用した言い方がされることばです。おなじ場所でも、一日の時間帯によって音は変わってきます。もっと広いスパンでなら、一週間、一年と変わってきます。さらに十年五十年と広げていったらどうでしょう。いまでこそ繁華な街も、人通りなど滅多にない宿場町だったかもしれません。さまざまな喧噪が打ち消している川の音もずっとはっきり聞こえたでしょうし、鳥の鳴き声もあったはずです。季節によって草や木々の葉も異なった音をたてていたでしょう。映画では、お茶の水・神保町の繁華な界隈と、鬼子母神ちかくの商店街、そして東京近郊と三つの場所が視覚的にも聴覚的にも対比され、観る人たちは知らず知らずのうちに、そのサウンドスケープを体感することになります。

 『珈琲時光』は寡黙な映画です。陽子と肇はむきあっても必要最小限にしか喋らない。ことばとことばのあいだには、まわりに音が聞こえます。ことばが少ないかわりに、観る人は映画のなかにある音のありようを、耳でたどってゆくことになります。しかも、肇にはちょっとした趣味があり、それは映画をご覧になればわかることですが、ある音を「聴く」ことだったりするのです。

 じつは、肇だけではなく、陽子もやはり「聴く」人です。肇ほどはっきりわかるわけではありません。この主人公……ライターなのでしょうか……は江文也という人物について調べています。

 江文也は1910年台湾生まれの作曲家です。台湾とはいえ、当時は日本の領土でした。本州に「国内留学」をし、若いうちに知られるようになります。第二次世界大戦中には北京でしごとをしていました。しかし終戦が訪れたため、出国することができず、かの地で1983年に亡くなってしまうのです。かつては高名だった江文也のピアノのための作品が、映画のなかでは短く、何回かながれます。映画には余分な音楽がなく、エンディング・テーマをのぞけば、江文也の音楽だけがひびくと言っても間違いではありません。

 陽子は、江文也の音楽を、じっくりと聴きこんだりはしません。すくなくともそういうシーンはありません。むしろ音楽に耳をかたむけないことで、まわりにある音に耳をひらいている、サウンドスケープのなかに身をおいているようにみえます。と同時に、ライターとして、仕事だから当然ともいえるでしょうが、陽子は江文也の遺族といった人たちから話を聴くのです。最終的には書くことにむかっていくかもしれないけれど、まずは声を、ことばを聴く。このありようは、肇が、しごととしては古書店にいて、文字とかかわっていることと、ちょうど対になっているのかもしれません。

 ちょっとばかり内容に踏みこんでしまったかもしれません。先にも記したように、『珈琲時光』は、ストーリーとしての驚きはなく、それだけにスクリーンにむかってこそ映像と音響を体感できる作品なのです。そこにいて、視覚と聴覚をひらくことで映画作品という時間のながれが楽しめます。

 日々の生活は音に満ち満ちています。何をするにも音がする。でも、意識することはありません。耳にはいっているけれど、気にしてはいない。そうしたなかからも、必要なサインはこぼれおちずに拾われます。ひとには慣れがあります。はじめのうちは気になることが、いつのまにか気にならなくなることがある。うるさいな、とおもったものでさえ、ふつうのことになってしまったりする。

 映画でも同様のことがおこります。映画館が暗くなり、映画の本篇が始まると、はじめのうちはひとつひとつの音が新鮮です。あ、くるまの音が。女性の声が。そして男性の声が。そこに音楽がかぶさってくる。だんだんと映画の方向性が、ストーリーが掴めてくると、逆に、そうした映画の持っているストーリーにのって、いろいろな音が耳にはいっていながら意識しなくなっている、気づかなくなってしまっていることも少なくありません。

 『珈琲時光』をご覧になったあと、日常の音のありように、もしかすると、敏感になっているかもしれません。


(C)2003 松竹株式会社朝日新聞社住友商事衛星劇場IMAGICA
■小沼純一と聴く「珈琲時光」
2013年6月15日(土)16時開演。 演奏は榎本玲奈(ピアノ)、通崎睦美(木琴)。 江文也:台湾の舞曲、スケッチ五曲、バガテルより抜粋、木琴とピアノのための「祭りばやしの主題による狂詩曲」(予定)コンサートチケットをお持ちの方は、終演後、「珈琲時光」全編 上映(約100分)を入場無料でご鑑賞いただけます。指定席。一般¥3,000(友の会価格¥2,700)。学生¥1,000(限定数・電話予約可・当ホールのみのお取り扱い)